第5話 マリア様さようなら!
「ご苦労さん! もういいよ」という声に振り返ると店長だった。
グレーのロングコートに臙脂のマフラー、黒い革手袋でもうすっかり身支度ができている。
「はい、でもまだ三十分ありますから……」
「いいよいいよ。もう誰も買っていきゃしないからさ。それに僕も早く帰りたいしな。君はどうなんだい、若いんだし、これから予定があるのだろう?」
へんにニヤニヤ笑いながら、肘で小突いてくる。
「ええ。まあ……」と答えて苦笑をもらした。うっそだぴょ~ん。店長の言うところの予定などある筈ないじゃない! だって純真無垢な就職浪人なのだからさぁ。
「女房と子供が待ってるものでね。わるいけど先に帰らせてもらうよ。そうだ、君。一個持って帰っていいよ」
店長はさらに店の奥へ、「あと頼んだよ」と声をかけるとケーキの箱を小脇に抱え、赤や緑のリボンのかかった包みではち切れそうな紙袋を提げながら駅のほうへと消えていった。
僕は、肩や袖にかかった雪を掌で払い落とし、ワゴンを曳いて店の中へ入った。奥の壁には等身大の鏡が掛けてある。それを何気なく見ると、赤地に白で縁取りされた派手な衣装のサンタクロースは、鼻や耳が真っ赤に火照っているばかりか鼻汁までたらしていた。僕は店の隅でそのサンタクロースの衣装を脱いだ。脱ぎながら腹立たしくなってきて丸めてスポーツバッグに押し込んだ。二十三日と二十四日の二日間のアルバイトだった。
厨房から、「ゲンさん」と呼ばれている五十がらみの男が出てきて、僕に陳列越しに声をかけた。
「これからお楽しみかい?」
まったくにやけた顔を見せる。そしてまた同じような質問……。
僕にはそれらの言葉が、自分を陥れるための黒魔術の呪詛のように聞こえた。悪意はないのだろうが、善意でもないその世辞が、空疎な心に棘となって突き刺さってくる。
「いいえ、まっすぐ帰って寝るだけです。駅で立ち食いかきこみますけど……」
心とは裏腹に笑って答えた。見栄を張るのも、いい加減に疲れていた。
「侘しいねー、いい若いもんが。――といっても他人のことは言えねーや。俺も一人アパートで一杯のくちだからなぁ、浪速に落ち延びて早三十年か……。かわらねーな。さっ、店長も帰ったことだし早仕舞いとするか……」
ゲンさんは笑いながらショーウインドーの明かりを落した。
「あのう、店長がケーキ一個持って帰れって……」
売れ残ったケーキはすべてが僕の責任ではないが、何となく言いづらかった。
ゲンさんは人差し指で、ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、と残数を確認し、
「まあまあだな。予約で充分儲かってるから店頭販売としちゃ上出来だよ。なんなら二つ三つ持って帰りな」と、まるで自分の店のように言う。
僕はスポーツバッグを肩に掛けるとワゴンに積んである売れ残りのケーキへと手を伸ばしたのだが、一瞬、電池が切れたロボットのように身動きができなくなった。同時にあの母娘の姿が脳裡へ浮んできた。さっきは気づかなかったことが見えてきた。女の子は着古して色のあせたジャンパースカート、女性はこの寒空にコートすら羽織らず掌を擦り合わせていたのではなかったか。ああ、最初から一個もらえるとわかっておれば、女の子には風船とともにケーキを持たせることができたのだ。
「おい、どうした? 後片づけならこっちでやっておくから」
「え? ああ、お願いします。それじゃ、失礼します」
「ああ、ごくろうさん。あ、そうだ! 気が向いたらいつでも寄んな。八時過ぎだったら売れ残ったケーキ持ってってもいいからさ、ただし、内緒だぜ、店長にはな……」
あたりをはばかるようにして、わざと口の前に人差し指を立てる。イブの予定はどうなっているのだろう、二人の会話を聞いていたマリア様が、隅の方でくすっと笑った。
「はい、じゃ……」
僕はぺこりと頭を下げた。
そして、マリア様さようなら、チョコホットありがとう。
「ほい、メリークリスマス!」
ゲンさんは万歳でもするように両手を高く振り上げて、叫んだ。
(つづく)
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