第2話 出逢い

 洋平が小学生の頃、夏休みの午後には、専ら湾内の北側にある「小浜(こはま)」という砂浜へ海水浴に行っていた。村の北東の外れに集合場所があり、お昼の十二時三十分までに集まった子供たちを、大人たちが交代で引率していた。引率するのは女性がほとんどだったが、万が一の海難事故を防ぐために、必ず泳ぎの達者な男性が一人は加わっていた。

 海水浴はお盆までとなっていた。

 お盆には、この世に戻った亡霊が災いを起こす、という村の古くからの言い伝えにより海水浴は中止となっていた。

 またお盆を過ぎると、決まって大量のクラゲが湾内に流れ込むし、不思議なことだが、時を計ったかのように海水の温度が急激に下がり、そもそも冷たくて泳げなくなるということも理由になっていた。


 その日は夏休みになって一週間ほどが経ち、七月も終わりに近づいていた頃だった。海水浴を日課としていた洋平は、いつものように集合場所に向かっていた。

 家の門を出て東に進むと、真正面に青々とした美保浦湾が広がっている。

 視界を遮るものは何一つ無い。海風は渇いた潮の匂いを運び、日本海は波の果てまで見通すことができた。空は一面鮮やかなコバルト・ブルーに染まっていて、相変わらずの真夏の光が燦燦と降り注いでいた。

 空も海も風も陽の光も、そして村中も全てが普段と代わり映えのない佇まいに、洋平がのんびりと大きな欠伸をしたときだった。

 視線の遠く先、海の藍を吸い込んだかのように晴れ渡る中で、ただ一点水平線上の彼方に浮かんでいた綿菓子のような入道雲が、ほんの束の間風に揺れて、今まさに海中より出で、天を衝いて飛翔する龍の姿に形状を変えた。

 だが、これまで何の変哲もない日々を送っていた彼は、それがまもなく我が身に訪れる幸運の兆しであることなど微塵も察し得なかった。ただ雲の有様を見て雨の心配はなく、まして嵐の前触れでもないことを見取っていたに過ぎなかった。

 海岸通りに出たところで、前方に佇む少女の姿が目に入った。

 洋平は彼女が誰だかわかっていた。

 同級生の森崎律子である。同級生というより、幼馴染、いや許嫁といった方がより正確かもしれなかった。なぜなら、彼女の生家の大敷屋(おおしきや)は、代々恵比寿水産の要職にある、言わば番頭格の家柄であり、家同士はもちろんのこと、幼少より兄妹のように育った二人の心には、自然と特別な感情が芽吹いていたからである。

 ただ、二人の感情は微妙に異なる。

 律子が純粋に心を寄せていたのに対し、洋平は恋心よりも周囲の思惑に流されるというか、己の宿命に逆らうだけの気概がなく、半ば諦めの境地を彷徨っていたに過ぎなかった。

 つまり、祖父や父が望むことは、我が身を思ってのことであり、自己と恵比寿家にとって最良の選択なのだと、自分自身に言い聞かせていたのである。

 とはいえ洋平も、当の律子には不足を感じていたわけではない。器量も良く、学校の成績も上位であり、相手として申し分がなかった。欲を言えば、いつも時間を見計らって自分を待ち伏せしておきながら、近づいて行くと必ず俯いてしまう内気な性格が物足りなかった。

「一緒に行くか?」

 通り過ぎ際、洋平は素っ気なく誘った。

うん、と律子はか細い声で答えると、洋平の後に続いた。

 集合場所までの間、洋平は一度も彼女に声を掛けなかった。律子もまた、並び掛けようともしない。

 繰り返される退屈な日常に、洋平は心の奥底で漠然とした苛立ちを抱いていた。その彼に長らく待ちわびていた新世界への扉が、今まさに開こうとしていたのである。


 偶然の出逢いはいきなり訪れた。

 集合場所に着いた洋平の目に、皆の輪から外れた片隅に佇んでいる見知らぬ少女の姿が映り込んだ。

 この場で他所者らしき姿を見たのは初めてのことだった。

 小さな村なので、同じ年頃であれば顔を見ればもちろんのこと、姿かたちでさえも、どこの誰であるかわかるはずだったが、彼にはいっこうに見当が付かなかった。

 横顔しか見えなかったが、背丈から、何となく同じ年頃を想像するのが精々だった。

――誰だろう?

