第1話 受験生、いきなり拉致される
「はあっ」
世の中の辛苦をすべて背負わされたかのような深く大きなため息が、
「やっぱりこんな出来じゃあ、現役でメイダイ合格なんて夢のまた夢だよ」
蓮平はこの春から通っている、進学塾のあるビルから出た。
空調完備されたビルの一歩外は、太陽に熱せられたアスファルトから立ち上がる匂いや、国道を走るトラックや乗用車の排気ガスでむせ返るようだ。
白い開襟シャツに濃紺のズボンは、蓮平の通う
夏休みの初日、今日は先日開催された模試の結果発表の日。結果は散々であった。
同級生や他校の生徒たちが、悲喜こもごもの表情でビルから出てくる。
蓮平が彼らに唯一勝てそうなのは、背の高さくらいだ。
志望する高校へ入ってからは、成績はまっしぐらに下がっていった。クラブ活動やアルバイトをしていたわけではない。のんびり屋の性格が、悪いベクトルに働いたのだ。
一年生に時は、「まあ、来年からまき直しさ」と高らかに笑い、二年生の時には、「なあに、僕の持っている潜在能力は、まもなく開花するんだもんね」と苦笑い。
そしてまき直すことなく花も蕾のまま、とうとう三年生の夏休みを迎えてしまったのだ。
顔面神経痛かと思われるような険しい表情が、すでに定着しつつあった。
だが今の蓮平にはそんな見てくれよりも、模試の点数のほうが大事であった。
メイダイとは、国立ナゴヤ大学のことである。旧帝国大学のひとつであり、六名のノーベル賞受賞者を輩出する名門大学だ。
蓮平の通う愛知県立銘和高校。市内でも五指に入る進学校だ。毎年二桁の生徒が現役でナゴヤ大学に合格している。
高校受験は確かに頑張った。その努力を神さまが認めて下さった。
だが蓮平はその時点で幸運という持ち分を、すべて使い果たしてしまったようだ。
三年生の一学期終了間際にやっとお尻に火が点いたが、もう残された時間はわずかしかなかった。この夏休みを制するかどうかで、来春に桜が咲くか散るか、なのだ。
塾のあるJRナゴヤ駅前から自宅にもどる道すがら、蓮平は一段と肩を落としてトボトボと人ごみのなかを歩いていく。
高架を走る列車や自動車の喧噪が包む大通りを、ビルの陰に隠れるような姿勢で歩く男がいた。
黄色いストローハットを目深にかむり、薄い水色のサマージャケットに同系色のチノパンを履く男は、数メートル先を歩く蓮平の姿だけを見つめている。まるで尾行するかのように。蓮平はまったく気付く気配もなく、ただ下を向いて歩いていくのであった。
~~♡♡~~
首なし人形が港区で発見された、三日後のことである。
ナゴヤ市
ナゴヤ市役所は本庁舎の頂部が
地下鉄
お昼過ぎの官庁街は、照りつける陽射しを手や日傘でさえぎりながら行き来する人々が多い。
一台の乗用車が市役所の前に停車した。トヨタのセンチュリーだ。鏡のように磨かれた黒いボディ。
運転席からメイド・スタイルの若い女性運転手が素早く降り、後部ドアを開ける。
車内から現れたのは和服姿の老人であった。
老人は市役所のなかへ入ると、総合受付の前に立った。
「いらっしゃいませ、ご案内させていただきます」
受付に座る若い女性職員は老人を見上げる。
「市長は、おるきゃあ?」
「はっ?」
「おみゃあさん、お若いのに耳が遠いんきゃあも。わしは市長に用があって来たんだがね」
いきなり市長に面会をしたいと言われ、女性職員はすぐにマニュアルを思い出す。
「恐れ入りますが、お約束をいただいておりますでしょうか」
「そんなもん、あれせんがね」
「失礼ですが、お名前をおうかがいしてもよろしいでしょうか」
老人はここで苦笑を浮かべた。
「ほうだったわ。これはすまんのう。いきなり市長に会いたいって言われても、あんたさんが困るでゃあ」
