1章
▽それは春と共にやってきた△<1>
1
土の月、十四日。
だいぶ暖かくなり、日中は寒さを感じなくなってきた。防寒用の
窓の外に見える景色はまばらに雲が浮いているけれどどこまでも広い青空で、冬よりも輝いて見える太陽がとても温かい。
冬のつんと澄ました空気はちょっと乱暴な暖かさに押しやられて、土の香りが空気を騒がす。
世界が急激に色で賑やかになるこの季節は、人間にとっても嬉しい時期だ。苦しい冬を耐えて目の当たりに出来る光景。そして生命というものを実感する。
窓から顔を出して外の空気を確かめたけれど、もう厚い外套はいらないみたいだと判断して机の上に置く。一応陽が落ちた後に急激に寒くなる事を考慮してずっと羽織っていたこの外套も、掃除したらしまってしまおう。
衣装棚を開けて代わりに薄手のものを探す。茶色か灰色か迷って、茶色にした。
服装が決まれば後は前日に用意しておいた鞄を持つだけだ。いざ、玄関の扉を開ける。
そうして私の眼前に広がるのは、自然と人工物が混じった都市の姿。
西州の州都、クリーケン。
私の住んでいる街。
私が直接訪れ見た事のある中では最も規模の大きな街だ。しかし話によれば王都はこの街とは比べものにならない程に人に溢れ、建物は天を
でも私はこの、街中であっても自然を感じる事が出来る雰囲気が好きでもある。生まれた州の州都、愛着もある。
それに加えて、程度が良いというのもある。都会と田舎の配分、割合の程度。
王都は自然なんか全然ないというじゃないか。それに比べてここは人工物ばかりでもなく、しかし自然が目立つ程でもない。誰かが意図的に比率を調整しているのではないかと思うくらいに程良さ。そんなこの街が好きだ。
石畳の上を歩いて仕事に向かっていると、朝によく通りで焼き立てのパンを売っている老婦人の人を見かける。ロバに引かせた荷車の上に食パンを並べて露店にしている。王都だとこういった店は毎日物が盗まれるらしい。どこまでが真実なのかは知らないけれど、西州でもそういった事件は起きる。毎日、とまではいかないけれど。その辺は話を盛っているんじゃないだろうかと思う反面、王都なら有り得るかもと
もし本当だとしたら、私にはやはり中央よりは西の方が合っている。こういった無警戒さは愚かしくも好ましいじゃないか。
色の良いパンを遠目から眺めていると、売り子をやっているおばさんと目が合った。軽く
「おやおや、お兄さん。お仕事ですか?」
少し距離が離れているのも気にしないというような大きな声。
「そうです。こんにちは」
「はい、こんにちは。こんな朝早くから仕事とはご精が出ますねえ」
「ご婦人も」
「皆の朝食にですから。私は早く店を開けないといけませんので」
それもそうだ。
社交辞令みたいな会話をするが、なんだかもう少し会話が続きそうな気がしたので老婦人に歩み寄った。少し声を張らなければならない距離で会話をするのは朝から疲れる。
「お仕事は何をされているので?」
「役所勤めですよ」
「あら、偉い方なんですね」
「いえいえ、
「ふふふ。いいじゃないですか。色々と仕事を任せてもらえるというのは、頼られている証拠ですよ」
と、老婦人は笑う。
そうだろうか。重要な仕事は任せてもらえない辺り、あまり信用されていない気もするのだけれど。照れ隠しのように笑って
性格が良くなったのか悪くなったのか、判断しづらいな。
「どうです? 一日の元気のためにウチのパンを食べませんか?」
いつ来るかと思っていた言葉でようやく切り込んできたのはこのタイミング。
まあ向こうも商売だし。
「お兄さんはよく見る顔ですし、お安くしときますよ」
「商売上手な事で」
少し嫌味の入った私の言葉にも老婦人は悪びれもせずに愛想のよい笑みを浮かべている。その立ち振る舞いからはこの仕事を続けて長いという雰囲気が
多分私が生まれるよりも前からやっていたんだろうな。
その笑顔の威圧に負けたというわけじゃないが、買う事にした。いつも朝食は少なくしているし、昼食にしても良い。それにこれから会う奴に分けてやるのも良い。
断った場合、通勤の際に通る道すがらパンを売っている老婦人という、最早ご近所さんと言ってもいい人との関係がこじれてしまうかもしれない。不親切な輩とか不愛想な男とか、そういった印象を持たれてはかなわない。いや、老婦人一人に悪く思われるくらいならばまだいいんだ。彼女が私に抱いた悪評が
なので、こういった小さな行動の積み重ねも気にする必要がある。人付き合いって奴だな。
「分かりました。半分の半分くらいで。包んでもらえますか?」
「えーと」
婦人はナイフで器用にパンを半分に切った。更にそれをパンをくるんでいた布で包もうとしたので慌てて止める。
「いや、その半分でいいんですけれど」
「いいのよ、これは気持ちだから。お金は半分の半分の額をもらえれば十分。銅貨5枚ね。でもまたウチのパンを買って