 この小さなハプニングに興味をそそられた洋平は、少女を凝っと見つめていた。

 すると、視線を感じたのか、少女が顔を洋平に向けた。

 その瞬間、洋平は息を飲み込んだまま、しばらく呼吸を忘れてしまった。

 これまでにない強烈な衝撃だった。まるでこの季節、紺碧の空に突然雷鳴を轟かす稲妻を身体に受けたかのような……。

 麗しい少女だった。

 山野に咲く一輪の山百合のように凛としていて、それでいて砂浜に光る一片の桜貝のような清純な美しさを秘めていた。美人に有りがちな、ツンと澄ましたところがなく、むしろやや短めの髪と、ジーンズの短パンにTシャツ、そして野球帽という出で立ちとが相まったボーイッシュな感じが、美少女の端整な顔立ちを一層凛々しく魅せていた。

 さらにその美貌には、片田舎にはなじまない洗練された雰囲気も加わっていて、まさに可憐という表現はこの美少女のことを言うのだろう、と洋平には思えた。

 ただ、彼女が醸し出す都会的なオーラは、地方の田舎育ちの洋平にはとても新鮮な反面、その透き通るような白い肌が真夏の季節と相反し、少しひ弱く感じられ、多少の違和感も覚えた。

 そのせいだろうか、横顔を見たときより少し大人びたように見え、洋平は自分より年上かもしれない、と思い直した。村の子供であれば、小浜へは小学生しか行かないのだが、他所者の彼女は、たとえ中学生であっても小浜で泳ぎたいのだろう、と彼は勝手に想像した。

 お互いに見つめ合う時間がしばらく続いた後、美少女は洋平に柔らかな笑みを投げ掛けた。そこには、何か彼女の内なる意思のようなものが感じ取れたが、むろんそれが何であるか、このときの洋平にわかるはずもなかった。 

 彼女に見とれていた洋平は、はっとして我に返り、急に照れくさくなって、思わず顔を背けた。そのとき、律子のふてくされた顔が目に入ったが、意に介する余裕など洋平にはなかった。


 引率者によって参加人数が確認された後、縦一列になって出発した。引率者は、先頭と中央、そしてしんがりを歩き、子供たちは上級生と下級生が交互になるように列を組んだ。

 小浜へは海沿いの道を通って行くことになる。

 途中から道幅は狭くなり、やがて人が一人だけ通れる狭さになって行く。 

 右手には波が足元まで迫っており、左手には村人によって一度は刈られていたものの、夏の光を十分に浴びて、早くも鬱蒼と伸びた雑草が、所々行く手を遮るように迫り出している。

 こうした道を、海に落ちないようにと、上級生は下級生の手をしっかりと握り、雑草を払いながら歩いて行くのである。

 その道すがら、洋平の心を後悔と不安が襲っていた。

 集合場所で美少女が笑みを浮かべたとき、無愛想に顔を背けてしまった後悔と、そのことで彼女が悪い印象を持ったのではないだろうかという不安だったのだが、やがてそれらは、微笑み返すという勇気も機転もない彼自身への失望へと変わっていった。   

 小浜に着くと、人数の確認を行い、着替えをして全員で準備体操を行う。着替えといっても、皆すでに自宅で水着に着替えており、その上にシャツを着て、あとは麦藁帽子を被るぐらいのことだったので、手間は掛からない。

