4章 お天気雨7Days。

 

「――なんてことがこの休日にあったんだってねっ」

 月曜日。

 誰もが心地よい休日から追い出され憂鬱になる悪魔の日。きっと世界を一週間で創り上げたとされる神様でさえ、この日は憂鬱だったに違いない。

 そんな月曜日に活き活きと、尚且つ嬉々としてこの前の休日に何があったかを語る一人の少女。茶色いウェーブの掛かった長髪を風で揺らしながら、強気な垂れ目を細めチェシャ猫のように笑っている、この少女。

 名を人知ひとしりしるべ――胡桃高校が嘆く変人四天王の一角『名探偵』である。

 制服を若干校則違反気味に着崩したそのスタイルは、普通なら教員たちに注意されてあたりまえなのだが……彼女の持つ『情報』という武器の前に、彼ら学校の――良い意味でも悪い意味でも――基盤である教員たちは手も足もどころか口すら出せない。だれも自分から藪をつついて蛇に噛まれたくは無いのだ。

 触らぬ神に祟りなし。

 相手が死神だとしたらなおさらだ。

 情報を制する彼女は、この情報化社会において紛れもなく死神なのだから。社会的抹殺――行き場を失い、生き場を奪うその行為は、下手をしたら実際の殺人よりも恐ろしい。

 そんな彼女が話す出来事、当然ながらそれは彼女自身の話なわけが無い。 

「暇なんだな」

 自分の休日の情報を正確に言い当てられ人知を暇人と断定したのは、やる気なさげに半眼に開けた目をした少年。めんどくさがりのこの少年のその性格を表すかのように、目に掛かるくらいの長さの髪はボサっとしており、全体的に怠惰な印象を引きずるこの少年、名を人海空ひとかいくう

 胡桃高校の生徒のその大半の彼に対する感情は、同情だ。

 人知と違い、校則違反気味の制服の着こなしをしているわけでもなく――きっちりと着ているわけではないけれど――変人四天王でもない、傍から見たら人海は人知に付きまとわれている可哀そうな他人ひと。まさしく他人ひと事な当事者以外の生徒たちは、同情というわかりやすい盾を構えその後ろから出てこない。誰も当事者になりたくないのだ。

 あたりまえのことだが、他人でいるからこその他人ひと事なのだから、故に同情という盾を持ち身を守る。他人ひとではなく自分を守る。なにせ他人ひと事なのだから当然だ。

 そんな傍から見たら加害者と被害者のような二人は決まりごとのように自分たちが通う屋上に居た。時刻は昼休み、世の学生たちの大多数が学校生活を送るうえで三本指に入るくらい楽しみにしているであろう時間。

 例に漏れず人知しるべも楽しみにしているし、現在進行形で楽しんでいる。

「暇とは失礼ねー、これでも私はいろいろ多忙なのよ? 安楽椅子探偵なんて空想家と違って、私は自分で情報を得ているんだからねっ」

「つまりストーカーだろ。他人ひとに付きまとってる暇があったら勉強しろよ。知ってるか? 学生の本業は勉強なんだそうだぜ?」

「心にもおもってないことよく言う……キミのここ最近のテストの点数と成績を事細かに、教えてあげようか? ――全校生徒に」

「……すいませんでした」

 これだから情報を持ってるやつは嫌いなんだと心の中で吐き捨てながら、人海は自らの敗北を認めた。

 その様子を見ながら人知は、わかればよろしいと笑みを浮かべ思う。

(ああ、楽しい。でも――見た感じなにも変わっていないかな……?)

 今日この場に来たのは――それどころか休日にわざわざ人海と猫野充ねこのみつるを引き合わせたのは――こうして人海の様子を観察し調べるためなのだから。

 猫野家の事情を聞いて、聞かされて――人海がどんな反応をするのかを知りたかった。

 たったそれだけのために、猫野家の事情を調べ上げ、充を誘導し――たとえトラウマを抉ることになろうとも――暴露させた。

 人海が高校に入学し今に至るまでの1年の間に遭遇した事件、そのほとんどが今回と同じように、人知が仕組んだ――いや、誘導したものである。

 人知が事件を起こす必要はない。

 なぜなら事件はすでに起こっているのだから。あとは都合のよい事件に関わっている人物に、それとなく情報を流し、人海に合わせ、巻き込むだけ。

 そしてソレを特等席で眺め、人海の反応を観察する。

 そしてソレは人海だけじゃなく、この学校――いや、この街の他人ひと達の大多数もターゲットである。ただ人海はその中でもより重要度が高いというだけ、その証拠に今この時も人知は、人海以外をターゲットにした事件も並行して、干渉し観賞し観照している。

 それが人知のライフワークである。

 今回もその一つ、なんてことはない、ここまでは・・・・・ただの日常の延長線。


「それで――キミは何か変わったのかな? …………どうするのかな? お望みとあらばキミが聞いたよりももっと深い話や、別視点の――兄猫さんじゃなくて猫ちゃんの――話も事情も教えてあげられるけど?」


 だがこれは違う、人海以外にこんな風に聞いたりしない。結果だけでなく経過を観察するのは当たり前だが、こうして直接聞くのはあまりいない。それに……コレは人知の目的の外にあるモノだ。

 延長線どころか境界線を越えている。

 だから――、

「どうもこうも、どうもしねぇよ。興味ない。昨日あの女子中学生の兄にも言ったけど、今まで通り、女子中学生・・・・・が望む限り・・・・・屋根を貸すだけだよ・・・・・・・・・

 ――そういつも通りに言い切った人海に、安堵したのかそれとも落胆したのか、人知にはわからなかった。

 そして、本当に人海がなにも変わっていないのかどうかも――ソレは誰にもわからなかった。



 1



 火曜日。

 もうすでに放課後であり、この日の学園内でのイベントはすでに終わったこの時間、世の学生たちが”さあここからが本番だ”と声高々に主張する時間。しかし、学生が学生である所以は学校に所属し通うことであるのは明白なのだから、彼ら彼女ら学生諸君にとっての『本番』は当然ながら放課後ではなくその前であり、放課後というのは所謂ロスタイムのようなモノである。

 そして、そんな試合終了間際――もうすでに試合内容が出そろった後の消化時間――から、今日この日の人海空の一日が始まる。

 人海空にとっての今日という火曜日はここから始まる。

 と、カッコつけて表現しても、その実、ただ単に描写するような出来事がこの時まで何も起きなかったというだけのことである。

 人海空はボッチだ。

 基本学内で会話らしい会話をするのは人知しるべとだけであり、人知が人海に会いに来なければ、人海の学内での出来事なんぞ、何もない。灰色どころかそもそも色がない。そんな青春とも呼べないようなモノなどに、視点を合わせてもしょうがないだろう。

