第11話 アルバイトから正社員へ
「土田さんはお休みなんですか?」
普段なら、事務所のパソコンに向かってむずかしい顔をしている土田弥生がいなかったので、奥のデスクの社長に訊ねた。
「青山くん、聞いてへんの?」
「はあ、何をです……」
「彼女、結婚するんよ。それでいまハワイに行ってるの」
「へー、結婚ですか」
「小さいけど会社の社長さん。お見合いパーティーで知りおうたみたい。ハワイで、二人だけの結婚式を挙げるんよ、彼女」
「信じられないなぁ」
「青山さんにふられたから、チーフ決心したんですよ」
香代ちゃんという女性スタッフの一人が、僕をからかった。
「もぉ……へんなこと言わないでくださいよ」
「だって、それまで年下の男性ばかりに目がいっちゃってたチーフが、一回りも年上の男性と結婚するなんてとても信じられないもの」
「青山くん、ほんまらしいわよ。あんたが邪険にするもんやから、彼女、やっぱり男は経済力やって気がついたんやわ」
「もう、社長まで……よしてくださいよ。邪険にされていたのは僕の方ですよ」
僕は香代ちゃんに衣装を返して、アルバイト代を受け取った。
「ところで年末年始はどうするの? 実家には帰るの?」
そう訊ねながら社長は窓際まで行って、ソファーに腰を下ろした。
僕はアルバイト代をジーンズのポケットへねじ込むと、向かいの一人用のイスに座った。
「いいえ、予定はありません。たぶんこっちで寝正月だと思います」
しかし、実家からは、正月には必ず帰ってくるようきつく言われていた。もう、かれこれ三年帰っていなかったのだ。帰ればきっと、地元の農協にでも入って地道に働くか、さもなければ家業の酒屋を継げと説教されるに決まっているのだ。
社長は、僕の返事には無関心のように煙草に火をつけ、溜息まじりにフーゥと煙を吐き出した。
「ところで就職活動は、どうやのん?」
「内定の通知待ちが一件あるだけです」
東証一部上場ではないが、名前だけは知られていた。テレビのCMでもお馴染みだから、富山の両親も知っているだろう。ただ、それに落ちれば来年の四月採用は完全に絶たれることになる。正社員の夢は、再来年の四月まで持ち越されるということになるのだ。
「そう……。ところで青山くん、うちの正社員になるっていう件は、考えてくれた? 何度も言うようで悪いんやけど……。まあ、あんたがさぁ、一流企業を目指す気持ちはわからんこともないのよ。そらね、うちは中小企業やし、勤務時間も不規則やし……けどね、遣り甲斐はあるよね。年々売上げは増えてるし、社員も増やしていってる。だから私はね、青山くんに、ぜひ社員になってもらいたいのよ。四月には、大卒で二人入社する予定になってるけど、その二人も、以前からうちに登録していて、何度かアルバイトしてもらったこたちなのよ……。あ、そうだ。香代ちゃん、あれはどうなっていたかしら……」
社長は煙草を灰皿にもみ消すと、香代ちゃんの席まで赴いた。その突然のわざとらしい行動も、実は僕に、いまこの場で結論を出させるための企てだと気づいたが、年末にホテルで催される新年へのカウントダウンのアトラクションについて、二人が何やら打ち合わせしているのを、僕は煙草をくゆらせながらぼんやりと聞いていただけだった。社長は四、五分で戻ってくると、僕の顔を覗きこみ、小鳥のように小首を傾げたりしたが、僕が頭をかきながら俯いてしまうと、また続きを話し始めた。
「うちはほとんどみんな中途採用者ばかりやけど、これが案外、一流企業を辞めたこが多いんよね。あの土田さんは都市銀行やったし、横山くんは自動車メーカー、外人モデルの担当している大下くんは外資系の大手損害保険会社。みんなせっかく苦労してええところに就職したのに、結局は理想と違っていたり、遣り甲斐が見つけられなかったりして、現実の壁にぶちあたるのよ。それがうちでアルバイトしているうちに何かを感じたり、見つけたりしてね……ほかにもいるけど、この私だって、昔は女性誌の編集長をしていたんだから……」
俯いて聞いていた僕がひょいと顔を上げると、社長はずっと僕を見据えて話していたらしく視線が合って、恥ずかしくなった僕は慌てて視線をそらせた。
「そうねぇ、青山くんには熊や河童や怪獣などの恰好ばかりしてもらってるけど、それはアルバイトだからで、社員になればアイデア次第でなんだってできるのよ。何もイベントで着ぐるみ着るばかりがうちの仕事やないの。営業も必要やし、イベントの企画もしてもらいたいし、タレントの発掘や育成、定款には映画やテレビドラマのプロデュースや、広告制作の仕事も入れてあるんやから、これから先、やり方次第ではいくらでも可能性があるんやけどねぇ……。そうそう、会社を設立して三年目やったかしら、大学の就職課訪ねて新卒採用の求人票を出したことがあるんよね。けど、一本の問い合わせ電話もかかってこなかったわ。それがね……ふふふ、今じゃ募集もしてないのに会社訪問したいだとか、資料をくださいだとかの電話がかかってくるのよ。おかしいわよねぇ。やっぱり時代は変化しているのよ。ね、無理にとは言わへんけど、よーく考えてお返事ちょうだい」
社長は再度、ねっ、とダメ押しするかのように笑顔を傾けてから立ち上がった。
「はあ……そうですね」
僕はまるで他人事のように曖昧に答えて、事務所を辞去したのだった。
(つづく)
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