 洋平は、いつものように、一人だけ皆と向き合っていた。

『一、二、三、四……』と号令しながら、準備体操の先導をするためだ。彼は、小学校のリーダー的な存在であり、このようなことには慣れていた。したがって、普段であれば取るに足りないことなのだが、このときばかりは、美少女の視線が少なからず羞恥心を呼び起こしていて、自分でもぎこちない動作であることがわかっていた。

 準備体操が終わると、笛の合図で海に入ることができた。

 小浜は、直径が四十メートルほどの半円の形をしていて、遠浅の砂浜だった。

 三十メートルほど沖に、五メートル間隔でブイが置いてあり、そこから沖へ行くことは禁じられていた。ブイが置いてあるところは、水深が二メートルぐらいあり、泳ぎが上手な者しか行かなかった。

 この頃の洋平は、叔父や従兄の、サザエやあわびの素潜り漁に同行することもあり、泳ぎには覚えがあったので、いつもブイの付近で潜水の稽古などをしていた。

 東の沖に防波堤があり、小浜のさらに先にある「小戸(おど)」という磯で泳いでいる中学生は、その防波堤までの二百メートルほどの距離を、己の泳ぎの達者なことを誇示するかのように何度も往復していた。

 洋平は、『自分もあのように泳げる」という自信はあったが、祖父の許しが出ておらず、彼らの姿を見る度に、来年の夏こそは必ずや真っ先に遠泳を決行しよう、と心に決めていた。

 洋平は、いつものようにブイの付近で泳ぎながら、素知らぬふりで美少女の姿を追っていたが、彼女はわずかな時間、しかも水際で両足をバタつかせていただけで、すぐ浜に上がって休んでいた。

 洋平は、きっと彼女は泳ぎが苦手なのだろうと思っていた。


 四十分経つと、休憩の笛が鳴った。

 美少女は、皆と離れた浜の一番東側で、一人で膝を抱えて座っていた。その、物憂げに海を見つめていた彼女の姿が印象的だった。

 洋平は皆の近くで休んだ。彼女に歩み寄り、話し掛ける勇気などあるはずもなかったのである。

 ところが、洋平の心が突如革命を起こし始めた。

 何かに突き動かされるように、美少女に近づきたいという欲求が沸々と滾り始めたのである。彼が生まれて初めて異性を意識した瞬間だった。

 そうは言うものの、直ちに欲求が行動に移されることはなかった。いまだこの場の衆目を集めることへの躊躇いが完全に消え去ってはいなかったし、どこかに律子に対する後ろめたさもあった。

 洋平は、海老が脱皮するように、心を雁字搦めにしている古い殻を脱ぎ捨てるべく、葛藤していたのである。

 その洋平の目の端に、数人の少年たちが美少女の方をやりながら、何やら策を巡らしている様子が入ってきた。どうやら、異性に目覚めてしまったのは洋平だけではなかったようである。

 謎の美少女を取り囲む状況は、洋平が思う以上に風雲急を告げていた。

 そして、それを裏付けるかのように、さっそく新たな展開が、逡巡する彼に決断を迫ってきた。彼の視界に、かの少年たちの中から、美少女に近づいて行く誰かの姿が飛び込んで来たのだ。

――しまった! 先を越されたか……。

 不意を突かれた洋平は、心にざわめき覚えながら、すぐさま少年の後姿を目で追った。

 ざわめきは、ひとまず収まった。

 洋平には、その少年が誰であるかわかったからだ。後姿もそうだが、純朴で引っ込み思案な田舎育ちの少年らの中にあって、周囲の目を気にすることなく奔放な行動を取れるのは、彼の知る限り一人しかいなかった。

 その少年とは、大変に明るくひょうきんで、いつもクラスメートの笑いの中心にいる同級生の善波修吾(ぜんなみしゅうご)である。彼の性分をよく知る洋平は、彼にすれば美少女の気を引こうなどというような大それた考えは毛頭なく、ただ見知らぬ美少女に、好奇な興味を抱いたに過ぎないと確信できたのだった。