 人海空の通う高校での『本番』は、大多数の他人ひと達がこういう青春は送りたくないと思うくらいに、何もない時間だ。

 しかし、放課後。

 学校がすでに終了し――青春という試合時間の正に本番を消化し――ロスタイムのこの時間の出来事を学生達(特に男子)が知れば、うらやましいという意見も多く出てくるだろう。ロスタイムとはいえ、馬鹿にできたモノではない、ロスタイムに劇的なドラマが詰まっていることだって世の中珍しくないのだから。

 つまり、どういうことかというと。


 そこそこかわいい女子中学三年生が、我が家の玄関の脇で――それもまるで捨て猫のようにダンボールの中に三角座りで――自分の帰りを待っていたら、ソレは世の男子高校生にとって馬鹿にできない青春であるのではないだろうか?


 まぁ当事者たる人海空にそんなことを聞いても、

「興味ない」

 とお決まりのセリフが返ってくるだけだろうが……。



 *



「…………」

「…………」

 玄関先で見つめあう男女。

 そう表されるとまるでラブロマンスでも始まりそうだが、無論そんなことはない。そもそもラブロマンスと評されたいなら、玄関先で捨て猫のようにダンボールに三角座りしている少女とソレを見下ろす少年という、シュールな絵図をどうにかしなければならないだろう。これで互いの表情が無表情でなければ、もうすこしマシな絵図であったのかもしれないが……。

 そんなどこか気まずい空気の中、見つめあうこと一秒、二秒……もうすでに、ダンボールに収まっている少女――その名も猫野珠、いろんな意味で冗談の塊のようなこの少女。三枝第二中学校の制服(ブレザータイプ)を愛用し、肩口で切りそろえたショートカットに若干釣り目気味で常に無表情な中学三年生――にとってその見つめあっている時間はとても長く感じられた。それはもう時間の単位を秒ではなく、分とか時間でたとえた方がいいくらいに感じていた。

 というのもこの少女、無表情――しかも若干の釣り目――であるため、ふてぶてしくダンボールにさも当然と言った風に居座って見えるが、その実ただ単に恥ずかしさのあまり固まっているだけである。

 (……なんで、もう帰ってきてるのッ!?いや、えっと、これは違くて……なんか、いい感じに置いてあったし? 中に座布団置いてあってここに入って待ってろと言わんばかりだったし? ちょっと気になったていうか魔がさしたっていうか? いやもうホント……こっち見ないでください。穴があったら入りたい……むしろもうダンボールの蓋閉めればいいんじゃないかな……あれ? 閉まらない……?)

 無表情かつ唐突にダンボールから半身出ていて、明らかに収まりきらないのに蓋を閉めようとする様は、ただただ異様なだけだった。

 というかどうしようもないほど混乱していた。

 表情には出ないが――上記のような奇行からも見て分かる通り――この少女、猫野珠は感情がないわけではない。むしろその感情は行動や雰囲気に如実に表れるため、その無表情に反してわかりやすい。

 感情表現豊かなポーカーフェイス。

 猫野珠を今風に言うなら、これほどピッタリな人物はいないだろう。少なくとも人海周りでは。

「…………」

 そんな少女を見る人海の目には温度がない。冷たいとかそいう次元でなく、何もない。

「……ぁ……ぅ……」

 猫野珠の兄――猫野充曰く、ガラス玉のような眼に見つめられ、猫野はさらにパニックに陥る。

 主に恥ずかしさで頭が沸騰した猫野は、未だ閉まらない蓋という難解なミステリーを解決するために、一つの答えを導き出した。

 そうだ私が猫じゃないから閉まらないんだ!

 茹だった頭で導き出された答えは確かに正解だったが――、


「に、にゃー…………」

 

 ――如何せんその行動は盛大に間違っていた。

 天地がひっくり返ろうが、猫野が猫の声真似をしようが、猫野は猫になれない。

 どれだけ変わろうと願おうと人は人間から変われない。

「…………」

「…………」

 結果、ただ単に恥を上塗りしただけで、人海にちょっとかわいいと思わせただけである。しかし、関心があっても無興味である人海空、その瞳に乗る色は薄い、故に猫野がソレに気づくことはなかった。

 というか、今現在猫野にそんな余裕はない。ついに蓋を閉じようとする手の動きさえも止まり、猫の鳴きまねをした状態――無表情ながらも上目遣い――で、あれだけ姦しかった思考も停まり、ただ彫刻のように留まっていた。

 目の光の消え具合がなんともよかった。

 とは後に人海空が語ることになるかもしれない感想である。

 とはいえ、困っているのは人海も同じだった。

 この件のダンボール事態、もとい自体は人海が用意し置いたものである……が、その存在自体人海は忘れていた。置いたのはつい昨日のことであるが、寝て起きたらもうすでに頭の中にそんな事実はなかった。

 今朝家を出るときにもソレの存在を視界の端に捉えているはずだが……そんな記憶はなかった。

 人海空の『無興味』という人間性は様々な形で弊害をきたしているが、その内の一つがこの記憶力の悪さである。人海は他人ひとに興味を持たない、そして人海は興味がないことに関してあまり記憶力がよろしくない、だからこそよく人物を忘れるし、日常的に会っている人物の名前すら忘れる、現に人海は猫野の名前をよく忘れる。ただ、人海に代わって言い訳をさせてもらえるのなら、人海は普段猫野珠のことを『女子中学生』と呼んでいるからであり、言うなれば、幼少時両親の名前を覚えてないのと同じである。

 まぁ、自分の『家族』にすら興味の無い人海は、高校二年生現在でさえ、自分の両親の名前を覚えていないのだが……。

 閑話休題。

 そんなこんなで、困っていた。ダンボールの存在を忘れていた人海にとって”猫野珠INダンボール”などというサプライズ(猫野鳴き真似を添えて)なんて、ダンボールを置いた時でさえ予想していなかった。置いた結果どうなるなんぞ興味もなく、想像すらしなかった人海空自身の落ち度、自業自得と言われればそのとおりであるが、困っていることには変わりない。

 学校から帰ってきたら、女子中学生がダンボールに入って三角座りをして待っていた――しかもソレに気づくと行き成り猫の鳴き真似をしてきた……しかも無表情で――なんて状況どうすればいいのか?

