第一話 紫野辺里の姉弟妹


 秋の空は高く澄んでいる。

 うろこ雲が薄く浮かぶ空に、鷹がゆるゆると弧を描きながら飛んでいた。

 ここは黎明国の西部にある紫野辺里だ。鄙の土地ながら養蚕と織物の技術をもって知られ、古くから富に恵まれた土地である。

 ちょうど今時期は、夏の盛りに摘んでおいた紫根花で、絹糸を染めはじめる頃だ。里のあちこちの煙筒から細く煙が棚引く様は、古の歌人が天の羽衣になぞらえたことで知られている。

 鷹が目指している場所は、里の中央にある小高い丘の邸だ。

 楼がある。人影が見えた。

 ゆっくりと鷹は高度を下げていく。

「ご苦労だったね。雪花」

 パサッ パサッ

 鮮やかな黄色い足が、少年の左腕に停まった。

 名は、キナンという。稲穂色の髪に、澄んだ泉のような碧い瞳を持つ、十二才の少年だ。

 キナンの実の父親は、我が子を抱くことなく、病で世を去ったという。母親の蘭姫は身重のまま、新たに夫を迎えている。それが、シャウラーダ皇国と縁の深い、開明派の代表として知られた王族の毅子将軍だ。キナンは毅子の息子として育てられている。

 毅子には三人の妻がある。藤姫、梅姫、蘭姫の三人で、現女王と同代の巫女であった王女たちだ。彼女たちはそれぞれに一子を産んでいる。

 三子は、己の生母だけでなく、三人を等しく母ら、と呼び、母らもまた三子をわけ隔てなく子らと呼んでいる。

 毅子の三人の妻たちと、子のうちの二人は、毅子の領地である紫野辺里の地で穏やかに暮らしていた。かつては開明派の代表として、外宮の右大臣を務めていた毅子は、今は政治に携わっていない。主に後進の育成に注力しており、武人としての務めのある王都と、学問所のある穂積郷を行き来する日々を送っている。多忙のため、紫野辺里には年に数度しか来ることはない。

 そんな父と連絡を取るために、キナンが鷹匠と共に手塩にかけて育ててきたのが、この伝書用の鷹だ。名は雪花という。王都にある父の邸と、穂積郷の別邸の場所を教えてある。右足に朱色の筒が結ばれていれば王都に。左足に青色の筒を結べば穂積郷に向かう。

 今、雪花の足には朱色の筒が結ばれている。王都に使わしていたものが戻ってきたのだ。干し肉をやってから、筒から小さく丸められた文を取り出す。姉の字だ。

 姉、というのは、藤姫の娘のスウェンだ。王女として『叔娘』の仮名も与えられているが、この『スウェン』という通名は男名である。名ばかりでなく、実際に彼女は三つの年から木刀を扱ったばかりか、今は新兵として父の軍で訓練を受けており、男として暮らしているのだ。この歪みを産んだものは、彼らの背負う過酷な運命であった。

「兄上様!」

 楼の下を身軽に走る青鹿毛の馬が見える。坂を上り切り、外庭で輪乗りをしているのは、梅姫が産んだ末子のルシェだ。姉と違い、この十才の女童に関しては、周囲は一度として男として育てつもりはないのだが、どういうわけか馬を乗り回し、木刀を振るようになってしまった。まだ結い始めたばかりの短い銀の髪が日にキラキラと輝いている。

「雪花の姿が見えました! 姉上様からの文でございますか?」

「そうだよ。明後日にはお戻りになるそうだ。……ルシェ。それで、お前はまた出かけるつもりなの?」

「はい! 師君のところへ伺います」

 ルシェが師君、と呼んでいるのは、元は皇国の役人だった学者だ。冤罪だったというが、故国で罪を犯し逃亡してきた帰化人で、父が邸を与えて保護している。書を翻訳し、書写する作業を日がな一日している男だ。薬師として里人を診ることもあり、身体の弱いキナンには主治医のような存在だ。ルシェはこの学者に勝手に弟子入りし、往診にもついて歩いている。

「あまり遅くならないようにね」

 兄の言葉を聞いていたものか、流したものか、ルシェは「小笹に水をやって参ります!」と言うと鮮やかな手綱さばきで厩の方へ走っていった。小笹は生まれたその日から妹が世話をしている青鹿毛の馬の名だ。癇の強いところはあるが、よく駆ける。