女性職員は顔には出さず、ほっとする。いつなんどきに市長を襲撃せんとする不逞の輩が来ないとも限らない。そのため警察のSPが、常に市長を擁護している。
「わしは
女性職員は先ほどからパソコンの画面で、本日の市長のスケジュールを見ていた。多忙な市長であるが、ちょうどこの時間は四階の市長室にいることがわかる。
「少々お待ちいただけますでしょうか」
言いながら首を少しかたむけた。豪天という名前に聞き覚えがあったからだ。思わずハッとして驚きの表情を隠そうともせずに、あわてて備え付けの受話器を持ち上げ秘書室へ内線を入れた。
~~♡♡~~
模試の結果発表があった日から、早くも一週間が過ぎようとしている。蓮平は痛むお腹に顔をしかめながら、お昼過ぎに地下鉄で塾へ向かっていた。
自宅は市内
夏休みに入って、七日間という貴重な日々が過ぎていた。本来夏期講習は朝九時から、お昼を挟んで午後六時までびっしりとカリキュラムが組まれている。
あの日、模試の結果を楽しみに待っていた両親の、落胆しながらも励ましてくれた優しさが、かえって辛い。
ねじり鉢巻きで捲土重来を狙うつもりであったのだが、今朝はいつもの腹痛が一段と激しく、仕方なく市販の下痢止めを服用して横になっていたのだ。
いわゆる過敏性大腸炎というもので、高校入学とともに悩まされていた。朝、学校へ向かう途中、それまで何度も自宅トイレで用を済ませているにも関わらず、地下鉄の中で便意にみまわれる。
病院へ行って精密検査も受けたが、医師からは特に異常はないと軽く言われた。
仕方なく蓮平は常にセーロガンを常備薬として持つようになっていた。口の悪いクラスメートからは、「蓮平が席にいないときは、絶対トイレに立てこもってるよな」と言われる。そんな時、事なかれ主義の蓮平は「好きな場所なんだ」などと受け流してきた。
他人には解らない痛み。学業がふるわないのも、実はここに要因があったのかもしれない。
今日も学校の夏季制服にショルダーバッグを抱え、まだ便意の残るお腹をさすりながらともかく塾へ急いでいた。
ナゴヤ市は地下街がとてつもなく発達している。特にナゴヤ駅地下街はアリの巣のように入り組んでおり、地元の人間でも迷うことがある。
蓮平は地下鉄を乗り換え、ナゴヤ駅前で他の乗客と同じように列車からはき出された。
その後ろを一定の距離を置いてつけてくる男がいた。黄色のストローハットに、薄い水色のサマージャケット、チノパンの男だ。いったい何が目的なのかはわからないが、蓮平の行動を把握しているかのようにつけていく。
買い物客や地下鉄を使うビジネスマンが、肩をふれ合うように行き来する地下街。
蓮平は人にぶつからないように苦労しながら、歩を進めていた。
進学塾のあるビル前の地下階段を二段越しで駆け上がる。すでに講義に出遅れているのだ。案外真面目な性格なのか、暑さでしたたる汗を手の甲で拭いながら急いだ。
階段を上り切ったところで、いったん息を落ち着かせる。
ポンポンと肩を叩かれ、蓮平は驚いて振り返った。
すぐ後ろに、はあっはあっと肩で息をしながら膝に手をやっている男の姿がある。
「き、きみ、歩くの速すぎ」
黄色い帽子にジャケットを着た見知らぬ男が、蓮平を見上げるような体勢でいる。
蓮平はあわてて辺りに視線を投げる。もしかして人違いではないのかと。
男は肩で息をしたまま上半身を伸ばした。
背は長身の蓮平よりも若干低い。帽子の下には天然なのか、やや長めの髪がカールしている。年の頃は三十歳前後だろう。
細面の顔にドングリのような大きな目が特徴であり、無精ひげが口の周りに生えている。あまりまともな印象を与えない、どこか胡散臭げな雰囲気が漂っていた。