 そんなもの、ボッチであり、コミュニケーション能力が若干(?)欠如している人海に分かるわけがない。

 だから――、

「――ちょ、ちょっと待って!! せ、せめてなんか反応してっ!? このまま放置で家に入ろうとしないで!?」

 ――人海は無言のまま部屋に入ろうとしたが、鍵を開けた音で復活した猫野に止められた。

「…………」

「な、なに……?」

 止められたことで猫野に振り返る人海、目に映るのは自分で引き留めたくせに狼狽する猫になれない猫野珠。

 反応しろと言われた、リアクションを取れと要求された人海、その逆に要求した猫野。

 猫野は思った、どうせ”興味ない”といつもどおりキャラクターどおり

の反応が返ってくるんだろうと、安直に、安易に、いっそ安心すら覚えて。

 しかし、それは甘いと言えるだろう。そして、某名探偵へんじんはこう言っただろう。

「甘いねー、甘い甘い。人海空という人間は『興味』はなくとも『関心』はあるんだよっ。ふふふ、それに――彼だって『男の子』なのだよっ?」

 つまり、どういうことかというと――

「――首輪とか着けようか」

「へ、変態っだっっ!?」

 ――人海空も立派で健全な男の子へんたいだったということだ。

 


 2



「さて、では互いにどうにかしなければならない問題のために、話し合おうじゃないか」

 水曜日。

 平日の折り返し。

 今日この日を耐え抜けば、あと二日で休日にたどり着ける。だから頑張ろうと、落ちかけた顔を無理やり上げ、再び歩く活力を漲らせる……かもしれないそんな曜日。

 そも、逆に休日を意識するあまり、むしろ一日が長く感じるきっかけになるかもしれない日でもあるので、一概にどうと決めつけることはできないだろう。

 月曜日と違い休日から追い出された直後でもなければ。

 金曜日のように休日を控えてるわけでもない。

 どうとでもなり。

 どうにでもなって。

 どうでもいい。

 中間点。

 折り返し。

 どちらにも傾いて、どちらでもない。

 果たして自分はどちら側だろうか? 

 人海空は考えない。

 人海空は思わない。

 ――だというのに、

 ――だとしても、

 他人ひとでない自分のことなのだから、感じ入ってしまう。

 いつかの日と同じようにファミレスの4人席、その人海の向かい側に座り、話し合おうと言ったこの男――猫野充ねこのみつる。この『兄』であることに命を懸けるこの男を前に、

 考えなくとも。

 思わなくとも。

 感じ入ってはしまう。

 猫野充のことなど興味ない。

 その話の内容にも興味ない。

 議題の中心の人物にも――興味ない。

 だが、それでも、他人ひとではない、ヒトではない自分自身に対してだけは――、

「『兄』である俺たちは、どうしたらお互い自分の『妹』と仲良くなれるんだろうな……」

 いっそ哀愁を通り越して、悲観的にそうつぶやくように言った猫野充を見て、考え、そして思う。

 ――果たして本当に自分は『兄』と言えるのだろうか?



 *



 放課後。

 今日も今日とて何ごともなく、平穏に平坦に平日を半場以上過ごし終え、黄昏の空を見上げるはずだった。少なくとも、人海空は考えるまでもなく思うまでもなく、自然に信じて疑うことがなかった。

 たとえ、

「今日のことはまぁ、私に任せといてよっ。そっちはそっちで話せばいいし、私は私で話すことと人がいるからさっ」

 昼休みにふらっと現れた名探偵に、そう事前に告げられていたとして、人海空が興味を抱くわけがないのだから。

 だから、

「やぁ、人海君。ちょっとお互い相談したいことがあるだろう? ちょっとファミレスにでも行って会議でも開こうじゃないか」

 こうして猫野珠の兄――猫野充に校門を出たところで、捕まりそのままファミレスに連行されるなんてこと、想像はもちろん夢にも思っていなかった。

 そして現在、この前と同じファミレスで、前と同じように猫野充と人海空は座っている。違うところがあるとすれば、今日注文されているのはドリンクバー一つだけであり、猫野充は水を飲んでいるということと、先日泣き腫らしたのを見ていたアルバイトのウェイトレスが、興味ありげに人海たちのことをちらちら見ていることだろうか。

「さて、俺たちは互いに、自分の妹と仲が良くないという、大変看過できない事態に身を置いているわけだが……。さて、どうやったら俺たちは妹となくよくなれるんだろう? もう、仲良くっていうか……せめてまともに話すくらいのとこまででいいから関係改善したい」

 ウェイトレスの視線と、過去の涙をまとめて振り切って、しかし現状を開き直れない猫野充はそう弱々しく言った。

 強面の作業着を着た見た目若干厳ついおっさん(今年で19歳)が妹が冷たいと嘆くさまは、世の思春期を迎えた娘を持つお父様方の向う脛が痛みかねない光景だが、あいにくとこちらを見ているのはウェイトレスただ一人である。

「諦めれば――」

「諦められるわけないだろう!!」

 現状最も面倒がない解決というか終末方法を提示した人海は、言い切る前に遮られた。

 そもそもそうして開き直れないからこその相談――いや、会議だったか――だというのに、この人海の答えはあんまりだろう。誰も彼もが他人ひとに興味が持てないわけじゃない、そもそも人海空以外の人類の中でどれだけの割合で、他人ひとに興味がない『無興味』という人間性を宿しているニンゲンがいるというのか。少なくとも猫野充は”生まれついての大根役者”以外の特性は持ち合わせていない。

「そう言われてもな……」

「なんだい?」

「そもそも俺に相談するのが間違いだと思うんですけど?」

「そんなことはない。君も俺も同じ『兄』だろう? しかも妹に邪険に思われるというとこも同じじゃないか」

「そこだけ聞くと同じだけどな……。まぁ同じだとして、つまりそうなると俺も失敗したわけですけど、そんな奴に聞いても無駄だと俺は思うんですけど?」

「失敗から学ぶのは生物の基本だろう?」

「傷の舐めあいとも言いますね」

「傷の舐め愛は家族愛の一種だからね」

「……かもですね」

 溜息とともにそう言った人海は、どうにも口では敵わないと悟る。そもそも、口で勝ったことなどほとんど無いのだから、それは今さらというものだろう。

「まぁだとしても、やっぱり相談役としては間違ってると思いますけどね。俺も妹も、納得して今のこの関係なんですから」

「でも納得はしても、望んではいないだろう?」

「少なくとも妹は望んでたみたいですけどね。俺が家を出てアパートに一人暮らししてるのは、妹に”出て行け”と言われたからですし」

 人海空は『無興味』だ。だがその家族までそう・・なのか? と言われればソレは否としか答えられない。一般的で普遍の家庭に、突然変異で人海空むきょうみが生まれたのだから。