 ところが修吾の大胆な行動は、洋平に彼の口から美少女の素性を漏れ聞く事ができるかもしれないという期待と共に、その美しさからすれば、今度は彼女の気を引こうとする輩がいつまた現れるやもしれぬという焦りも呼び起こすことになった。

 我が身を思えば、同様の恋敵が雲霞の如く現れても、何の不思議もないと思ったのである。

 修吾はほんの二言三言、言葉を交わしただけですぐに引き返し、美少女に興味を持った仲間に報告をし始めた。洋平は耳をそばだてていたが、あいにく彼らとの間にいた下級生の騒ぎ声に掻き消されて、何も聞こえず仕舞いに終わった。

 彼女の身上について、何の手掛かりすら得ることができなかったことで、洋平の心には焦りだけが残ることになった。

 一方で、律子は洋平の背を見つめながら、彼の心の動きを読み取っていた。だが、突然の宿敵の登場に、怪しい雲行きを感じながらも、成り行きを見守ることしかできない自分自身にもどかしさを覚えるしかなかった。


 十分間の休憩が終わり、再び海の中に入って行った。

 洋平はいつものように、沖のブイのところで泳いでいたが、次の休憩時間が近づくにつれて、東側に移動して行った。

 彼には、ある一つの考えが浮かんでいたのである。

 それは、次の休憩のとき、美少女が先ほどと同じ場所で休むと想定して、東側で泳いでいれば、真っ直ぐ浜へ泳いで戻り、そのまま彼女の近くに座っても、ごく自然な行動に映るのではないか、というだった。

 情けないようにも映るが、この頃の洋平は万事において、常に周囲の目というものを気にする小心者だった。恵比寿家の総領という、良くも悪くも事あるごとに世間の話題の俎上に載る立場にあった彼は、日頃より軽挙妄動を戒め、自らに箍を嵌めていた。

 そうすることで、いつしか慎重の度を超えて、臆病になっていたのである。

 そう考えれば、このとき洋平が少なくとも勇気を出す決意をしたことは、彼の成長でもあった。

 修吾の取った行動が燻っていた彼の心に火を点けただけでなく、修吾がすでに美少女に話しかけたという事実が、彼に免罪符を得たような気にさせていたのかもしれない。

 起因は何であれ、ともかく洋平が異性に対して、このような感情を抱くことは初めてであり、ましてや行動にまで移そうとするなど、彼自身ですら信じられることではなかったと言えよう。まさに、何者かに憑依されていたとしか思えなかったのである。

 彼の心中は、笛の音が待ち遠しい気持ちと、初めての試みに、一種の畏れにも似た躊躇いが混在していた。


「ピピー」

 ついに休憩を知らせる笛の音が、辺りに鳴り響いた。

 洋平の思い描いた通り、美少女は先ほどと同じ場所に座っていた。

 意を決した彼は美少女の視線を受けるようにと、ことさら足を海面に打ち付け、波飛沫十共に、一気に浜に泳ぎ着いた。そして、素知らぬ顔で、彼女から少し間を空けたところに腰を下ろした。

 しばらく沈黙が続いた。

 洋平は美少女の近くに座ったものの、話し掛ける言葉を見つけられずにいた。彼女の素性すらわからないままでの、思いつきの行動には、そこまで考えが及ぶはずもなかったのである。

 さすがに、いきなり、

「君、名前は?」

 などと訊ねることは、不躾だろうと思っていた。

 この沈黙は、洋平に極度の緊張感をもたらした。

 激しさを増す胸の鼓動は、しだいに痛みを伴い始め、呼吸もままならなくなった。

 まるで、いつもより深い岩礁に大きなサザエを見つけ、どうにか獲物を手にしたものの、そこで無呼吸の限界に達してしまい、目眩を覚えながら光揺らめく海面に向い、浮上しているときのような息苦しさだった。

