第2話 酔っ払いになぶられる
日没を迎えてからは普段よりもあわただしく、気もそぞろにせかせかと往来する人たち……。それを眺める僕だって、自然の光が消滅し、人工のイルミネーションが薄闇にきらめきはじめると、もう、どうしようもなく虚しく、寂しくなってしまうのだ。また、明日になれば日が昇るというのに……まるで自分には、その明日が訪れないかのように――。
そんな当たり前のことが、当たり前のことでなくなるような不安と焦燥。
だったらいっそうのこと「当たり前でなくなってくれよ!」と神に祈りさえする、罰当たりな自分がいたりする。
僕の立っているところからは、向かいの店の屋根越しにJRの高架橋が見渡せた。いままさに乗客を詰め込んだ客車が、鈍い軋みをたてながらのろのろと渡っていく。その背後にそびえ建つ白い大きなシティホテルの窓明かりが、蔑んだように見下ろしている。暖かい車内の人たちも、シティホテルの恋人たちも、僕にはすべてが“勝ち組”であるように思えて仕方がない。そうしていまの自分はまぎれもなく“負け組”であることを思い知らされた。いつの間にか僕はやけくそに叫んでいた。
「メリークリスマス! ケーキいかぁっすかぁー!」
自分でも呆れるほど投げ遣りな大声だった。それは尻尾を巻いて逃げ出した負け犬の遠吠えに近かった。
「おっ! なんや、なんやぁ~。わしにぃ~きいてぇ~おるのかぁ~」
肩にビジネスバッグを担いでふらふら歩いていた千鳥足が立ち止まり、酒に赤く上気した顔をこちらに向けると、とんろりまどろんだ眼を糸のように細くしてニタリと笑う。
「よっしゃ! 教え~たる。あのなぁ、悪いにぃきまっとるやろ。こ、このバカたれがっ!」
と鼻を鳴らした。
おそらくケーキを景気と勘違いして……いや、むしろ勘違いを装っているのかもしれないが、どちらにしてもとんだとばっちりだ。酔っ払いに絡まれては往生する。無視するのが賢明である。――と、思うまでもなく、僕は視線を宙に泳がせていた。さっさと行っちまえ、バカ野郎!
「おい、人にぃものを訊ねておきながら……無視するとは無礼千万! 貴様ぁわしをなめておるなっ!」
突然、しらふに戻ったように怒鳴りながらも、やっぱり両脚を互い違いに交差させ、それでもきように歩いて近づいてくるのが異様に不気味だ。
「いえ、そんななめるだなんて……」
異様さに慄いて、つい相手をしてしまった。
しまった! と後悔したが後の祭り。とりあえず、ひきつりながらも作り笑顔で――エヘへ。
「じゃ~なんだぁ?」
俺の鼻先へ、わざと酒臭い息を吐きかけてくる。
一瞬、オエッ、となったが、
「ク、クリスマスケーキを販売しているんです」
言いながら、卑屈にも頭を掻く振りをする。
「んっ? クリスマス……ケ~キ? な~んだ、クリスマスケーキだったのか。ははははっ。そんなもん……いらんわい!」
なにが、ははははっだ。なにが、そんなもんいらんわい、だ。
こっちだってあんたにゃ買って欲しくない! 土下座して、「頼む! なっ、頼むから売ってくれ!」って泣きつかれたって絶対売ってやるものか――。といって、そんなことはないだろうが。
しかしこのおっさん、じっと立っていられないのか、さっきから前屈みになって肩を前後左右に揺らせている。それでいて時折カックンと膝が折れて体が傾ぐので、親切にも「あっ、危ない!」と手を差し伸べるのだが、このおっさん、またシャッキーンと背筋が伸びて、うまくバランスをとる。まるでマリオネットだ。
僕は呆れ果てて、天を見上げた。
誰だ、この酔っ払いを操っているのは――。
「ちょ、ちょっと止めて下さい!」
ほんの一瞬をついて酔っ払いは攻撃を仕掛けていた。ワゴンに向かって上体を反らし、コートの前をはだけてもぞもぞとしている。
僕は慌ててワゴンを横へずらせた。
「部長! なにやってるんですか。さ、帰りましょう!」
先を歩いていたらしい背広姿の一人が駈け戻り、酔っ払いをうながした。
「おちっこ」
「なにがおちっこですかぁ、駅まで辛抱してくださいよぉ。さあ、行きましょう。ほら……」
背広姿は酔っ払いの袖をひっぱり、「困ったもんですよ~」といわんばかりの愛想笑いを送ってよこしたが、冗談じゃない! 困っているのはこっちの方だ。
すでに当の本人である酔っ払いは、まるで部外者のごとく通りの中央へ躍り出て「ジングベー、ジングベー」と、最早敵なし、絶好調とでもいったらよいのか、機嫌よく歌い、踊っている。部下の背広姿は、それを取り押さえるのに苦労したが、とうとう最後には業を煮やしたようで、酔っ払いの首根っこを柔道技の袈裟固めに押さえ込むと、駄々っ子を引き摺るように駅の方へ連れていった。二人の襟の徽章が一流商社のものであることを、僕は見逃さなかった。
ああ、なんてこった!
あの不気味で、無様な酔っ払いでさえ“勝ち組”の一人ではないか――。
おまけに僕は、そいつになぶりものにされたのだ。
たちまち津波のような焦燥感に襲われた。深夜のベランダにへんぽんとひるがえる、あの取り込みを忘れられた猿股のように、夜露にじっとりと湿っていく。それはもう、社会から一人取り残されていくという、確信に近い実感だった。
(つづく)
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