 変ではなく、ただただ異常なだけのニンゲンが、普通の家庭で過ごすことはできるのか、ソレは今の人海の現状の通りである。そこには確かに様々な経緯いきさつがあり、憤りがあり、生き方があったとしても、人海空が自身の妹に蛇蝎のごとく嫌われ、避けられ、恐れられた結果、出て行けと言われソレに応じたのは確かなのだから。

 そして、基本的に、人海空という人間は人の口車に乗せられながら生きている。誰かの所為になどしたことなど一度もないが、同時に自分だけで動いたことなど一度もない。

 口は災いの元。

 しかし、それは誰にとっての災いで、誰の口が災いなのか。

 それは口にした側にも、口にされた側にも分からない。

「じゃあ、やっぱり問題ないね。君は嫌っていないし、むしろ妹の――えっとなんだっけ? 陸実むつみちゃんだっけ? 人海陸実ちゃん――のことを想って家を出たんだろう?」

「…………」

「そもそも、君がなんて言おうと俺には君しか相談する相手がいないんだからしょうがないね。……君の事情とその他もろもろを教えてくれた『名探偵』ちゃんは、相談したら料金高いだろうし」

「……個人情報筒抜けですからね」

 人海は脳裏にチェシャ猫ような同級生を思い出す。とりあえず、現実では手も足も口すら出せないので、想像で殴り倒しておくことにした。

「それにだよ――たとえ嫌われようと『妹』を想い続けるんなら、それならやっぱり『兄』なんだよ。だから、諦めることだけはしない。俺は『兄』であることを諦めない」

「……それでいいんじゃないですか?」

 結局、相談事というのは相談する側はすでに答えを得ているものだ。

「だから君もあきらめたらいけないよ」

「……いや、そうでなく。この会議で最初に言ったことですよ”どうしたらお互い自分の『妹』と仲良くなれるんだろう”つまり、諦めなければいいんだと思いますよ。お互いに・・・・

 相談者は答えをすでに持っている。ならばなぜ相談するのか? それは答えを持っていることに気づいていないから。

「ふむ……つまり?」

「そうですね……つまり、差し当たって諦めず、邪険にされようとも、話しかけ続ければいいんじゃないですか?」

 だがもし気づいていて相談するのだとしたら――

「…………やっぱり君に相談してよかったよ。そうだな……まず、そこからだ。俺は……俺がずっと避けてきたんだから、歩み寄るなら俺からだ」

 ――答えを認められなかったか、

「シスコンお兄ちゃんなら、ウザったいくらいに話しかけないとやっぱりダメなんですよ。『妹』のことはなんでも知ろうとしないとですね」

 ――答えから目をそらしているかだ。

 ふと、人海は思った。

 妹の通っている中学校すら興味がなくて知ろうともしないのに、自分は『兄』なのか? ――ということとは別に、猫野充のシスコン話を聞き流しながら、ふと思った。



 今日相談にのってもらったのは――はたしてどちらだったのだろう?



 3



「ところで『名探偵』さんて誰? 先輩とどんな関係?」

 木曜日。

 今日も今日とて無色の青春をやり過ごした人海空は、ダンボールで丸まろうとしていた赤い猫野珠に自宅に入り込まれると同時に、逃げ場をふさぐように鍵を掛けながらそう言われた。

「どんなって言われてもな……」 

 そんなものは考えたこともない。だからわからない。

 これが胡桃高校の生徒たちから見た関係を言えばいいのなら、考えたことのない人海でも答えられる。それは加害者と被害者。

 被害者は人海空だ。なにせ観衆からの被害も一身に受けているのだから当然だ。

 ガチャリ。

 ガチャ。

 ガチャ。

 ガチャリ。

「……で?」

 しかしそんな答えは望まれていないことは、人海でもわかる。興味がなくともわかるように――それこそ猫のしっぽのように――猫野は鍵を開け閉めして主張している。

 私不機嫌です。

 表情がなくともここまで態度に出されれば、人海でも気づく。まぁ気づくだけで『なぜ不機嫌なのか?』という疑問は持たないが。

「あー……いや」

 とはいえこうも不機嫌だとさすがの人海も狼狽える。

 不機嫌な女はメンドクサイというのが、知ろうともしなかった体験談だ。因みに、その貴重な体験をさせてくれるのが、主に件の人物である『名探偵』こと人知しるべだ。どうやら彼女は人海にとってどうしようもないほどのトラブルメーカーらしい。

 そうなると、やはり人海と人知の関係は加害者と被害者というのが相応しいのかもしれないが、それは人海も人知も、両者共に納得しない。

 ではなにか?

 今ソレを正に訊かれているのだ。

「……友達?」

「友達ッ!? ……と、友達ッ!?!?」

「……いくら何でもその反応は失礼だろ。確かに自分でも合ってる自信はないけどさ」

「えーなにそれ。つまり友達じゃないの? イッツ、アンサー?」

 そういうおまえも友達いないだろ。というかなんだその馬鹿丸出しの英語とも言えない言語は。

 そう反撃することはできなかった。何が悲しくてそんなむなしいボッチ同士の殴り合いをしなくてはいけないのか。性質が悪いのはノーガードどころか、吐いた言葉で殴ると自分も傷つくということだ。

 しかし、失礼だとは言いつつ、猫野のこの反応に人海は納得もしている。

 疑問を持っている。

 果たして、人知しるべは人海空にとって――いや、互いにとって、互いを友達と言えるのだろうか?

 答えは、

 答えは、

 答えは、


「――分からねぇよ」


「ふうん……? 結局? ――で?」

 ガチャッジャンッッ!