――このまま手を拱いていても、この圧迫感からは決して逃れられない。

 袋小路に追い詰められた彼は、二者択一の決断に迫られた。

『思い切って話しかけるか、それとも立ち去るか』

 答えは自ずと決まっていた。

 胸の痛みに耐えることに精一杯で、頭の中が真っ白になっている彼が、前者を選択することなどあり得なかったのである。

 とうとう、間合いに耐え切れなくなった彼が退散を決め込み、腰を浮かせて美少女に背を向けた、そのときだった。

「泳ぐのとても上手だね」

 なんと、彼女の方から話し掛けてきた。

 初めて耳にしたその声は、見事なまでに彼女の外見と一致して、期待を裏切ることのない涼やかなものだった。

 洋平は、その魅惑的な声に引き戻されるかのように、再び腰を下ろし、振り向いた。

 間近で見た彼女は、一層美しかった。

 やや卵形の丸顔で、大きな目、長い睫毛に形の良い耳。鼻筋が通っていて、適度な大きさの口があった。中でも印象に残ったのは、前髪から透けて見えた少し太目の濃い眉で、それが彼女の意思の強さと利発さを感じさせた。

 彼女の方から声を掛けられるという、目論み以上の成果を得たのにも拘らず、洋平がが、

「うん、まあね」

 と素っ気無く答えてしまったため、そこで会話が途切れてしまった。

 洋平は、気持ちと裏腹の物言いをしてしまったのだ。素直になり切れない彼の悪い癖だった。

 洋平は集合場所のときといい、この場といい、機転を利かすことのできない自分自身に腹ただしくなっていた。

 ところがである。

「私、井上美鈴。君は?」

 再び彼女の方から話し掛けてきた。

 洋平は救われた思いに、

「おらは」

 とつい方言で答えそうになり、

「あっ、いや、僕は野田洋平」

 慌てて標準語で言い直した。

 田舎者と思われる気恥ずかしさと、出雲弁では理解できないかもしれないという思いからだった。そして、今度こそ天与の機会を逃すまいと、洋平は初めて彼女を見つけたときから抱いていた疑問をぶつけた。

「わい、いや、君はどこの子?」

「大工屋よ」

 彼女は洋平を見つめると、

「夏休みなので、お祖父(じい)ちゃんの家に遊びに来ているの。それと、普通に話して良いよ。私、だいたいわかるから」

 と微笑んだ。

 その瞬間、洋平は心臓を鷲掴みされたような痛みを覚えたが、それは心地よい痛みだった。

 美保浦は、わずか五つの姓で村の八割の世帯を占めるほどに同姓が多かった。したがって、別段商売をしているわけでもないが、それぞれの家に屋号があり、皆それを呼び合っていた。

 洋平の生家の「恵比寿」という屋号は、古くからの網元だったので、この辺りで海の神様として信仰を集めていた恵比寿様が由来となっていた。

 大工屋とは、まさにその名の通り、大工職人をしている家であり、村に二軒しかない棟梁の家だった。

 洋平は、大工屋の棟梁を知っていた。

 祖父の洋太郎とは古い付き合いで、たまに家にやって来ては、祖父と酒を酌み交わしていたからだ。また、五年前に家の半分を取り壊して改築したのだが、それを請け負ったのも大工屋だった。