蓮平は内心ビクつきながらも、目線を合わせないようにしながら口を開いた。
「ええっと、僕になにか用ですか」
男は周囲をちらりと確認しながら、小声で蓮平の耳元にささやいた。
「きみを捜していたんだぜ。亜桜くんよ」
「えっ?」
「そう恐がりなさんな。別に怪しいモンじゃあ、ねえからさ」
いや、見るからに怪しいです、とも言えず蓮平は訊いた。
「人違いじゃないでしょうか。僕は、あなた、おにいさんを知らないし」
蓮平はきびすを返そうとした。
「そりゃそうだ。こうやって口をきくのは、俺も初めてだしな」
「ぼ、僕、急いでるんで、すみません!」
走り出さそうとする蓮平の肩を、男はつかんだ。ドキッと蓮平の鼓動が早くなる。
「おっと、こっちも急いでるんでね。俺は、ほら」
男はジャケットの内側から、ちらりと黒い手帳を素早く見せる。
「け、警察の人なんですか」
蓮平はえもいわれぬ恐怖心に襲われた。
何も悪いことをしていなくても、善良な一般市民は警察というだけで心臓が高鳴る。
「まあ、急いでるところを申し訳ないんだが、ちょっと付き合ってもらいたいんだな」
蓮平の顔面はみるみる蒼ざめていく。
万引きなんかしたことないし、不順異性交遊だってない。いや正確には女の子とデートしたことすらない。異性は嫌いじゃない。いや、大好きだ! 健全な高校生として、女性はものすごく愛おしく、何よりも大好きだ! と心が叫ぶ。
スタイル、ルックスともに平均以上の蓮平。女子から告白されたことも、何度かある。だが蓮平はかたくなに、丁寧にお断りしてきた。
ひとつには自分に自信がないこと。ふたつめとして、臆病すぎていつもウラを考えてしまうのだ。つまり、「好きですなんて言っておいて、実はバツゲームの対象として僕を引っ掛けようとしている」のではと勘繰ってしまう。
そこそこカワイイ女子が相手だと、なおさら身構えてしまう癖があった。
そして最後が肝心なのだが、蓮平には理想としている彼女像があった。いつのころからか、夢のなかに現れてニッコリと微笑んでくれるあの子。「そーんな蓮平の妄想が描く女子が、この世にいるわけないつーの」と友人たちは馬鹿にする。
蓮平はそんなところだけは
現実は、やはり厳しい。かなり厳しい。とっても厳しい。
したがって蓮平は、未だに一度も女子とデートなどしたことのない、カワイソウな部類に振り分けられていた。
そこで「アッ」と口を開いた。もしかして、混んだ地下鉄のなかでチカンに間違われたのか。
いやいや、ありえない。通学時の混雑した地下鉄内でもなるべく女性には近寄らないようにしてきているのだから。本当は少しでも異性に密着できたら、どんなに嬉しいことだろう。
「そ、それは
蓮平の言葉に、男は首をかしげる。
「なに言ってんのかわからねえけどさ。とにかく一緒にきてくれよな」
言い返す言葉が出てこず、蓮平は口元を震わせながら男に肩をつかまれたまま歩き出した。
塾の入るビルを通り過ぎる。蓮平は誰か知った同級生でもいれば声をかけて、この窮地を助けてもらおうとした。だが往来を歩く人たちのなかに見知った顔はいなかった。
男は車道近くで止まると、ガラケーを取り出した。近くの警察署へ連絡を取るのだろうか。
「ああ、はい、わたくしです。ただいま亜桜蓮平の身柄を確保いたしました。
はい、すぐに向かいます。タクシーを使うんですね、了解いたしました。ああっと、ところでタクシー代は? へへっ、すいませんねえ。じゃあ、行きます」
男は電話を切ると、車道で客待ちをしているタクシーのウインドウを叩いた。
「あの、すみません。どこの警察署へ行くのですか? 親に連絡を取りたいんですけど」