「先輩……そうやって微妙にシリアス感出してれば、誤魔化せるとか思ってない?」

 錠前がギロチンのように上がって落ちた。

「……べつに?」

 冷汗が頬を伝うが感覚する。

 俯き影がさすように――いつものように、考えるのがめんどくさくなったり、そもそも何も考えてないときのように――人海が答えたら図星を付かれた。

 ここ最近の会話は、もういろいろメンドクサイため、こういう反応で人海は返している。そうすると、人海空の『無興味』という人間性のおかげで――あるいは所為で――他人ひとは勝手に想像して納得してくれることが多い。

 人海は基本的に人の話は聞くが、聞いたことに関してあまり考えない。それこそ興味がないのだから、そんなメンドクサイことはあまりしない。

 そして、今回の人間関係に関する質問なんて、考えるまでもなくメンドクサイ。

「じとー……。先輩……いくら興味がないからって、そうやって意味もなく誤魔化すのはどうかと思うよ? 『名探偵』さんとやましい何かがあるわけじゃないんでしょ?」

「やましいねぇ……」

 表情が変わらない代わりに擬音を口に出しながら言った猫野の言葉に、今度こそはちゃんと人海は考える。

 やましい何かがあるのか? と聞かれればそれはある。

 あるとしか答えられない。

 しかし、ここであると答えれば猫野は勘違いするだろう。その『やましいこと』が男女のそれであると誤解されるだろう。

「……え? まさかなんかあるの? ていうかそんな人間関係築けるの? ……友達って言われるよりびっくりなんだけど」

 言われるまでもなく、勘違いをする猫野。それもこれも胡乱げな回答らしい回答をしない人海が悪いのだが、その事実に人海は気づいていない。

「おまえが何考えてるか興味ないけど、ソレは違う」

 ただ勘違いされたことくらいは人海でも気づいたので、それは訂正しておいた。ちゃんと訂正できたかどうかは別問題だが。

「興味ないのに否定された……。はぁ……まぁ話したくないならいいんだけどね、ちょっと気なっただけだし……あ、嫉妬とかそんな気持ち悪いことじゃないよ?」

「嫉妬を気持ち悪い、て言うのはなんかすごいな。潔い」

「潔い……そんなこと言われたの初めて。うん……まぁ大概のことは私言われるの初めてだけど……、なんか自分で言っててダメージが…………」

 なぜだか勝手にダメージを受けているらしい猫野珠。人海は自分がどんな地雷を踏み込んだのかなんて興味がないため、猫野のことは安定の無視である。

 できることなら関わりたくない。

 それが叶わないことは、高校に進学した時にもう諦めているけれど……。入学初日で変態四天王に加えられた、空前絶後の問題児――人知しるべ――に目をつけられたあの時に、共に暗躍してしまったあの時に――他人ひとに関わらないなんてこと、できはしないのだと諦めさせられた。

 (ああ――だから、そうか。人知との関係なんて考えるまでもないんだな)

「……うん気にしない。それで、やましいことがないなら何でそんな渋ってるの?」

「……言葉が見つからなかっただけだよ。人間関係なんて普段考えないし、興味もないからなー、だから無駄に考えさせられた。関係なんて考えるまでもなかったってのに」

「……ふぅん? ずいぶん引っ張ったけど……どんな関係?」


「共犯者」


 そう言った人海は、玄関から離れて行く。すると、猫野との距離は開く。

 先ほどまで近かった距離が、近づいたと思った距離が開いていく。水平線のように、近づいた分だけ開いている。

「共犯者――か。それで主犯は『名探偵』なんて、酷い話もあるもんだわねー」

 知った分だけ、わかった分だけ開いていく。

 きっと自身はソコにたどり着くことは永遠にできない。そもそも猫野はソコに行きたくない、ソコで生きていたくない。

 水平線は眺めるモノだ。追いかけるモノでも、掴めるモノでもない。

 歩いていく人海の背中は遠くて近い。でもここ・・でいいんだと猫野は思う。

 この場所に居たいと思ってしまう。

「…………あ」

 そして少女は自覚する。

 自分も所詮ただの女子中学生だと理解する。

 そしてその距離を守るように、開いた分の距離を埋めるように、一歩一歩踏みしめる。

 水平線を目指さず、共に歩き出す。

 


 4



「はい。というわけで第二回! 兄の絆を取り戻せ会議を始めます!!」

「…………わーわーはじまりー」

 もはやお馴染みになりつつあるファミレスのお馴染みの席で、猫野充と人海空はテンションの落差が激しく会議の開始を宣言した。

「テンション低いぞー、人海君。そんなんじゃ妹に好かれないぞー? ……あ、嫌われるじゃなくて、好かれないがポイントね? だって俺たちもともと嫌われてるからね!」

(うざい……。いやホントもう、うざいとしか言葉が出ないくらいウザい)

 もはやキャラ崩壊と言って良いくらいのテンションに人海もゲンナリしていた。

 できることなら今すぐ帰りたい、帰ってダンボールに入ってる猫(女子中学生)を愛でて癒されたい。まるで、疲れが溜まりに溜まった花の金曜日に、ペットに癒しを求めるサラリーマンが面倒な上司に捕まったかのような、そんあ味のある表情を人海は浮かべる。

「うん? なぜこんなテンション高いかって? それは昨日から夜勤で寝てないからね! 深夜テンションというやつだよ――昼間だけどねっ!」

(うわぁ……。もう……うわぁ……)

 そんな人海の表情に何を勘違いしたのか、誰も聞いてないどころか興味もないことをベラベラとしゃべり、挙句の果てにはドヤ顔でしょうもないことを言い出す始末。

 あまりにあんまりなことに人海も溜息すら出ない。まるでメンドクサイ状態になった猫野珠のようだ。テンション高く喋り、最後にドヤるところが実にそっくりである。

 顔はあまり似ていないが、やはり二人は兄妹なんだなと思うくらいに、そのドヤ顔というか雰囲気が似ている。

「まぁ俺のうまい言い回しは置いておいて。……今日の議題はちゃんとあるんだ。そして、君に俺は文句を言わなければならない」

「えー……あぁぁー…………なんですか?」

 もうすでにメンドクサすぎて考えることと、受け答えすることを若干放棄し始めた人海は、どうでもよさそうに答える。

「…………この前の会議で君は、まず話しかけるところから始めよう。そう言ったね」

「……ええまぁたぶん」

 置いておいて、という自分ではなかなかうまい言い回しができていると思っていた猫野充は、人海がロクに反応してくれないのを残念に思いながらそう言った。

 対する人海はその言い回しに気づくどころか、今言われた――しかも自分が言ったらしい――事ですら記憶が定かではない。

 興味が無い人海は基本的に覚えが悪い。特に他人ひとに関することに対しての記憶力は本当にない。本当にそれは自分が言ったんだろうか? またなんかテキトウに返事した時に、勝手にそう解釈されたんじゃないだろうか? 