 雪花を楼台の中階にある小屋に戻し、もう一度干し肉をやってから木戸を閉める。

 狭い楼台の階段を下りたところにいた鷹匠に声をかけ、キナンは速足で廊下を歩いた。

 菊が盛りの中庭をはさんだ向こうから、娑琴の音が聞こえてくる。藤姫だろうか。合わせる二つの笛の音は、梅姫か、蘭姫か。本来、祈りに身を捧げる巫女としての暮らしは、母らの方が正しい。楽の音は祈りと同じで、日輪の神に奉納するものだ。

 楽の中断は、よほどのことでなければ許されないが、スウェンの帰省を報せれば、きっと笑顔で喜ぶだろう。


 さわさわ……

 ススキの穂が風に静かに揺れている。

 彼らはこのススキ野が尽きる場所までしか走ることを許されていない。兄妹にとって、ここは世界の果てだ。

 カッカッカッカッ

 野の道を二騎が駆けていく。

「あ!」

 馬影だ。――とキナンが気づくよりも先に、もうルシェは馬腹を蹴って走りだしていた。

「姉上様ーッ!」

 道の向こうから駆けてくる馬の上で、手を振り返す影がある。

 キナンがやっと追いついた時には、もう姉妹は一通りの挨拶を終えていた。

 姉のスウェンは、燃え立つような黄金色の髪を、高いところで一つにまとめている。年は十三才で、高く済んだ空のような蒼い瞳の持ち主だ。軍の新兵が着る、浅い紺の着物と袴に身を包み、剣を差した姿は、秀でた額と高い鼻梁を持った涼やかな顔立ちと相まって、はっきりとした性別を感じさせない。

 無事の帰省は嬉しいが、問題は、この姉がただ一騎でここにいることだ。キナンは辺りを見渡しつつ、

「姉上様。まさか、お一人でございますか? エイベン殿は?」

 と問うた。いつもならいるはずの、お目付け役の姿がない。

「邸の場所は知っているのだ。いずれ着こう」

 弟の質問を、スウェンは軽く流す。

「しかし――」

「姉上様! 食事の前に手合わせを願います」

「キナン。先に行く。無理はするなよ」

 姉妹はキナンの小言を皆まで言わせず、あっという駆け出した。

 すぐに馬影は、ススキ野の向こうへと消えていく。

 カッカッカッカッ

 背の方から蹄の音が聞こえてくる。やって来たのは一目でそれと知れる武人の青年だ。肌は日に焼け、檜皮色の髪は短く刈られている。平装の鎧を繋ぐ臙脂の飾り紐が、東華門を守る毅子将軍旗下の将であることを示していた。

「エイベン殿。足労です」

「ご無沙汰しております、キナン様」

 青年は武人らしい余裕のある動作で会釈を返す。名はエイベンという。代々高名な武人を輩出してきた一族の出で、彼自身も、若年ながらすでに頭角を現している。筋骨隆々たる体格は、小柄のキナンが見上げるほど大きい。スウェンの剣の師がエイベンの父親だった縁から、帰省の折にはいつも随行していた。

「すっかり離されてしまいました。いや、面目ない」

「姉がご迷惑を」

「どうにも、あの身軽さには敵いません。この分では、ルシェ様も?」

 キナンが「手合わせだそうです」と苦笑すると、エイベンも微かな笑みを浮かべつつ、もうとうに消えてしまった娘らの影を追うように、遠くに見える丘を見た。

 さわさわ……

 燃え立つように鮮やかな、茜色のススキが静かに揺れている。

 やがて日は落ち、丘の上の邸では、長女の帰省を歓迎する、ささやかな宴が張られた。

 姉弟妹の母らは、婚姻によって還俗はしたものの、朱暁宮にいた頃と暮らしぶりは変わらない。服装はいつでも白絹の着物と袴で、奢侈に溺れるということもなく、獣肉などは口にしないし、酒もこうした酒宴の折しか飲まない。食事は簡素で、米と豆と青菜がほとんどだ。

 本来であれば、王女の娘に生まれたスウェンとルシェの姉妹は、同世代から女王が選ばれるまでは朱暁宮の奥宮で育ち、巫女としての教育を受けているはずだ。

 だが、この姉妹は、夜明け前に起きて日輪を迎える祈祷をすることもなければ、楽を学ぶこともなかった。邸の外では白絹の服も着ず、肉も魚も口にする。父がそのように育てることを決めたからだ。すべての巫女が住まう朱暁宮どころか王都にさえ住んでいない。母らがそれを望んだからだ。


