第8話 川の流れ
男は鳴瀬健一と名乗った。老けて見えたがまだ四十三で、家に帰れば年相応の妻と就学前の娘がいるらしい。三年前に都市銀行をリストラされ、それを転機に仕出し弁当屋を始めたが、軌道に乗る前に食中毒を出してしまった、と言う。
「いや、実はうちの弁当じゃなかったんですよ。デザートとして食べた自家製のシュークリームが原因だったんです。しかし、一度そういう噂が世間に広まってしまうと、もうおしまいです。悪い噂は広めても、それを訂正する噂など、いったい誰がしてくれるのですか……」
まだ実績もなく得意先もない弁当屋が食中毒を出したという噂は、それが事実でなくても致命傷である。だから営業を再開しても、一度遠のいた客足はすぐには戻らなかった。そんなロクな売上げもないのに、銀行からの借入金の返済、仕入れ代金や従業員の給料だとかの支払いは待ってくれず、逆に借金ばかりがかさむ始末で、そうなると毎日が借金とその利息の返済に翻弄させられてしまい、金を貸してくれるのであればサラ金はもとより、ヤミ金とよばれる業者でも躊躇しなかった。一時しのぎとは言え法外な利息は年率に換算すると1000パーセントを超え、たちまち返済は滞ってしまったらしい。
「まあ、金を借りたのは事実です。しかし親から譲り受けた家屋敷を売り払い元金くらいはとっくに返しているんですが、法外な利息と、それが生みだすさらなる利息をやつらはむしり取ろうとするんですよ。生命保険は解約して返済に充て、妻は四十になって初めてスーパーへ働きに出たんです。店の方は従業員に辞めてもらって私一人で何とかやってたんですが、余った食材を捨てるのももったいなくて、ごらんの通り豚になってしまいました。しかしこれでも、この一ヶ月で10キロは痩せたのですがね……」
いっそ破産宣告しては……とも考えたらしいのだが、それが通じるやつらではなかった。いつの間にか債権譲渡だとかいって見るからに暴力団らしき風体の男が二、三人やってきて、相変わらず金を返せと怒鳴り散らし、でなければ仕事を手伝えと闇の世界へ引きずり込もうとする。ヤクの売人、取り込み詐欺の片棒、身代わり出頭ならまだしも、人殺しをさせられたり、臓器を売られたり、生命保険をかけて事故死させられたりと、案外利用価値はあるらしい。
「私だけなら、どうなってもいいと思いましたよ。しかし、妻は離婚は嫌だと泣き出すし、娘はこんな不甲斐ない私でもお父ちゃんとなついてくれる。だから儲からない店はきっぱりとたたんで、一ヶ月ほど前から職探しを始めたのですが……」
職業安定所を訪れても、四十を過ぎた中年男の仕事は限られていた。というよりも、四十代は定年後に再就職する老人たちと同じくくりになっていて雇用条件は最低だった。たとえ採用されても元金どころか利息の一部を返済するのにも足りない、と言う。
「今日も、帰るのが辛くってね、お昼を食べるのも忘れて街中をさまよっていました。いつの間にか日も暮れて、店の明かりが際立ってきて、ふとショーウィンドーを覗くと『メリークリスマス!』の文字がガラスに白く吹き付けてあるんです。それで、はっとしてポケットを探ると五百円玉が一枚、妻からお昼代としてもらったものですが、それしかないんです。娘に、プレゼントも買ってやれやしない……。無性に悲しくなって腹立たしくなって、その金でコップ酒を買ってあおりました。実は、私は酒が飲めないのです。その後はどうしたのか……暴力団の事務所へ乗り込んでいました。別に、刃物も持たずに、いったいどうしようとしていたのでしょうかね……」
事務所で、金を返せ、返せなかったら言うことを聞け、とさんざん脅され罵倒され、それでも終始黙っていると、二、三人に裸に剥かれ、車に乗せられて人通りのない橋の上に連れてこられた。そこで欄干越しに、言うことを聞かなければ突き落とすぞと、もてあそばれたらしい。
「そりゃ、最初は抵抗しました。やつらは落す気なんてないとわかっていてもやっぱり怖かったですから。欄干から上半身を突き出され、首根っこを押さえ込まれて……目に映った川の流れは音もなく真っ暗に澱んでいました。そこには希望も幸福もない。ほんと何もないのです。辛いことも悲しいことも、ない。そう思うと、まるでおいでおいでって呼ばれているような気がして、ふっと体の力が抜けると、逆に自分の方から乗り出していました。上のほうから『落ちやがった!』と慌てふためいた声が聞こえましたが、おそらくその時の私の顔はうっすらと……笑いを浮かべていたでしょうね」
その後の記憶はなく、気がついたときには土手の繁みで震えていた、と言う。
(つづく)
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