 そんなことすらどうでもいい人海は、曖昧に、肯定のような返事を返した。

「今回の議題はそこだ。同時文句もそこだ」

 この前の会議で出た結論、それ自体は確かに有意義なモノであったし文句もない。事実、猫野充は猫野珠との仲を良好にしたいと言いながら、目をそらし、何もせず、ただ状況が好転することを馬鹿みたいに願って望んで、自ら動かず猫野珠に臨んで行かなかった。

 そこには様々な想いがあって、言い訳があって、事情があった。

 恐怖。負い目。時間。慣れ。抵抗。劣等感。羞恥。疲れ。仕事。

 他にもまだまだ様々な感情と事情があるだろう。きっとそれらすべてが今まで動けなかった訳で、きっとそれらすべてが動けなかった理由じゃない。

 そんな、これらすべてをドロドロのスープのように溶かし込んだモノを飲み干し、いざ話しかけようとその重い一歩を踏み出した矢先、ある問題に直面した。

「君の家に入り浸っている……まではいいとして、肝心の珠が帰って来る時間が遅すぎて俺と時間が合わないんだけど。ちょっと……中学生の帰宅時間としては遅い気がすると思うんだよね兄としては。……しかも、日を追うごとに帰宅時間が遅くなっているような気がするんだよ。……わかるかな? 俺の言いたいこと」

「…………」

 わかりたくない。

 人海は心の底からそう思った。

 そもそも、人海は猫野珠にキチンと”遅くなる前に帰れ”と言っているし、遅くなって来たら露骨に帰れとも言っている。

 ……まぁ確かに、人海は猫野珠が家に屋根を借りに来るようになってから、自分が如何に押しに弱いかということを思い知らされているし、女子中学生の手作りご飯という甘い誘惑に負けているところもある。……正直餌付けされてる自覚もある。

 しかし、それでも自分はちゃんと帰れと言っている。タダで許している訳じゃない。そう声高々に言いたい。

「………………すいません」

 しかし、いややはり、諸々の自覚が存在する人海に言えるはずもない。

 最初こそ得意料理で野菜炒めを出され、残念女子中学生の烙印を人海は勝手に押していたが、今となってはその汚名は完全に返上されている。レパートリーも豊富で、もちろん味もそこそこ美味しい、しかも女子中学生の手作りというプレミア付き。独り暮らしの男でこの誘惑に勝てる奴はいないと、人海は断言する。

「……まぁ人海君に”逃げ場所になってくれ”と頼んだは俺だし、君のことは信用しているんだ。それに、珠が家に帰りたがらないのも仕方ないと思ってる。外に泊まり歩かれるより、遅くても帰って来るだけマシだというのも分かっている。……ただ俺も珠といちゃつきたいんだよ! なんだこのダンボールに入って蓋パタパタさせてるかわいい生き物っ、俺の妹だよ! つい『名探偵』ちゃんにお金払って売ってもらっちゃったじゃないか!! 大切な妹との逃亡資金なのにっ!?」

「知らねぇよ」

 取り出した猫野珠の写真を机に広げながら、頭を抱えるブラコンを見る人海の目は冷たい。実の妹の盗撮写真を持ってるとか、どんな事情が在れ、実刑判決を受けても仕方ないだろう。

 なお、実行犯……もしくは黒幕である自称『名探偵』は放置するしかないだろう。どうせ捕まえることなど誰にもできないし、アレが懲りることは永遠にない。人知しるべを知る者は、もう彼女の諸々を諦めている。

「……というわけで此処の支払いは割り勘でお願いね。これ以上、妹と二人暮らしするための資金を使うわけにはいかないんだ……なんなら奢ってくれてもかまわないよ?」

「絶対に嫌です。ていうか自業自得でしょう」

「それを言うなら、俺が今ここに居るのは君が妹を長時間拘束した所為だよ? 因果応報だね」

「……はぁ、まぁ奢るのが嫌なだけで割り勘は別にいいんですけどね」

「お? 今認めたね? 君が俺の大事な妹を長時間拘束していると認めたね?」

「認めてないです」

 (ただ飯の誘惑に負けているだけで、俺から頼んでいるわけじゃない。それに帰るのを引き留めてもいない)

 だから自分が拘束しているわけじゃない……とはさすがに言えない。だからこそ――半場無理やりファミレスに拉致られたのに――割り勘を承諾した。

 ただ言えないだけであって、認めたわけではない、と人海言い張るだろうが……。

「まぁ俺の私情を抜きにしても、あまり珠の帰りが遅くなることは許容できない。たしかに家の『両親』は君の……年頃の男の家に入り浸ってることどころか、そもそも遅くまで外出していることすら気づいてないだろうけど、だから親に心配される心配がないとはいえ、女子中学生が出歩くには危ない夜道を一人で帰ってることには変わらないだろう。だからもう少し早めに追い出してもらえないか? それにもしも『両親』が気づいた場合、役割を……いや役割しか重要視しないあいつらが、めんどうくさいことを言い出すかもしれない。そうならないために珠を早めに追い出してやってくれ。……俺と珠の時間を作るためにも」

「最終的に私情なんですね。……まぁ俺もアイツが帰る途中で襲われた、なんてことを聞いたらたぶん気分悪いですしね。わかりました首根っこつかんで追い出しますよ」

「うん……そうしてくれると助かるよ。これからはできるだけ、俺も珠の逃げ場所になってやるつもりだ……もう遅いとしても、俺はあいつの『兄』なんだから」



 5



「……今日はお泊りします!」

「………………はぁ?」

 妹が夜遅くに帰ってきてお兄ちゃん心配、という話をした翌日――つまり本日土曜日――にそう言い放った猫野珠。親の心子知らずとはよく言うが、兄の心も妹にはわからないのだろう。……まぁここの兄弟――というか家族――関係は特殊なので、例えにはならないだろうが。

 しかし、昨日の今日でそんなことを言われた人海空は寝耳に水だ。いっそ耳に水が詰まって聞こえなかったことにしたいくらいの事だが……、聞こえなかったフリができないくらいには明確に聞こえてしまっていた。

「いや、おまえ……それはダメじゃないのか?」

「……別に誰も気にしないから平気平気ー」

 無表情なのもあって、まるでなんでもないことのようであるが、これは大事であり大事件だ。少なくとも猫野珠の兄は気にするだろうし、本人もいっぱいいっぱいだ。心臓ははちきれんばかりに脈動しているし、今日食べたお昼の焼きそばがお腹から輪廻転生しようとしている。

 そもそも、人海が言うダメという意味もわかっているのだ。

 屋根を借りに来るのは良いが、泊まるのはダメ――それは二人の間に自然とできた暗黙の了解。もしくは屋根を借りるための条件。

 それを今破った。

 今までは絶対にありえなかったこと……いや、今までがあったからこそだろう。

 猫野珠は人を信頼しない人間だ。しないだけで――出来無いわけじゃない。

 ソレが人海空と猫野珠の違い。

 これまでの日常で。

 これまでの会話で。

 これまでの行動で。

 自分はただの少女だということを思い知っただけ。

 (私はこの人を信頼したい)