 姉弟妹の運命は、彼らが生を受けるより先に、すでに危うさを孕んでいた。

 まだ前女王が病身ながら存命であった頃のことだ。藤姫は巫女として奥宮で暮らしており、毅子は藤姫の房へと通う恋人であった。

 ――二人の間に生まれた最初の娘は、生後わずか二十日でこの世を去っている。

 今、スウェンに与えられている『叔娘』の仮名は、本来はこの二十日しか生きられなかった王女の仮名であったのだ。色濃い紫根花のような痣を持った娘に、藤姫は紫姫という諱を与えた。

 ――これほど鮮やかな痣があれば、刺青も要らぬ――

 藤姫は、娘の二の腕に現れた痣を見る度に、誇らしい気持ちになった。藤姫と同代の王女が先に生んだ二人の王女が、共にあるかなきかの痣しか持たぬことはすでに知られている。生来の痣が薄ければ、身体が育った後で刺青を入れるのが歴代の巫女たちの習慣だ。藤姫自身も、痣の上に藤花の刺青を入れている。刺青を必要としない巫女はごく稀だ。藤姫の代では、次代の女王候補の最有力である仲娘ただ一人しかいない。鮮やかな痣を持った娘の誕生を藤姫が喜んだのは、巫女としては当然の感情と言える。

 この頃、女王の後継者はまだ決まっておらず、外宮でも奥宮でも、二人の候補のどちらが次代の女王となるのかという話題で持ちきりだった。

 ――正しく初代の血を継いだ、鮮やかな痣と星読の力を持つ仲娘か。

 ――痣を持たずに生まれたが、才知に長け、弁舌の巧みな季娘か。

 だが、幸せの絶頂にある藤姫には、遠い話であった。王女たちの仮名は、生まれた順に、伯娘、仲娘、叔娘、季娘、幼娘、とつけられる。以下は、六娘、七娘、と数字でのみ呼ばれ、よほどの才でも示さぬ限り、数字で呼ばれる王女が女王候補になることはない。六娘であった藤姫には、後継争いは対岸の出来事のように思われた。

 女王の健康状態は芳しくない。夏は乗り切れまいと言われている。いずれ新女王が立てば、藤姫は毅子を夫に迎えるつもりだ。娘を連れて王宮を出、毅子の私邸で暮らすことになる。王族の娘は、三つの年を過ぎれば王宮で育つのが定めだ。母子が共に過ごす時間は三年しかない。この一日一日を大切に過ごすことだけが、藤姫の関心事であった。

 ある日のことだ。

 ――急ぎ禊をせよ。疫神が迫っている――

 不吉な言葉の書かれた竹片が、藤姫のもとに届いた。

 竹片は藤姫が庭で娘と時を過ごしている間に、房の文机に置かれており、誰が届けたものかはわからなかった。

 だが、愛する娘の危機とあれば、黙ってはいられない。竹片の差出人も確かめず、藤姫は乳母に娘を預け、奥宮の禊場へと向かった。まだ春先のことだ。嬰児は連れてはいけない。産後間もない身体に、冷たい水は堪えたが、我が子の命には代えられず、作法通りに禊をやり遂げる。

 そうして、藤姫が凍える身体で部屋に戻った時、愛娘の呼吸は止まっていた。

 桃色の丸い頬は土気色に染まり、美しい青い瞳は落ちくぼんだ瞼で閉ざされ、あどけない口からはどす黒い血が零れ――その場で藤姫は昏倒し、次に目覚めた時には、すでに愛娘は灰になった後であった。

 吸う者を喪っても、まだ乳房は子のために乳を作る。熱を持った胸の痛みに耐えながら、藤姫は事を明らかにすべく動いた。

 乳母は、季娘の侍女に声をかけられ、ほんの少し目を離した間のことだったと言う。先に竹片を届けたのは、季娘の気に入りの髪結いであったという話も聞こえてくる。

 ――季娘の仕業か――

 季娘の性質の苛烈さを、奥宮で知らぬ者はない。しかし、己の子が殺される理由が、藤姫にはわからなかった。

 季娘は、痣を持たず、星読の力も持たぬことに強い劣等感を持っている――と奥宮ではまことしやかに囁かれていた。どちらも併せ持つ仲娘との関係の悪さもそれゆえだ、と人は言う。だからといって鮮やかな痣を持つ王女のすべてを抹殺するとは思えない。

 他に思い当たることと言えば、子の父親が毅子だということくらいだ。毅子は、季娘の対立候補である実姉の仲娘を擁立する筆頭だ。

 わからない。いっそ本人に問いただしたいとさえ思ったが、相手が悪い。女王候補として名が挙がるだけ、季嬢は奥宮で力を持った存在だ。その激しい性格もよく知られている。力のない藤姫が騒ぎ立てたところで、証拠もない。