蓮平は乗り込む前の抵抗を試みた。
「すぐ近くだよ。さあ、乗った乗った」
男は無理やり蓮平をタクシーに押し込み、自分も乗り込んだ。
「ひゃあっ、やっぱり夏場は冷房の効いたタクシーが一番だな」
男は大股を開いてシャツの首回りを手で拭う。
「どちらまで?」
運転手はバックミラー越しに後方を確認した。
「おっと、そうそう。天白区の
男の言葉に、「えっ? ええーっ」と蓮平は驚嘆した。
「きみ、行ったことある? あそこまで結構かかんのよねえ。時間? もそうだけどタクシー代がさ」
「がさって、おにいさん! 警察の人なんでしょっ。どうして墓地なんかに」
二人のやりとりを耳にしている運転手は、信号停車でおもむろに振り返った。
「お客さん、なんかトラブルきゃ? 困るんだでねえ、そんな人を乗せちゃあさ」
中年の運転手が眉間にしわを寄せる。蓮平は助けてもらおうと身を乗り出した。ところが男の次の言葉に運転手は「へっ、そうでしたか。それならどうぞ、どうぞ」と丁寧に頭を下げるのである。
「運転手さんさ、このタクシーって『豪天交通』だよね。俺たちゃ今から、その元締めの豪天さまのお屋敷に向かうってわけ」
こう言ったのだ。
蓮平は口を開けたまま男を見つめる。
「ご、豪天」
男はやけに高飛車な視線で、蓮平をながめる。
「ふふん、そういうこった。きみもナゴヤ人ならよーく知ってるでしょ、豪天グループをさ」
知っているも何も、蓮平の父親は豪天グループの傘下である、『豪天百貨店』の販売課長なのだ。ナゴヤだけではなく、東海三県に住まう人間なら、誰でも知っている豪天グループ。
ナゴヤ市内に百貨店、交通機関はもちろん、金融や不動産、はてはコンビニエンスストアから専門学校まで。幅広い分野の企業や職種を傘下に持つ一大コンツェルンなのだ。
その総元締めの会長だか総裁だかは知らないが、八事の一角に巨大な屋敷を構えているのは蓮平でさえ知っていた。
しかし、なぜそのエライおかたの邸宅に行かねばならぬのか?
「あっ、いまここで色々と質問しないでくれるぅ。ちょっと他人には聴かれたくないことなんでね」
男は前方の運転手をチラリと見ながら、蓮平に先手を打ってきた。
蓮平は仕方なく、大きくわざとため息をつくと、シートにググッと背中を沈めるのであった。
「ところで、きみ、亜桜くんさあ」
男は軽い調子で蓮平の肩を叩く。蓮平は不満げな表情を浮かべながらも「なんですか」と、一応年上の男に配慮する。
「きみって、ナゴヤ人なんでしょ?」
「えっ? そうですけど、それがどうしたんですか」
「いやいや、さっきから会話しててもさ、少しもナゴヤ弁を使わないからさ」
蓮平は眉間にしわを寄せる。
「おにいさんだって、使ってないじゃないですか」
「俺? ふふん、俺はさ、まあ生まれはこの町なんだけどね。長いこと海外や東京でビジネスをしていたから、すっかりナゴヤ弁を忘れちゃったのよ」
男はなぜか自慢げに言った。
「親戚縁者を含めて全員ナゴヤ在住ですよ。でも今の僕らの世代は、ほとんど標準語じゃないですかね。親はナゴヤ弁ですけど」
蓮平は大して面白くもなさそうに、車窓から外に目を向ける。
「へえっ、そうなんだ」
男はそのまま黙り込んだ。一分もたたないうちに鼾をかきだした。
タクシーから見える風景は、駅前のビル街から緑の多い住宅街へと変わっていく。乗車してから四十分ほど経過するころ、目的地周辺になってきた。国道から霊園を抜ける道には、歩いている人の姿も少なくなってきた。
男は大きな口を開けてまだ鼾をかいている。
豪天グループはもちろん知っている。父親もその一員であるから。