 そう思っただけ。

 人海空と半月以上こうして毎日一緒に過ごしてきた中で、人海がどういう人間かを知り、実感して尚そう思った。

 それはきっと他人ひとが知ればありえないと言うだろう。そう思っていられるのは今だけで、しばらくしたら、そんな事を思ったことを後悔すると、そう言うだろう。

 無論猫野珠だってソレを考えていないわけじゃない。信頼をしてこなかった彼女の、その辺りに対する恐怖心は、そして警戒心は高い。

 そもそも、猫野珠は人海空という人間と共に過ごした人間がどうなったか、今その人物が人海空をどう思っているのかを知っている。聞き知っている。

 このまま人海空とこのまま過ごしていけば、彼女のようになるのかもしれない。

 ソレは怖い。たまらなく怖い。このまま冗談ということにして、何事もなかったのようにここを出て、そのままもう二度と人海と会わないようにしようかと、本気で考えるほどに怖い。

 裏切りは辛い。される方でもする方でもつらい。

 あんな思いは二度もしたくない。だから他人ひとを人を信頼しないのだ。

 辛いのは嫌だから、どちらでも辛いのだから――だから逃げ出したのだ。

 他人ひとから、家から、家族から、そして自分から――逃げ出した。

 人海空を信頼したい。

 それも結局逃げているだけなのは気づいている。これは己の弱い部分を乗り越えようとしているのではないと……猫野珠は気づいている。

 自分はただの女子中学生だ。人海空のようにどうしようもなく、どうしようもないモノでもなければ、自分の欠陥を埋めようと足掻ける変人でもない。ちょっと家庭環境で、嫌な思いをしているだけの……ヘタレでか弱い女の子だ。

 だから当然――自分は一人では生きていけない。

 寂しくて、つらくて、苦しい。

 だから人海空ひとを信頼したい。

 だからこれは逃げだ。辛いことから逃げているだけだ。乗り越えるのではなく、乗り換えようとしているだけ。

 しかしそんな後ろ向きな感情を元にした決意だとしても、馬鹿にはできない。逃げるという行為は確かに褒められたものではないのだろう、だとしても馬鹿にしてはいけない。

 猫野珠の勇気を馬鹿にする権利など本人を除いて誰にもない。

 どんな理由が在れ、女子中学生が男子高校生の家にお泊りするというのは、大変勇気のいることなのだから。

「…………」

「…………はぁ」

 そんな二の足を踏み、踏み出した足を引きずるような重い思いなど、人海に分かるはずもなく、猫野がなぜ”泊まりたい”なんて言い出したのかも疑問にも思わなかった。ただ彼はそう言われたことに対して『反応』しただけだ。

 それは溜息という形で出て、猫野珠に多大なプレッシャーと不安を与えたが、このとき思ったことはただ一つ、そしてソレは猫野珠が不安に思ったことではなく、

 (昨日の今日でコレって、どう言い訳しよう……)

 猫野充が不安に思ったことで……すわなち今日この瞬間、猫野珠のお泊りは決定し、猫野充の決意は無駄になった。

「……やっぱり、ダメ?」

 とはいえ、人海が猫野の心情を察せられないように、また猫野も人海の心情を察することはできない。故に猫野は、おずおずとおっかなびっくり、不安を押し殺すこともなく無表情で、半場諦めたように聞いたのだが、

「いや、まぁいいよ。もうなんかいろいろメンドクサイし」

「…………ほんと?」

 あっけらかんといざ実際に許可が出てしまうと、猫野はソレを信じられなかった。

 「嘘ついてどうすんだよ。ま、明日は休みだしな……お前が泊まりたいんならどうぞ、明日は帰れよ」

「…………明後日は学校だしね、そりゃ明日には帰るよ」

 信じられない……信じられないけど、猫野は無理やり信じることにした。その方が自分にとって都合がいいから、だって自分は信頼したいのだから。

 しかし猫野でなくともやはり、人海が許可を出したことを信じられる者はあまりいないだろう。それこそたった一人『名探偵』人知りしるべ以外は信じられないだろう。

 少なくとも猫野珠と出会ったころ……というよりも、猫野充から猫野家の事情を聞いていなければ、人海がこうしてお泊りの許可を出すことはなかっただろう。雨宿りの一線を越えるその行為を許したりしないだろう。家庭事情に問題がある後輩を一晩泊めるくらいの人情は、人海にだってある。

 興味がないだけで、関心はあるのだから。

「じゃっ……お、お泊りも決まったことだし? そろそろ私はご飯を作ろうかな!」

「んーよおしくー」

 お泊りは決まった。気恥ずかしいを通り越して、今にも自分でも意味の分からないことを喚きながら、外に出て走り回りたい衝動に猫野は駆られるが、どうにかソレを抑えて台所に立つ。

 背中を押す声はどうにも気の抜けたものだが、それでも今の猫野にとってはとても心強く感じた。受け入れたもらえた気がした。

 もちろんそれは気のせいだ。そんなことは猫野も自覚している。

「さて……コレ作るの久しぶりだな……。がんばろう」

 だから、勘違いをホントにするために、受け入れてもらえるように――自分が受け入れるために、少女は台所に立つ。

 ソコは一つの戦場だ。

 猫野は一月に満たない程度しか、この台所を使ってはいないが、それでもここは彼女にとって主戦場で独壇場だ。回数だけなら自分の住む、あの雨の降る家の台所の方がよほど多い、しかし懸けた思いも何もかも、ただの回数では到底追いつけないほどの質がある。今度は――今度こそは信頼するのだと、信頼したいのだと……少女は望み臨む。

(……最高においしいオムライスを作りましょうっ! 私が・・一番自信のある・・・・・・・料理を・・・今度は・・・ちゃんと・・・・食べてもらおう・・・・・・・

 日が落ち土曜日が終わる。

 一週間最後の日が終わる。

 しかし、まだまだ夜は長い、二人にとってはここからが本番だ。

「私は、信頼したいんだから……期待に応えてよね先輩」

 猫野珠の最期の罠と試練が今宵始まる。



 *



「………………」

 朝が来た。

 何事もなく朝が来た。

 猫野にとって確かに夜は長かった。夕食、お風呂、就寝、その合間合間の余暇、どれをとっても猫野のにとって気を抜ける場面はなかった。

 夕食では人海に気づかれないように泣き。

 お風呂では、恥ずかしさと緊張とその他もろもろの所為で、冷水を頭からかぶり。

 寝るときは人海のベットに無理やり寝かされた所為で、緊張し眠れなかった……。

 そして常に、もしかしたら襲われるんじゃないか? という警戒をしていたためいつもより疲れたし、人海の一挙手一投足に反応してしまった。あとこれは完全に自業自得だが……人海と居る時は人海を試すために、ちょっと油断した格好をしているのだが、今日この日はさらに油断した――というよりもういっそ誘ってると思われてもおかしくない――恰好で過ごしていたため恥ずかしさがピークに達していたし、人海の反応が気になって仕方がなかった。