 藤姫は、深い嘆きに沈みながらも、口を噤まざるを得なかった。

 そのような事件を経ながらも、女王候補争いは続いている。痣のない季娘は当初から劣勢であった。そこに、更に追い打ちをかけたのが、毅子の発言だ。

 毅子の政治家としての評価は内外に高い。皇国への留学経験もあることから、外交においても重要な位置を占めている。その彼が仲娘以外の女王が立てば、右大臣の地位を捨てる、と公言した。これで大勢は決した、と誰もが思っていたが――

 事態は急変する。

 仲娘が急死したのは、藤姫の娘の死の三ヶ月後で、次の候補者として名の挙がっていた伯娘も直後に急死した。前女王が亡くなったのは更にその一ヶ月後のことだった。わずか四ヶ月余りの間に、季娘の即位を阻むものはすべて消え去ったのである。

 かくして、季娘は第十五代の女王として即位した。

 そして、己を支持していた勇子を外宮の頂に立つ男王の地位に着けると――女王は報復に転じた。

 公言した通り、毅子は右大臣の地位を下りたが、女王によって外宮からの追放を命じられることとなる。私兵三百を抱えるのみの一武人に落とされ、更に三つの領地のうち二つも召し上げられた。

 即位の直後に、女王は、己の姪である二人の王女のいずれかを後継とすることを宣言した。重ねて、まだ物心もつかぬ王女たちが将来産むであろう子に、その後の女王位を継がせるよう外宮に求めている。女王の地位に就く者は、初代のような強い力を持つ者ではなく、ただ己の血をより濃く継いだ者こそが相応しい、と世襲の方針を打ち出したのだ。

 この時になって、藤姫は季娘の――女王の憎悪を理解した。

 鮮やかな痣と星読の力を示した仲娘への怨みは、仲娘を支持した毅子にも及んだのだろう。そして、鮮やかな痣を持った毅子の娘が、己の後継者を脅かすことも許さなかったに違いない。

 藤姫が毅子の妻となってから二年の月日が過ぎ、再び彼女は子を授かった。

 その時になって、藤姫はこれまで閉ざしていた口を開かないわけにはいかなくなった。女王の報復が終わったとは、到底思えなかったのだ。

 ――この子も、女王に殺される!――

 涙ながらの妻の訴えを、毅子は決して軽んじはしなかった。

 ――今度こそ、我が子を守らねば――

 夫婦の間に生まれた娘は、両親の懸念をそのまま具現したかのように、鮮やかで大きな痣を胸に持って生まれてきた。涼やかな葵の花のような形にちなみ、その娘は葵姫という諱を得ると共に、スウェンという男名を通名として与えられた。

 毅子は、この娘を、王子であるとして朱暁宮に届け、三つの年になっても奥宮へ入れず、手元に残している。いかに女王が世襲を宣言したとはいえ、痣と星読の力を持つ者こそが女王の位に相応しいと思う者は依然として多い。危険だ、と思った。奥宮へ送ることが、即ち娘の死に繋がると判断したのだ。

 一方奥宮では、まだ女王の怨念は生々しく息づいていた。藤姫が降嫁した後、矛先を向けられていたのは、奥宮に残っていた藤姫の同腹の妹、梅姫だった。

 鮮やかな痣を持つでもなく、星読の力を示したわけでもない自分が、なにゆえに食事も与えられず、楽器も奪われ、祭殿への立ち入りも禁じられる羽目になったのか、梅姫自身にはまったく心当たりはなかった。毅子の妻の妹であることが、罪だとは思えない。文を出そうにも阻まれているらしく、姉に助けを求めることもできなかった。日に日に痩せ衰えるままに、いずれ死ぬのか――と覚悟をした矢先、夫を亡くした蘭姫が、身重の身体で奥宮へと戻ってくる。この従姉が己と同じような目に遭いはじめるに至り、梅姫は覚悟を決める他なくなった。奥宮にいる限り、無事な出産は望めない。

 梅姫は、信用する侍女と謀り、侍女の粗相が許せぬと騒ぎ立て、暇を出すと宣言した。この侍女は、失意のうちに里に帰る振りをして、毅子の邸へ逃げ込んだ。こうして、毅子は梅姫と蘭姫とを、妻として迎えることで奥宮から助け出したのだった。