「大工屋? 万太郎爺さんなら知っちょうよ」

 彼女が恵比寿と付き合いの深い 家の身内だったせいか、洋平はいくぶん心強くなっていた。

「えっ、お祖父ちゃんを知っているの?」

 彼女は目を見開いた。

「うん、知っちょう。ちょくちょく、うちに酒を飲みに来られえよ」

「ふーん、そうなんだ」

 彼女がそう言って首を傾げたとき、休憩の終わりを告げる笛が鳴った。休憩はこれが最後で、次の笛が鳴ったときは海水浴の終わりを意味していた。

 このままで居たい洋平だったが、皆の注目を浴びることに躊躇いがあった。

 後ろ髪を引かれる想いを抱いたまま海に入った洋平は、次に彼女と話ができる方法はないか、とずっと考えていた。

 だが、とうとう思いつかないうちに、終わりを告げる笛が鳴ってしまった。


 帰りの道すがら、洋平は美鈴の事ばかりを考えていた。

彼の頭の中は、彼女の顔や声で埋め尽くされていた。何かの病気にでも罹ったように、彼女の事が頭から離れなかった。

 もちろん、このような経験はしたことがなく、彼は期待と不安が混在する、何とも奇妙な精神状態の中に置かれていた。

 ただ、そうした中にあっても、彼が一つだけはっきりと自覚していたことは、この途切れることなく、美保浦湾に押し寄せる日本海の波の如く、間違いなく恋という波が、自分の胸に押し寄せて来ているということだった。

 集合場所に着き、もう一度人数の確認を終えて解散となった。

「洋平君」

 背後から呼び止める声がした。振り向くと、律子が近づいて来た。

「一緒に帰ろう」

「え?」

 洋平は困惑した。初めて律子から声を掛けられたこともそうだが、それにも増して、美鈴の目が気になったのである。

 躊躇している洋平に、律子は彼の手首を掴み、強引に歩き始めた。その勢いに押されるように、洋平はなすがままに歩みを進めるしかなかった。

 律子の家は集合場所から海岸線に沿って続く、緩やかなカーブの一本道の中間点付近にあった。道程にして百五十メートルほどだったが、その僅かな距離が、洋平には千里の道程にも感じられた。

「洋平君、あの子を知っちょうの?」

 怒ったような口調だった。

「いや、知らん」

 洋平もぶっきらぼうに返した。

「だいてが、親しげに話をしちょった」

「えんや。大工屋さんの親戚で、遊びに来ちょうって訊いただけだ」

「ふーん、そうなの」

 律子は懐疑的な目をすると、

「洋平君は明日も泳ぎに行く?」

 と訊いた。

「いや、行かん。明日は叔父さんと八島へサザエを獲りに行くけん」

 洋平は咄嗟に嘘を吐いた。理由は、彼自身にもわからなかった。

「そうなんだ。じゃあ、私も止める」

 律子がそう言ったとき、彼女の家に辿り着いていた。

 洋平は、一瞥もせずに歩き出した。律子は気掛かりの表情を浮かべながら、しばらく門の前で洋平の後姿を見つめている。

 洋平の家は、律子の家からさらに百五十メートル南下した後、西に百メートルほど進んだところにあった。

 大工屋の家は、洋平の家から南西の方角にあった。つまり、彼が曲がる角をさらに五十メートルほど南に下り、そこから西へ曲がることになった。その西に曲がって大工屋に向かう道が街や隣村へ繋がる道路で、バスが通る道でもあった。

 洋平は、後ろを歩いているであろう美鈴のことが気になって仕方がなかった。

 律子との関係を誤解したかもしれないという心配と……もっとも、誤解ではないのだが……もしや他の誰かが声を掛けているのではないかという不安が交錯した。

 しかし、は立ち止まって彼女を待ち、皆が注視する中で話し掛ける勇気など洋平には残ってはいなかった。すでに小浜で、彼女の横に座わったときに、それを使い果たしていた。

 洋平は、後続から遠ざかるように、少し早足で歩いた。自身が話し掛けられないのであれば、万が一にも誰かと楽しそうに話す彼女の声を耳に入れたくなかったのだ。

 やがて目の前に、恵比寿家へ向かうための、西へ曲がる角が近づいてきた。

 このとき洋平は、走って我が家の前を通り過ぎ、海岸通りと反対側の道を通ってバス通りに出て、前から帰って来る彼女を待っていようと決断していた。そして、まさに走り出そうとしたときだった。