 結果休まる時がなく、まともに寝付くこともできず、夜を必要以上に長く感じていた。

 ちなみに、人海はいつも通りだった。いつも通り、適度に猫野を目の保養にしつつも、手を出さず、興味も湧かなかった。

 つまり完全に猫野珠の独り相撲だったわけである。

「…………裸ワイシャツって、あざといにも程がるよね。てかなんで私わざわざこれを選んだんだろう……これ、マンガとかだったらかわいいで済むけど……現実だったらただの痴女じゃん。変態じゃん……」

 初めてのお泊りで、いろいろな意味でいろいろな感情モノが上がりまくった結果が、今目の前にあるこれである。一晩経って冷静になった頭では、直視したくない現実がそこには映っており、昨日の”やっちまった”記憶がリフレインされる。できることならその記憶は夢か何かであって欲しいと、切に願うが……目の前にある鏡が見事に現実を反射してくれている。

「鏡の国に行きたい……」

 夢見がちな少女のように、現実逃避をしそうになる猫野だが、そんな暇はない。人海がいつ起きてくるのか分からないのだ。

 起きてくる前に、この寝不足で重い頭をシャワーですっきりさせて、朝ご飯を作らなければならない。もっと言うなら、早く下着つけて制服に着替えたい。

 猫野珠の普段着は制服だ、学校があろうとなかろうと、寝るとき以外はだいたい制服を着ている。だから早く落ち着ける格好で落ち着きたい。

 というわけで、お風呂に入る。

 風呂場はあまり広くない、安いアパートなのでソレは仕方ない。どうせ一緒に入ることなどないのだから、気にする必要はない……必要はないはずなのだが、どうしても何か意識してしまう、多感な女子中学三年生。お風呂につかるどころかシャワーすらまだ浴びていないのに、なぜか頭と顔が熱い。

 ふと、肌色が視界に入った。人海が風呂場に入ってきた――わけではなく、ただ鏡がそこにあっただけである。

 脱衣所兼洗面所にある鏡と違い、ソレは等身大が映る長方形の鏡だ。そうすると、猫野は今シャワーを浴びるため、当然裸である。タオル一つ身に着けておらず、遮るモノがないため、その肢体は余すことなく映し出されている。

 猫野にとっては見慣れた自分の裸体。その身体はお世辞でスタイルがいいと言われる程度でしかない。基本的に同い年の娘の平均より若干下である……胸に至っては、若干どころか普通に平均以下であるが、猫野はその事実を受け止めて、自分は貧乳ではないと言い張っている。膨らみはあるのだ、普通にあるのだ……小さいが。

「……別に、悪くないよね。そりゃ……モデル並みとか、美少女とか言われるほどではないけど、悪くはないよね?」

 もともと自信など有ったわけでは無いが、それでも総評で、平均より若干上――低くても平均的――な容姿をしていると、猫野は自覚していたが、昨日何事も起きず、いたって平穏に一日が終わってしまったため、なけなしの自信が萎んでいた。

 もちろん何か起こって欲しかったわけでは無い。現に何かが起きた時の為に手段は用意してあるし、そもそも人海が何もしてこないであろうことは、予想がついていた。

 だからこそ、あんな狂った格好(裸Yシャツ)ができたわけである。……別に寝間着は用意してあったのに。

「…………なんか、こうもノーリアクションだとちょっとショック……。いやまぁ、だからってアクションを起こされたら、ショックというか電気ショック食らわせるけど」

 乙女心は複雑だ。それが思春期ともなれば、もはや本人でさえも、自分自身の感情の機微を理解できていないんじゃないかと、そう思ってしまうほど、複雑怪奇で、摩訶不思議なモノである。

「朝ご飯……ベーコンエッグでいいかなー。簡単だし」

 つい10分程前では、自身の女性としてのプライドと、好奇心に頭を悩ませていた猫野だが、シャワーを浴びて出るころには、悩みは朝食の献立に変わっていた。

「それに……、これからもココに入り浸るんだし、毎日作るならやっぱり手を抜かないとね」

 献立の悩みは今日の昼食だけでなく、これから・・・・の大事な問題だ。、昨日から――いや、ココに入り浸るようになったあの日、ゲームセンターで会ったあの日から今日までの、その全ての総評で、そう決めたのだから。

猫野珠わたし人海空せんぱいを信頼する」

 そう決めた。

「ふふっ――さぁて! おいしい朝ご飯を作ってあげましょうかね! 朝が楽しいってなんか新鮮だなー……! 私寝てないけどねっ!!」

「うるっせぇッ!」

「ごめんなさいっ」

 ついテンションが上がってしまい、人海を起こして怒られてしまった。

 起こしてしまったのは悪いとは思う……でも、どうしても楽しかった。不機嫌に文句を言う人海空せんぱいを見て、怒られてはずなのに楽しくて嬉しかった。こんなにもいい気分なのに、ピクリとしか動かない自分の表情筋が、久しぶりに疎ましく感じた。

「でも先輩っ、もう朝だよ? 朝は起きる時間だよ? たしかに休日だけど、昼まで寝ててのそのそ一人で起きるより、こうして朝から女子中学生の後輩に起こされて、朝ご飯を一緒に食べる方が有意義じゃない?」

「朝は寝る時間だ馬鹿野郎!」

「いやそれだけは絶対おかしい」

 こんな、こんな楽しい毎日が、コレが日常になるんだと、猫野珠は思っていた。だからこの嬉しさを伝えられない表情に代わって、態度と行動で精いっぱい示すことにした。

 嫌なことも何もかもが、解決したわけでなく、ただただ心の逃げ場所ができただけで、心からの逃げ場所ができただけで、こんなものは雨宿りのようなもので、一時凌ぎの気休めであることは十分理解している。

 それでもそれは大事な気休めで、これで、まだまだ自分は大丈夫だと、まだ生きて耐えられると、そう思えるほどに、猫野珠の今この時は充実していた。










 ――そして、この日から猫野珠は人海空の家に来なくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る