 なんとしても、子らを守りたい、と毅子とその妻たちは懸命の努力を続ける。

 五つの年になったスウェンを、毅子は男子と同じように講武所へと通わせることにした。その際に、朱暁宮には出生時の届出が誤りであったことも報告している。女子であることを明らかにした上で、男子として育てることの不自然さについては、毅子は大陸の史書にある男装の女将軍を例に取り「用兵に天賦の際がある」と述べて押し通した。毅子は一武人であり、跡取りにすると言ったところで、娘が継ぐのは私兵と私領ばかりだ。女領主自体は珍しくもなかったため、然程の問題になることもなく、その届出は受理された。すでに奥宮では、四番目の王女となる季娘が誕生していたため、生後二十日で死亡した三番目の王女『叔娘』の仮名をスウェンが授かることになる。

 その後も、運命が穏やかに凪ぐことはなかった。

 キナン、と名付けられた蘭姫の産んだ男子は、常は十才を超えた頃に現れることのある星読の力をわずか三才にして示した。予知夢をみる能力をこの国では星読と呼ぶ。それは初代の女王が示し、国の礎を作った力だ。

 毅子は頭を抱えた。男子とはいえ、女王にこの力を知られれば、危害を加えられる恐れがある。そこで、三人の妻とともに息子を領地である紫野辺里の邸へと移すことにした。朱暁宮には、息子が病弱であるため、空気のよい場所で養育する、と告げている。実際にキナンは身体の弱い童であった。

 その後、梅姫との間に生まれた末娘は、祈りが通じたものか、玉のような肌に痣らしきもの一つ持たずに生まれてきた。

 ――女王に殺される!――

 だが、梅姫は産褥の床で半狂乱になって叫びだした。その手を握り、毅子は我が子を死んだものとして王宮に届けることを約束する。諱は、朝しか咲かぬ蕣にちなみ蕣姫としよう。通名は、夜に輝く星の女神にちなみ、ルシェと名付けよう。日輪の目から、我が子を隠し通せばよい――と。夫の言葉を聞いて、梅姫はやっと穏やかな眠りを手に入れたのだった。

 こうして三人の王女と、その娘と息子たちは、今日まで身を寄せ合いながら命を繋いできた。穏やかに時が過ぎることだけを、ひたすらに祈って。


 楽の音が、簾の向こうで流れ始める。

 それを機に、キナンの向かいに座っているルシェが、隣のスウェンに話しかけた。

「父上様は、お変わりありませんか? いただいたお文では、学問所の方がお忙しいとか」

「お忙しいようだ。月の半分は、穂積郷においでになっている」

 穂積郷は黎明国随一の商都だ。ここに、毅子は念願の学問所を創設した。まだ創設から一年余だが、王族や貴族の子弟、諸国の庶子の王子なども集まり、大層な賑わいだという。

「私も、一度でいいからこの目で見たいものです」

「よせ。そんなことをお前が言おうものなら、父上が嘆かれるぞ」

 ルシェは、簾の向こうの母らに聞こえていないか、姉の肩越しに首を伸ばして確かめてから「わかっております」と言って悪戯な笑みを見せた。

「姉上様の帰省に合わせてお戻りになると聞いていたのですが……父上様からは一向に報せがありませぬ」

「穂積から向かわれているはずだ。直に着かれる」

「輝江は、長雨が続きましたので、今は渡れぬと出入りの商人が言っておりました。足止めをされていなければよいのですが」

 輝江は、天津洲一の商都・穂積郷と、王都の間に横たわる大きな河川の名だが、キナンにとって、古い詩と神話に出てくる地名でしかない。それはこの里で生まれたルシェも同じはずだが、この妹は父親の地図を見、杣人に尋ね、行商人に問い、地図を自分で作りだすほどに、地理に精通している。

 そればかりではなく、里人のほぼすべての顔と名を覚えており、地理にせよ織物のことにせよ、里のことで知らぬことがない。母らの耳目となり、手足となり、まだ幼いながらよく働いている。父も母らも、将来は、このやや規格外の末娘にこの土地を継がせるつもりでいるし、本人もそのつもりでいるようだ。