 誰かの小走りの足音が近づいて来て、声が掛かった。

「洋平君、明日も泳ぎに行く?」

 鈴を転がしたような声だった。律子と同じことを聞かれたのに、耳に心地良かった。

――美鈴だ……。

 洋平が弾む心を抑えて横を向くと、少し高い目線に首を傾けた美鈴の顔があった。

 すでに乾き切ったた髪はさらさらと潮風に靡き、日に焼けた頬はほんのり赤みを帯びていた。それは透明感のある肌に、薄化粧を施したかのように映えていて、彼女を一段と美しく見せていた。

――ひ、ひょっとしたら、彼女はおらを誘っちょうのか……。

 そう直感した洋平は、浮つく心を仕舞い込むようにして、

「たぶん、晴れたら行く」

 と平静を装って答えた。

「じゃあ、私も行こおーっと」

 美鈴は独り言のように呟くと、清風を残して走り出した。

 彼女は手に持っていたかばんを、肩を軸に大きく振り回しながら、ときどきスキップを交えて走っていた。洋平は、彼女の躍動感溢れる後姿を見ながら、去り際に彼女が言った言葉の意味を考えていた。

――やはり、彼女はおらを誘っちょったのだ。もしかして、彼女もおらに気があるのかもしれん、と。

 洋平は、予想もしなかった成り行きに胸を膨らませていた。同時に、このときの何でもない会話が、彼女と大切な約束事を交わしたような親密感も抱いていた。

 彼女は、わずかに二十メートルほど進んだところで、意表を突いて急に立ち止まり、こちらに振り返ると、左手を顔の横で小さく振った。

 このときの彼女の弾けるような笑顔を見た洋平は、オウム返しのように、手を振り返した。彼は、初めての仕種にもかかわらず、ごく自然に手が動いていることが信じられなかった。

 美鈴は、洋平が手を振るのを見届けると、再び前を向いて走りだした。

 洋平は、遠ざかって行く彼女の姿から目を逸らさずにいた。彼には、美鈴がもう一度振り返る予感があった。いや予感ではなく、彼女なら絶対に振り返るという確信があった。洋平は、それを確認するべく、曲がり角で立ち止まって、彼女の後姿を見ていた。

 すると洋平の確信通りに、美鈴はちょうど大工屋さんに向かうための、西に曲がる角のところで、立ち止まって振り向いた。彼女は、今度は肘をまっすぐして左手を高くあげ、何度もジャンプを繰り返しながら、大きく左右に振った。それは、自分と彼女の間がずいぶんと離れていたので、目に留まるようにしたのものだと理解できた。

 洋平もそれに応えて、大きく手を振った。今度は、間違いなく意識をしている彼がそこにいた。

 しばらくして、彼女は西へ向かって歩き出し、洋平の視界から消えた。

 美鈴の思わぬ行動によって、洋平は明日も彼女に会えるかもしれない、という期待に胸をときめかせていたが、ただ有頂天になっていた訳ではなかった。

 一連の言動から察するに、彼女も自分に気があるのではないかと希望を抱く一方で、都会の少女は誰もがあのようなものなのかもしれない、という冷めた気持ちも心に潜ませていたのである。

 それは、すぐれて洋平が、恋に関して臆病だったからに他ならない。彼は、初めての恋心に舞い上がり過ぎないための、自制の予防線を張ったのであり、また恋が叶わなかったとき、心に受ける傷を小さくするための安全網を敷いたのだった。

 そして、それら複雑な心情の中に、律子に対する罪悪感も混じっていることを洋平は十分自覚していた。


 家に戻ると、屋敷内の西にある井戸端に行って水浴びをし、身体に付いた海水の塩分を洗い流した。

 当時、恵比寿家には水道と井戸があり、飲料水や料理には水道水を、お風呂や洗濯などの生活用水は井戸水を使っていた。村の数箇所に、バケツで汲み上げて使用する共同の井戸があったが、恵比寿家には、敷地内にポンプ式の井戸があった。