「ははは」
愛想笑い。どうしよう、これを恩にして今度から通りかかった度に買わされてしまったら。お金に余裕がないわけじゃないけれど、そもそも十分な量の食事は家を出る前に済ませてあるんだから必要ない。
それに今回、
断れば良かったのだろうか。でもせっかく多くしてくれたという善意は断りづらい。悪意ははっきり否定出来るのに、これは自分の良くない所だろうか。
色々と思う事はあったけれど、おばあさんの差し出したパンを私は受け取った。そしてお代の銅貨五枚を渡す。
「うちの小麦はいい小麦だから、良い味出ますよ。最初は出来ればジャムなどを付けずに食べてみてください」
「ええ、分かりました」
ふと、屋台に並べられている物の一つが目についた。
透明の小瓶。コルク付きのそれの中には薄く濁った白色の液体が入っている。
「ああ、これ? これは売り物じゃないですよ」
視線に気付いたようで、老婦人はそう伝えてきた。
「ええ、それは分かっています。何かの薬……ですか? マーガリンやジャムの代用品には見えませんが」
「そうです。魔法アレルギーの
「アレルギーの……」
魔法アレルギー。
老婦人が疾患者なようには見えなかった。薬が必要な程に重度の魔法アレルギー疾患者なようには。この病気は目に見えるものでもないと分かっているはずなのに。
「しがないパン屋の老婆にはこれくらいの量しか買えなくて……それでも、これはまだ古い薬なんですって。新薬の方は今量が少なくなっているって
「そうですか」
右手に持つ鞄を少し持ち直しながら頷いた。
「値上がりしたとは初めて聞きました」
「この辺りの貧乏人はみんな古い薬を買わされていますから……お兄さんは魔法優良人で?」
「ええ、まあ。親が丈夫な体に産んでくれたおかげで」
「いいわねぇ。羨ましいわ」
「マスクをしている人が少ないので、最近はあまりアレルギーも流行していないのかと思っていました」
「マスク?」
老婦人が首を傾げるので私も首を傾げる。なんだろう、常識を話しているはずなのにこの伝わっていない感じは。
「あれですよ。最近開発された、えーと、呼吸によるマナ摂取量を一定に整えてくれるというマスクです。普段の呼吸の量から適切なマナ摂取量を自動的に割り出してくれるとか。薬の代用になるという程効果があるわけではないのですが、日常生活は結構楽になると聞きますよ」
まさかと思って説明してみたら、案の定老婦人は曖昧な相槌を打って来た。そんな物など聞いた事がないというように。
「へえぇ、そんな素晴らしい物が……でもそんな便利そうな物を買う程のお金はうちにはありませんでねぇ」
「いえ、安く買えますよ」
虚を突かれたような表情を作って驚くので私は思わず嘆息してしまう。目の前の人物にではなく、広報を担当している誰かに。
「国がこの製法を買い上げたんですよ。一般市民にも行き渡るように、との方針で州の予算を使っています。大きな街から外れた場所だとあまり流通していないかもしれませんが、クリーケンだとどこでも低価格で購入出来るはずです」
「そうなんですか」
「一応今月の頭には
軽く言っているけれどこれは問題にすべき事態だ。
国が方針を決めて政策を取り決め、ちゃんと民間にも伝わるようにと各州にも行動させているにも関わらず、西州の中心とも言えるべき州都でそれが伝わっていない。今ぱっと思いついただけで問題となる可能性は二つ。民間への伝え方に問題があるか、もしくは伝える側がわざと怠けたかだ。
後者だと流石に誰かが気付きそうな気がするけれど、あまりにも目前で怠けられた時たまにそれが普通なんだなとか勘違いして見過ごす事もある。まあ前者の方が可能性としては高そうだけど。
魔法アレルギーの問題は年々深刻化している。患者の増大、緩和薬の改良による需要の増加と値段の増加、そして魔法規制の問題。
今回の件のように国と民間との些細なずれが、いずれ大きな問題を起こす事もあり得る。殊に魔法アレルギー程の大きな課題においては普通であれば許される過失で大問題を引き起こすやもしれない。この事はさっそく議題に持ち上げるとしよう。
この老婦人と話せて本当に良かった。やっぱり人とは話すべきだな。
「マスクの事もそうですが薬の方も今、州が頑張って安くしようとしているらしいですよ。なんとか税金から医療費に当てられないかとしているみたいです。それに薬の研究も進めば安価で効果の高い薬も作られる事でしょう」
「あらホントですか? こんなオバサンが生きている間に出来るのかしら」
「きっと」
実際の所分からないけれどそう言っておいて、別れの言葉を口にする。パン屋の老婦人は、それはそれは嬉しそうに手を振ってくれた。
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