しかしどうしてそんなエライおかたが、僕を捜していたのかなぁ、と何度も頭をひねる。
窓ガラス越しに見ると、整備された森を抜けたとたん、煉瓦造りの巨大な壁が現れた。
「すげえ」
蓮平はウインドウに張り付いた。
「このお屋敷は、本当にデカイでいかんがね」
運転手がポツリと言う。外壁はかなり先まで続いている。
「おおっ、もう到着か」
男は目を覚ましたらしく、斜めになっていたハットをかむりなおす。
壁に沿ってタクシーがしばらく走ると、南向きの位置に青銅のこれまた巨大な門が見えてきた。
門の前でタクシーが停まる。
「えーっと、四千八百円だがね」
運転手の言葉に、男はジャケットの内ポケットから財布を取り出す。
「やっぱり結構かかるねえ。はい、じゃあこれで。あっ、領収書をちょうだいよ」
運転手が領収書を渡す。男は受け取ると、蓮平に隠すようにその領収書に素早くボールペンでなにやら書き込んだ。
「ああ、外は暑いなあ。早く入ろうぜ」
「あ、あの、おにいさん」
「おっ、なに? ビビッてのかい? 大丈夫だって。いくら金持ちの家だからって、貧乏人がそんなに卑屈になるこたあないって」
蓮平はムッと口を尖らせ、言った。
「違いますよ! ウチは普通のサラリーマン家庭ですから。いや、そうじゃなくて。僕のことはご存じのようですが、僕はおにいさんの名前すら聴いていないから」
男はドングリのような目を「オッ」と開いた。
「あれ、そうだったっけ。そうかあ、まだ俺は名乗っていなかったっけなあ」
「はい。チラリと警官を装って黒い手帳は見せてもらいましたけど」
「あははっ、ああ、あれね。俺は一言も警官だなんて言ってないし、きみが勝手に解釈したんだから」
男は悪びれもせず、門柱にある最新型のチャイムを押す。
「俺はな、
蓮平は三メートル近い門柱に設置された監視カメラが、こちらを確認しているのがわかった。
しばらくすると青銅の表門の横にある勝手口から、いかにもメイド、といった出で立ちの若い女性が出てきた。
黒地の半袖に白いフリルのついたエプロン、膝がしらがのぞくほどかなり短めのフリル付きスカート、ツインテールヘアにはホワイトブリムと呼ばれる頭飾りを乗せている。
「お待ちしておりましたぁ」
蓮平より少し年上らしい。メイド・スタイルが良く似合う、とてもキュートな女性。目尻はやや下がっているものの、愛玩動物を連想させる黒い大きな瞳。口元にはうすく引かれたピンク色。卵形の顔は、歌って踊るアイドルのようだ。
メイドは、ニコリと微笑んでお辞儀をする。
蓮平は真っ赤になって、あわてて頭を下げた。
(こんな魅力的なオネエサンがお手伝いさんって、やっぱりお金持ちはちがうなあ)
顔中の筋肉がダラリと緩む。
その様子を鼻で笑いながら、刀木は蓮平の両肩を押した。
「さあさあ、入ろうぜ。こう暑くちゃあ、ぶっ倒れちまうよ」
門をくぐってからの記憶が蓮平にはほとんどない。あまりにも現実離れした世界が広がっていたからだ。
盛夏を彩る花々や手入れされた巨大な松に、芝生の敷かれた邸内には池があり、見渡す限り庭が続いていた。千坪どころか三千坪は軽く超えていそうで、思わず気が遠くなりかける。
門から見える三階建ての日本家屋は、一流旅館並みの豪華絢爛な雰囲気をまとっている。
ツインテールのメイドが先に歩く、左右にリズム良くふれるプリップリの
玄関を入るとすでに空調が効いており、蓮平は暑いのと冷や汗の両方で濡れていた開襟シャツの首回りをさわる。
どこをどう通って居間にたどり着いたのか。気づいたらソファに腰を降ろしていたのであった。
蓮平はピタリとくっつけた膝の上に握ったこぶしを乗せて、落ち着かない雰囲気で目だけをキョロキョロさせ室内を見ている。緊張のせいかトイレへ行きたくなるも、我慢していた。