「ルシェ。明日は、例の集落の様子が見たい。案内してくれ」

「はい。春にはすっかり元の暮らしに戻るはずです。今年も常と変わらぬ仕事ができたと、先日職人の頭が絹を持って礼を伝えに来ておりました」

「そうか。なによりだ。――キナン。その後、変わりはないか?」

 ルシェと話しこんでいたスウェンが、キナンの方を見る。

「変わりなく――そうですね。はっきりとはお返事できぬのがもどかしい」

 キナンは曖昧な笑みを浮かべて、項垂れた。

 三つの年で星読の力を示したキナンにとって、未来を見る夢は、すでに日常の一部となっている。本来、星読の力は十才を越えた頃に現れるのが普通だ。三つの年で力を示した者など、存命の王族に一人もいない。その力が、背が急に伸び始めたのに合わせ、次第に増しているように感じている。

 人の人生の、幸と不幸がどれほどの比率でやってくるものかは知らないが、キナンがこれまで夢に見てきた未来はすべて大なり小なりの不幸だ。

 最初は、侍女が手に持っていた盆を落とす、と片言で話したという。牧の子馬の死。下男の怪我。里人の死。そうしたことばかり見えてしまう己の力が疎ましくてならない。事を未然に防ごうにも、夢で見た光景は、いつでも確実に起こってしまう。だから、夢のことは、いつしか口にしないようになっていた。

 だが、今年の夏に、キナンは水害を予知している。これは黙っているわけにはいかなかった。スウェンとルシェと共に力を合わせ、集落から職人らを逃がし、その命にも等しい染色のための道具を運び出させている。十あった家屋はすべて流さたが、死者も出ず、特に貴重な大釜や、百年続く発酵染料などを守ることができ、職人たちは幸いにも例年と変わらぬ仕事ができたようだ。

 スウェンは里人を指揮し、ルシェは情報を集めて回り、途中で熱を出して寝込んだキナンが目覚めるまでの間に、すべてを終わらせていた。

 星読の見た夢を役立てることを、この国では『星読の声を聞く』と表現する。

 姉弟妹は父の不在の間に、それを成し遂げた。

 父も母らも、成果を喜び、彼らの功を労ったが――

「あれ以来、とりとめのない夢ばかり見るのです。これまでとは違っているようでもあり、変わらぬようでもあり……」

「なにかあれば、すぐに報せよ。母上様らは長く奥宮におられた。過去の例もよくご存じのはず。胸襟を開き、お尋ねするように」

 十二才になったキナンの身体は、背が伸び、声も変わり、変化の最中にある。母らが言うには、そうした時期は誰しもの力が不安定になる時期だという。

 その時、

「父上様!」

 ルシェの明るい声が響いた。キナンは膳の器を見るともなく見ていた目を上に向ける。

 エイベンと話していたはずのルシェは、もうパタパタと廊下を走っていた。

 楽の音がやむ。

「お帰りなさいませ! お待ちしておりました!」

「待たせたな。ルシェ」

 父は片腕で末娘を抱き上げた格好で、広間に入ってきた。黄金の髪と蒼穹の瞳はスウェンに正しく伝わっており、色合いを同じくしている。

「皆も変わりないか?」

 ルシェは父に向かってうなずく。秀でた額と高い鼻梁を持った端正な父の顔は、この末娘を前にするといつも柔らかく綻ぶ。

 エイベンが立ちあがって礼をし、スウェンとキナンは大陸風に拱手の礼を取った。

「苦労をかけるな。エイベン」

「いえ。将軍もお疲れでございましょう」

「なに。子らと妻らの顔を見るためならば、千里の道も遠くはない」

 新たに用意された膳を前に、父が腰を下ろす。

「キナン。その後、変わりないか」

 父に尋ねられ、キナンは姉に答えたのと同じように返した。

「そうか」

 そうして、父もまた姉と同じように「母らに相談をするのだぞ」と言う。

 十二年の人生の中で、キナンが星読の力を歓迎した日は一度としてありはしなかった。

 夢を見る力など欲しくはない。本当に欲しいのは、強い身体だ。スウェンが、軽々と百度の素振りをする木刀を、十度振る頃には熱が出はじめる。ルシェが、一日外で過ごした後に馬で駆け比べをしても負ける。そればかりか夕刻の風にあたれば咳が出る。

