Second
どん詰まりの一番奥、そこから振り返れば擦り切れたカーペットの薄汚れた色が目に入る。ベージュだったのか、茶色だったのか、現状ではまだら模様にあらゆるシミが広がって、壁際には埃の渦がところどころで張り付いている。雑な清掃で洗剤を含んだまま干乾びたのだろう。
壁紙も張り替えたことがないらしい、ひどく汚れてあちこちに大小のシミが浮き出ている。全体は茶色のグラデーションで、天井付近の壁には埃が引っかかるように付着している。
安い宿だ、泊り客が文句を言うことも恐らくはないのだ。
スラムと化した現状の大都市でも、これほどの物件には滅多とお目にかかれはしない、デイビスは肩を竦めるとレトロな鍵をドアの鍵穴に差し込んだ。
ドア自体はどこででもよく見る、黒っぽい木目の一枚扉だった。どうせ屑素材を合成したベニヤ板だ。
地球が滅んだ今、木材は高価で庶民の手出し出来る品ではない。鉱物素材の方がよほどに安上がりだが、それ以上にあらゆる素材の屑を高圧で接着した複合素材のほうが安価だった。
ビニール製品はもっとも高い。石油は、地球が滅んだ時に強度の放射能を吸って使えなくなった。代わる資源は、他の星にはない。
人類は歴史の果てで、石油資源を巡る争いの末にこれを永遠に手放してしまった。未来とともに。
ドームはそれぞれで独立の体を成している。
地球から逃れた避難民は雑多に、あらゆるものが入り混じった形でこの月面へ逃げ込んでいる。国籍や民族なども複雑に入り混じった中、共同体を作りあげる法則は一重に「運」と「力」のみだ。
金であったり、その金を奪う暴力であったり、人々の結束であったりした。ドームによって異なる。
このドームでも、よく聞く権力者の交代劇が繰り返された。資産を持ち込んだ人間が権力を振るい、それをマフィアに近しい者達が横殺し、分裂した彼らが自滅した後に連帯した市民の手で追放された。
よく聞く権力の推移。血生臭い革命を経た結果、現在は民主的な自治体に落ち着いている。
事件がいつ頃から起きていたのかは不明だ。
最盛期で一万人を越えた人口も、革命後期には四千人に減った。連日繰り返される惨劇に耐えかねて逃げ出す市民も数多かった。そのドサクサに消えてしまった幾人かの人間がいる。
また、いつ頃からか、このドームを訪れる者のうちから数名が忽然と姿を消すようになった。
血生臭い歴史の中で、健常者の中から異常者が生まれ出る。あるいは、無自覚の異常者が血生臭い歴史に触発されて目を覚ますのか。
近頃の流れ者は荷物さえ持たない。手ぶら、着の身着のまま、移動用のモーターサイクルに僅かばかりの財産を預けて放浪する。身に着けておくよりもよほどに安全だ。モーターサイクルはこの月面を覆うと同じテクノロジーで作られており、違法なものになれば戦車と変わらない攻撃力を誇った。
過疎化したドームも近頃は危険が増しており、身を護るための武器は必須だ。デイビスも電磁ナイフやレーザースコープライフルを所持している。もっともナイフは見せて油断を誘うため、ライフルはモーターサイクルに括り付けたまま、使用した試しはない。
改めてデイビスは室内を見回した。
ここも、廊下と同じに小汚い部屋だ。入って正面にいきなりスチール製のベッドがあり、清潔とは言い難いリネンの類が体裁程度に整えてある。黄色く変色したシーツの染みを、デイビスは丁寧に検分した。
単なる汚れではない、血の跡を数箇所見つけ出す。
何処かで監視カメラが作動しているはずだ、怪しまれないように手早く検分を済ませると、デイビスは何食わぬ顔でベッドへ寝転んだ。
こういう時、放浪の若者たちはどういう行動に出るのだろうか。
しばらくの間、身動きもせずに天井を見つめていたデイビスは突然むくりと起き上がった。視線の先にはこの部屋に一つきりの窓。粗末な造りのあらゆる場所に見合わず、その窓に作りつけられた鉄の格子は頑丈そうに見える。異様な感じがする。
窓の傍へ寄ると、異質さはさらに際立った。牢獄のような太い鉄の格子が窓枠全体にしっかりと固定され、なにか囚人めいた気分にさせられる。窓の向こうには、これもホログラムなのだろう、美しい河川の風景が広がる。ホテルリバーサイド、名に恥じない風景はしかし鉄格子の向こう側にある。
この建物が建てられた当初には無かったのだろう、格子の隙間から覗いた窓枠の外側に、閉めることが出来なくなった雨戸が吹き晒されて白く変色していた。
ドームの中は天候が安定して、災害ともいえるような甚大な気象現象は起きないようになっている。それでも人工の雨や風に長年晒されて建物は劣化してゆく。
また、ノスタルジーに拘る人々は、そういった現象さえ喜んだ。
死に向かう老人の感慨は、デイビスには理解不能に近いものだったが。
窓際から、室内に目を向ける。明かりの燈されない空間は陰気だ。
薄暗い陰りが、元は華やかだったはずの壁紙さえ貧弱なものに見せる。小さな花束のレリーフはエンボスに細工され、模様に付けられた起伏が微細な陰を落とす。透かし彫りという技巧。壁紙自体に機械加工でプレスされ、模様が浮き出るように微かな膨らみを持たせてあるのだ。手で触れば解る程度の。
同じ、作られた空間である内と外。
明るく美しい景色を映し出すホログラムの風景と、憂鬱さを滲ませる室内の装飾。
窓際に背を預けて室内を一通り見回してから、デイビスはまたゆっくりと移動を開始した。
フロントへの連絡は室内にあるレトロな壁掛けの電話を用いるようだ。相手の出方を窺うために、デイビスは受話器を持ち上げる。
消えてしまった幾人かは皆、このホテルに滞在していた記録が残されている。
『なにか?』
例の甲高い声が受話器の向こう側から響いた。
「ルームサービスを頼みたいんだが、」
簡潔に返す。
『メニューはサイドテーブルの引き出しに入っております。……別料金を戴きます。注文がお決まりになりましたら、もう一度お呼び出しを願います。』
「解かった、ありがとう。」
淡々と用件だけを告げて、相手から先に切られた受話器を戻す。
壁掛け電話の隣にテーブルと背の高いワードローブがある。そのテーブルの引き出しを引くと、中にくたびれたメニュー表が一枚きり忍ばせてあった。
メニューも簡単な軽食類のみ。珈琲、紅茶、ざっと目を通した後でデイビスは再びフロントに電話を掛け、ジントニックとチップ&フィッシュをオーダーした。
ごく普通の値段、仕掛けがあるとしたら料理だろうか。
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