三十畳ほどあろうかと思われる室内は、スワロフスキーのシャンデリアが輝き、中心には向かい合わせに高級革張りソファが置かれ、南向きの大きなガラス窓からは映画に出てくるような庭園が見え、壁には備え付けの高級書棚が並び、と、蓮平の人生にはまったく関係のない異世界が形成されていた。
出迎えてくれたメイドがカートを押して、室内に入って来た。
「今日もお暑つうございますわね。ただいま冷たいレモンティをご用意いたしますわ」
慣れた手つきでメイドが蓮平の前にグラスを置き、アイスペールから涼やかな音を立てて透明の氷を入れる。カートにのったティメーカーから琥珀色の紅茶を注いだ。
とても高級そうな香りが漂う。グラスはバカラのようだ。
「もうしばらくお待ちくださいませぇ」
蓮平は「はあ、どもども」と中腰姿勢になって頭を下げた。
カートを押して出て行こうとするメイドに、蓮平の向かいのソファで脚を組んでいた刀木が身を乗り出した。
「ちょ、ちょとっお、俺にもちょうだいよう、その冷たいお茶をさ」
黄色いストローハットで顔を仰ぎながら言う。
蓮平は何気なくメイドを振り返り、思わずギョッとなった。
「はあっ?」
とても可愛いらしいメイドだと思っていたら、百八十度表情が変化しているではないか。
「い、いや、だからさあ、俺にもお茶を」
メイドは整った眉を八の字に変え、三白眼のとてもコワイ目つきで刀木を睨む。両腕を豊満な胸元で組み、人が変わったような低音でドスの効いた声で返す。
「茶ぁが飲みたきゃ、テメエで買ってこいやあ! グダグダ言ってっと、その上向いた鼻に割り箸突っ込むぞっ、くらあっ」
「ええっ!」
思わず蓮平は自分の鼻を守るように押さえる。
メイドは魔法が解けたように先ほどまでのチャーミングな表情にもどり、蓮平に向かってニコリと笑みを投げながら室内から出て行った。
シーンとする居間。
カランと蓮平の前に置かれたグラスで氷が傾く音がする。
「え、えーっとぉ、なんだなあ」
刀木はしわぶきをたてながら、ソファの縁に両腕を乗せて再び脚を組む。
「あれは、俺に対する好意を素直に表現できないってやつかな」
蓮平はグラスに視線を落とした。
「いえ、それは違うと思います」
「な、なんでよ。どうして高校生の餓鬼んちょに、乙女心がわかんのよ」
蓮平はフンッと鼻で笑った。
「誰がどう見ても、おにいさん、あのメイドさんに嫌われていますね。ああ、そうか。どうせ何かセクハラめいたことでもやろうとして、殴られたことあるでしょ」
「な、な、なにを生意気な、年下のくせに」
言いながら刀木は左手で自分の頬をなでる。図星らしい。
蓮平はとりあえず緊張を解きほどこうと、テーブルのグラスを持ちあげようとした。
コンコン、と居間のドアがノックされた。蓮平と刀木が自然と顔を向ける。
ドアから顔をのぞかせたのはショートヘアに、夏用の白いセーラー服を着た少女であった。とたんに蓮平は固まった。傾けたグラスから、アイスティが床にこぼれているのにも気が付かない。
ゆっくりと室内に入ってくる少女は、間違いなく蓮平が夢で妄想していた、あの子なのだ。
「か、かーっ、かかッ」
可愛いい! 思わず心が叫ぶ。蓮平の夢が思い描いていた、あの理想の女子を、3Dプリンターで原寸大にコピーしたかのようだ。
二重の目尻はやや上がり気味だが、どんな画家でも描き出せないであろう深く柔らかな茶色の瞳。スッと通った鼻梁。ピンク色の小さめの唇は小悪魔のような妖艶さを隠し持っていそうだ。陽に当たったことがないような白い肌。
いた! やっぱりいたんだようっ!