 それでも、姉と妹とを信頼すればこそ、己の力にも意味があると信ずることができた。姉がいれば、妹がいれば、自分にも母らを守り、この里を守ることができると。

「励みます」

「そうせよ。励め。――お前たちは、私の誇りだ」

 そうして、父の言葉が、いつでもキナンの支えであった。

 楽の音がまた、広間に響きはじめる。

 その日は遅くまで、暖かな団欒は続いた。


 海だ。

 ――海が、見える。きっと海だ。

 キナンは海を知らないが、海以外のものであるとは思えなかった。

 小舟が浮かんでいる。

 全身に、絹の布を巻かれた人が、立たされる。

 そうして――

 どぼん

 と鈍い音がした

「……ッ!」

 死んでしまう。――死んでしまう。

 スウェンの姿が見える。鎧に身を包み、もう新兵の姿はしていない。

 なにかを言っているようだが、声は聞こえない。指示を出すスウェンの表情は生き生きとしていたし、周囲にいる兵らは、土にまみれながらも笑顔を見せていた。

 ――きっと姉は、よき武人となり、よき為政者となるに違いない。父の志を継ぎ、里だけでなく、この国のすべての民を導くだろう。

 ルシェの姿が見える。もう女童の姿はしていない。生母の梅姫によく似た美貌の娘に成長していた。青鹿毛を駆り、黒づくめの格好で森を駆け抜けていく。

 ――きっと妹は、この里を出ていくのだろう。野を駆け、国中を巡り、多くのことを学ぶだろう。そしてよく姉を助けるに違いない。

 そして、自分は――

「うわぁッ!」

 キナンは、ガバッと身体を起こした。

 夢だ。今のは、夢だ。

 腕に触れ、腹に触れ、足に触れる。

 このところ、こうした意味を成さない断片的な映像ばかり夢に見ている。

「姉上様! 参りましょう!」

「そう急くな」

 外庭の方から、スウェンとルシェの声が聞こえてきた。

 まだ朝も早いはずだが、昨夜話していたように、あの水害から逃れた集落を見にいくのだろう。

 寝間着のままで廊下に出ると、もう姉妹の駆け去った後の土埃だけが残っていた。眩しいものを見るように、キナンは目を細める。

 これから、自分たちの前に広がる風景は、決して晴れやかなものではない。夢の断片のほとんどは、陰惨なまでに暗いものだ。だが――きっと。

 あの二人が齎す未来だけは、いつも輝くほどに美しく明るい。

 そう信じればこそ、キナンは己の身に降りかかる様々な災厄をも、乗り切ることができるように思えた。


 夏に起きた水害について、毅子は里人らに決して外にはもらさぬようにと言い含めていた。まだ、女王の報復に対し楽観はしていなかったのだ。

 しかし、領主の息子が予知し、娘らが告げ、導き、里人を救ったこの神話めいた一幕について、完全に口を噤むのは容易なことではなかったのかもしれない。

 二ヶ月もする頃には、里に出入りする商人らの耳に入っていたし、冬に入った頃には王都にまで知れた。その後、毅子の名が、再び外宮を中心とした王族や貴族たちの間で頻繁に囁かれるようになるまで、そう時間はかからなかった。

 そして、男王が、毅子を再び外宮の政治に関わらせたい、という意志を見せ始める。男王と毅子は、女王候補の擁立でこそ対峙したが、もともとの政治方針に大きな違いはない。かつては同じ開明派の大臣として並び立つ仲だった。

 この頃、女王は黎明国成立以前の国体を蘇らせる――という誰の目にも時代に逆行した方針を、強硬に進めていた。

 女王と男王は対立を繰り返し、更に、

 ――毅子を再び外宮へ――

 という声は、夫婦の溝をますます深いものにしていく。

 女王は、外宮での力を失いつつあった。やはり、痣のない女王など――星読の力を持たぬ女王など――そんな声なき声に脅かされていたのだ。

 当の毅子は、穂積に学問所を開き、若い学者の養成に力を注いでいる。渡来人を保護し、皇国と黎明国の橋渡しこそが己の生涯をかけての使命と信じていた。

 だが。

 女王の耳にそれらの――紫野辺での水害の話題に付随した、毅子の子らの情報が入ったことから、事態は大きく動きだす。

 生まれながらに鮮やかな痣を持った王女――星読の力を持った王子――外宮の支持を受ける毅子――

 黎明国第十六代女王の迷走の萌芽は、この時、はっきりとした形を持つ。


 ――その日、キナンは、皇国の学者であるエトウのもとに行くというルシェに、先日、薬湯を処方してもらった返礼として干果を託した。

「この文も、一緒に渡しておくれ」

 快くルシェは依頼を受け、干果と文を手に邸を出ていく。

 チチチ……

 鳥の鳴く声がする。

 カッカッカッ

 蹄の音が遠ざかっていった。まるで疾風のように駆けていく妹を、愛おしく思う気持ちが一筋の涙となる。

「――逃げろ。ルシェ。どうか生き延びてくれ」

 中天にかかる日輪に、目を閉じて祈りを捧げる。

「ルシェは、行きましたか?」

 問われて、キナンは振り返った。藤姫が、静かに立っている。

「はい。きっと逃げおおせるはずです」

「……私がまだ、朱暁宮におりました時、前仲娘が――毅子様の同腹の姉上様が夢で聞いた言葉だそうです。『持たざる者が昏き夜に黎明を導く』。前仲娘は、持たざる者とは、痣のない女王を指す言葉であるとお思いのようでしたが……私は、あの娘が……ルシェこそが未来を導く存在であるような気がしてならぬのです」