 井戸水は水道水と比べて、水温が夏に低く冬に高いという利点があったため、たとえば、桶に貯めて西瓜や野菜などを冷すことには重宝であったが、いかに真夏とはいえ、水浴びをするには少々冷たかった。

 恵比寿家は、周囲を大人が背伸びしなければ、中が覗けない高さの壁で囲っていたので、洋平はいつもそこで海水パンツを脱いで真っ裸になり、水浴びをしていた。ついでに髪や身体も洗い、お風呂の用をそこで済ませていた。近くに納屋があり、着替えが用意してあったので、そこで身なりを整えた。

 洋平は夕食の時間まで、珍しくも自分の部屋に籠り、今日の午後、我が身に起こった小さな幸運の奇跡を思い返していた。そして、まだ彼女の年齢を訊いていなかったことに気が付いた。

 彼は、仮に美鈴が年上だとすると、少々複雑な心境になるだろうと悩ましかった。なぜなら、この当時の小学生の時分、同じ村の女の子でさえも、一歳でも年上となると、精神的にかなりの年長者に感じられ、恋心を抱くことなど考えられなかったからである。

 たとえ、どんなに美人と村の評判になっている女の子に対しても同じであった。憧れのような感情は抱いても、それは恋心とは違っていた。

 ましてや、彼女は村の者ではない。もし大都会に生まれ育っていたのならば、それだけで、精神的な成長度において、自分と彼女との間には、相当な隔たりがあろうことは、容易に想像できたのである。


 夕食の時間になり、洋平は小浜でのことを祖父の洋太郎に話した。祖父ならば、美鈴について、何か知っているかもしれないと期待してのことだった。

「お祖父ちゃん、今日小浜で大工屋さんに遊びに来ちょう女の子に出会った」

「大工屋に遊びに来ちょう女の子?」

 洋太郎は思いを巡らした後、

「ああ、東京にいる秀次の子供じゃないか」

 と続けた。

「秀次さんなら、盆と正月には、よくお嫁さんと子供も一緒に帰って来ちょうよ。だいてが、今年はもう帰って来ちょうということは、一人で帰って来ちょうのかな?」

 祖母のウメが話しに入ってきて訝しげに言った。

――東京の女子かあ、だからあんな風なんだ。

 洋平には妙な納得感があった。そして、都会の少女の気質がどういったものか知らない彼は、すでに混乱に陥っている自分であれば、当分このままなのだろうと思っていた。

 ウメが洋平に訊ねた。

「女の子は、美鈴ちゃんって言ってなかったかい?」

「うん、美鈴って言ってた」

「そんなら、だいぶ昔に一度、万太郎さんがその娘を連れてござったことがあったね。あれは確か、洋平が小学校に上がる前だったと思うが、この離れの新築を大工屋さんに頼んだんで、お礼にと正月にお酒をもって挨拶にござったことがあったでしょうが?」

 記憶を呼び起こしたウメは、洋太郎に声を掛けた。

「そげだったかな?」

 洋太郎は首を傾げるばかりだったが、それは無理のないことだった。正月ともなると、村から外に出ている洋一郎の兄弟連中が一家揃って帰省をしていたうえに、近くに住む親戚や、あるいは仕事の関係者などが、ひっきりなしに、年始の挨拶に訪れていたからである。

 したがって、正月三が日は連日酒宴となり、大変な賑わいだったので、いちいち覚えていられないのも仕方がなかったと言えるのだ。ましてや、お酒が進み、酔いが回った後に来た来客など、なおさら憶えているはずもなかった。

 洋平はおぼろげではあったが、何となくそのときのこと思い出していた。

――おらは、昔彼女に会っている。

 そう思うと、洋平はただそれだけで、心の奥底から沸々と勇気が湧き出でるのを感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る