勝ち誇ったかのように、鼻の穴を広げる。
蓮平の視線は顔から胸元へ移動し、セーラー服の生地を押し上げる
黄金比で創造された、美少女であった。
そんな蓮平のイヤラシイ視線にはまったく気付いていないのか、少女は恥ずかしげに目線を下げて小走りでソファまで来ると、なんと蓮平の横にくっつくように腰を降ろした。
フワリと少女の甘い香りが、蓮平の鼻孔をくすぐる。
蓮平は真っ赤になった頬を隠すように、サッと視線をはずす。
「お嬢ちゃんは、どなた?」
刀木がソファの背もたれに両腕を乗せて訊く。
少女はあわてて立ち上がると、ぺこりとお辞儀をした。
「アワワッ! 申し訳ございません! ワタクシ、
やけに丁寧な言葉をソプラノの可憐な声で発すると、そのまま両手を前に組んで下を向いた。刀木は「お、おう、そうっすか」と軽く返す。
「俺は、刀木鋭作ってえもんだ。まっ、これでも刀木エンタープライズの代表取締役よ。
で、お嬢ちゃんの横にチンマリ座ってる、貧乏人の子セガレが」
蓮平はあわてて立ち上がる。横に立つみやのは、カクッと首を曲げて見上げた。頭一つ分、蓮平の背が高いからだ。少女みやのは、真っ直ぐな視線で蓮平の両目を見た。
自分が自分でなくなりそうな恐怖に、サッと視線をはずした蓮平は斜め下を向きながら喉をふりしぼる。
「ぼ、ぼぼ、僕は、亜桜蓮平と言います! 銘和高校三年生です!」
「まあ、とても優秀なかたでいらっしゃいますのね。ワタクシは
琴丈学園高校と聞いて蓮平は驚いた。私立琴丈学園女子高等学校は歴史あるお嬢さま学校であり、セレブのご息女しか通えない別格の高校なのだ。
理想の女子は、一般家庭のセガレにはまったく不釣り合いのセレブであったということか。
蓮平は唇を噛んで、宙を見上げた。
「お二人さん、突っ立てないで座ったらどうよ。そのまま抱擁なんかしちゃったりするかもよ、その色ませた男子が」
下卑た冗談に蓮平はキッと刀木をにらむ。そこへ再びメイドがカートを押して入って来た。
「みやのさま、暑いなかお越しいただきまして恐れいります」
「
メイドは伊里亜という名前であった。二人はどうやら顔見知りであったようだ。
みやのはホッと肩の力を抜く。伊里亜は丁寧にグラスを置き、氷とアイスティを注ぐ。
それを横目に刀木は唇を尖らせながら、タクシーの領収書を突き出した。
「これ、この坊主を連れてきた必要経費ね」
伊里亜は浮かべていた天使の笑みを瞬間に消し、能面さながらの無表情でそれを、汚物をさわるように指先でつまむ。
「一万四千八百円ね。今日中にアンタの銀行口座に入れといてやるよ」
蓮平は「ウンッ?」と首をひねった。
「タクシー代金って、たしか」
刀木はあわてて立ち上がると、そのまま伊里亜を部屋から追い出そうと両肩に手をそえた。
ヴァキッ!
伊里亜の見事な裏拳が、刀木の顔面を直撃する。
「さわるなっ! このケダモノが!」
蓮平は絨毯に転がった刀木を、息を飲んで見つめた。ピクリとも動かずにうつ伏せに倒れたままの刀木。
「それでは失礼いたします。もうまもなく会長はおみえになりますので」
伊里亜は口元を隠し、「おほほほ」と再び天使の笑みでカートを押して退出していく。
「はあ、やはりロンネフェルトのお紅茶は、とても香り豊かですわ」
壮絶な現場を視界にいれていないかのように、みやのは上品にアイスティで喉をうるおしている。
顔面蒼白の蓮平は昏倒している刀木のそばにしゃがんだ。
「だ、大丈夫ですか?」
いったいこの刀木は伊里亜にどんなワルさをしたのか。領収書を改ざんするセコイ性格が何か関係しているのか。蓮平にはわからなかった。
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