 キナンは、夢で今よりも長じたルシェを何度も見ている。今、藤姫の口にした言葉は、恐らく真実に近い。

「そなたの歩む道は厳しく険しい。キナン。だがきっと――きっと時は来ましょう。その時まで、決して命を軽んじてはなりません」

 その目には、静かな覚悟が宿っていた。

 初代女王の末裔である母らもまた、待ち受ける悲劇を夢に見ていたのかもしれない。

「魂は奈辺にあろうと、そなたたちをいつでも見守っています」

 ルシェを思ってこぼれた涙を拭う間もなく、キナンはまた涙を流さねばならなかった。

 ――時は、迫っている。

 

 邸を出たルシェは、まっすぐに向かったエトウの邸で本を読んでいた。

(いい匂い)

 豚の脂の焼ける、甘い匂いがしている。

 エトウは、一日のほとんどを、皇国の書物の翻訳のために費やしている。薬師として里の者を診る時以外は、机に向かってばかりだ。ルシェも、往診の手伝いを願い出る他は、翻訳された書物を黙って読むことが多い。

 日が高くなった頃、辞去の挨拶をすると、珍しくエトウが引き留めた。

「昼食を召し上がっていかれませんか」

 エトウは大陸の人だけに、食卓には肉も魚も並ぶ。常であれば、祈りに身を捧げた母らへの遠慮からか、食事に誘われることはあまりない。珍しいこともあるものだ、と思いつつ笑顔で礼を言い、招きに応じた。

 食事を終えた頃――

 駆ける蹄の音が、ルシェの耳に入る。

 急病人であれば、農夫が走ってくるはずだ。農耕馬で駆ける農夫はいないし、キナンがこれほど速く駆けることもない。

 胸騒ぎがして、ルシェはエトウの邸を飛び出した。

 王都にいるはずのエイベンが、馬を駆って坂を上ってくるのが見える。

 ルシェは、事の異常さを漠然と理解した。

「すでに晴野に母御らがおいでです。すぐに向かわれよ。社の中で、お待ちください! ……立ち止まってはなりません!」

 ルシェはエイベンの言葉が終わるや否や、厩に走り、小笹に跨る。厩から出た時には、もうエイベンの姿はなかった。

 ついに、恐れていたことが起こった。女王だ。女王の毒牙が迫っている。ルシェは天に祈りながら、ひたすらに駆けた。

(どうかご無事で……!)

 ルシェにとって、世界の果てであるはずのススキ野を遥かに越えての逃避行だ。だが、晴野までの道は地図の上で何度も確認している。迷うことなく、ひたすらに駆けた。

 二日駆けてたどりついた晴野の社には、人の気配がない。

 更に二日、ルシェは無人の社で母らを待つことになる。母らは社の硬い床では眠れまい、と人目を避けながら藁を集めた。水場も見つけ、桃のなる木も見つけたが――

 ついぞ、母らも兄も姿を現すことはなかった。

 ルシェは、その後エイベンの手引きで、エトウと共に穂積の商人のもとに身を寄せることになる。

 そうして――

 父が着せられた謀反の罪を認めず、恩賜の毒を拒み、初瀬海に沈められたことを。

 母らもまた謀反を認めず服毒を拒み、邸ごと――藤姫の腹にあった子もろとも燃やされたことを。

 姉が女王の前で花の痣を自らの手で焼いたことを。

 兄が捕らわれ、父の処刑への立ち合いを強いられた後、奥宮に幽閉されたことを。

 ――後になって知ることになる。


 時は移り九年後。女王の即位より二十五年が経った。

 毅子の邸跡は、今はただの荒野となっている。

 さわさわ……

 小さな慰霊塔がある他は、広いススキ野が広がるばかりだ。




                 続きは、L文庫公式ホームページの試し読み、

                    そして6月15日発売の富士見L文庫で !

        ※本試し読みの内容は、実際の文庫版とは異なる場合があります※

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黎明国花伝/著:喜咲冬子 富士見L文庫 @lbunko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