若く見えますね
二ツ木線五
若く見えますね
「いやしかし、お若いですなぁ」
今回新しく開発された商品の商談でなんとか契約にこぎつけた渡辺氏は、終わったあとで商談相手の田中氏にそんなことを言われた。
「私が、ですか」
訊ねてみると、田中氏は羨ましそうに笑いながら、渡辺氏の顔をじっと見つめる。
「そうですよ。失礼ですが、年はおいくつですか」
「今年で六十になります」
「六十ですか。いや、とてもそうは見えない。じつは私も六十なんですが、同い年には見えないですねぇ」
田中氏は渡辺氏の年齢を聞いて、驚きながらそんな風に話した。
しかし、当の渡辺氏にとっては今さら嬉しがることでもない。
渡辺氏はごく普通のサラリーマンで、誇れる能力もなく、また大した取柄もないのだが、唯一自慢できるとすれば、いつも人に若く見られることだった。それも不思議なことに、歳を重ねるだけ、よく言われるようになった。
そのことを話すと、田中氏はますます羨ましそうな顔をした。
「なにか、こう運動とか健康法とか、されていることがあるのですか」
しかし、渡辺氏は顔を横に振る。
「いいえ、それが思い当たっては何もしていないのですよ」
田中氏は「またまたぁ」と疑ったが、実際渡辺氏は何も思い当たらない。酒は飲むし煙草も吸う。食生活も妻に頼ってはいるが気をつけていることはないはずだ。運動も、通勤と営業時に歩くくらいか。とにかく、田中氏に教えられるような特殊なことは何もしていない。
「もし、何か思い当たることがあればお教えしますよ」
「お願いします。さすがに、私も寄る年波には勝てないものですから」
渡辺氏は田中氏にそう約束すると、自分の会社に戻った。
部長に商談成立の旨を伝えて契約書を渡すと、タイムカードを押して自宅に戻った。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた」
台所に入ると、妻が食事の用意をしていた。ほとんど仕上がっているようで、いい匂いが漂っている。
「先に食事になさいますか」
「ああ。ビールも頼む」
「じゃあ、先におつまみを出しますね」
「そうしてくれるか。ああ、そうだ。今日も、客先で若く見えるって言われたよ」
「まあ、またですか」
妻がくすくすと笑う。
今年で六十歳になる渡辺氏とは反対に、妻はまだ四十六歳だ。結婚してからもう二十年以上経つが、歳が離れているということで、婚約した当時はずいぶんと周囲をやきもきさせたものだった。
「でもあなた、本当に若いわね」
妻が鞄を受け取りながら、じっと見つめてくる。
渡辺氏は自分の顔を撫でて首をかしげる。
「本当に何もしていないんだけどな。やっぱりお前も、今でもそう思うか」
「ええ。なにか、私と歳が変わらなくなっていくみたい」
そう言って妻が笑う。
渡辺氏も過去を振り返って一緒に笑う。
「結婚したときは、私の母なんかすごく気を揉んでいたけどね」
「だって、これほど歳が離れてるんですもの。お義母様の気持ち、今なら私も分かるわ」
妻が遠い目をする。二年前に結婚した娘のことを思っているのだろう。渡辺氏もそれに気付いて、
「隆弘君ならしっかりしている、あの子を幸せにしてくれるさ」
「そうね」
渡辺氏の言葉に妻は頷き、
「さ、もう食事の準備も終わりますから、服を着替えてきてくださいな」
「ああ」
渡辺氏は自室に戻ると、スーツを脱ぎ始める。
脱ぎ始めながら、渡辺氏はいつものようにタンスの上に目を向ける。そこには、渡辺氏の母の形見となる古い置時計があった。結婚当日に「大事にするように」と母からもらったものだ。
今でもその時計はしっかりと動いているが、もらった時から調子がおかしくて、気が付くと時間が遅れてしまっている。母の形見なので捨てる気になれず、いつも修正していたが、それが今では一日に三時間程度も遅れてしまう。その狂いを毎日直しているうちに、いつのまにかそれは日課の一つになってしまった。
渡辺氏は部屋着に着替えながら、何かしているのか、という田中氏の言葉を思い出す。
人と違うことをしてるとすれば、このくらいか。
心の中で呟いて、今日も時間が遅れた置時計を手に取った。
若く見えますね 二ツ木線五 @FutatsugiSengo
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