情けない僕と飽き性のないちゃん

ひなた にこ

第1話 情けない僕

ないちゃんとは、古い付き合いになる。

ないちゃんとは、いわゆる幼馴染だ。

ないちゃんの本当の名前は井上凪子(いのうえなぎこ)なんだけれど、小さい頃の僕とないちゃんが『なぎこ』と言えず『ないこ』と言っていて、それがあだ名となり今に至る。

ないちゃんは賢くて、作文や絵もとても上手だった。学校の夏休みの課題では必ず1つか2つ、賞を貰っていたと思う。蒸し暑い体育館の壇上で賞状をうやうやしくもらう様を、僕は少し誇らしい気持ちで小さく拍手をしながら見守っていた。

ないちゃんと僕は幼馴染と言ったけれど、家が隣同士だったり、家族ぐるみで凄く仲が良かったり、漫画のように小さい頃からいつでも一緒だったり、たまたま子ども部屋の窓が向き合っていてそこで語り合ったりというわけではなかった。

家は同じマンションの1階と2階で、幼稚園からクラスが同じだから自然と母親同士が話すようになったというくらいのものだ。

ないちゃんは僕に会えば挨拶してくれたけれど、僕はろくに目も合わせられらなかった。ないちゃんは腰まで伸びた長い髪を器用にまとめながら、そんな僕を見て微笑んでいた。


中学三年生の頃、ないちゃんが他県へ引っ越すことになり、僕はそれを母親から聞いた。

「なんだ、聞いてなかったの?」と母親は驚いたように言いながら食器を洗っていて、僕は食器の触れ合う音を聞きながらよく冷えた麦茶を喉に流し込んだ。

先程まで頭に入ってきていたはずの英単語たちが、たちまちただの記号と化す。

悲しいとか寂しいとかではなく、ただ単純に不思議な気持ちになった。高校は別になるだろうと思っていたけれど、わざわざ会いにいったりしない限り、または偶然どこかで会ったりしない限り、もうないちゃんの顔をみることがないんだ…そう思うと、今まで使っていた枕を新しく買い変えたばかりのときのような、ずっと欠かさず観ていたドラマが終ってしまったときのような、そんな気持ちになった。


引越し日時をおしゃべりな母親から聞いていたので、当日の朝、休日だったのだけれど、珍しく早起きをしてエントランスに下りていってみた。

まだ9時になったばかりなのに、引越し業者が忙しなく働いていた。開け放たれたエントランスのガラス扉に貼り付けられている保護材や通路に敷かれた真っ青なシートが、オレンジがかった黄色い照明に照らされやけに暗い色に見えた。曇っているせいか、外からの光もあまり入ってこない。

「あらぁトワくん」

背後から、懐かしい、しかし確実に年をとったないちゃんのお母さんの声が聞こえた。振り返って会釈をした。

「ちゃんと挨拶しなくてごめんなさいねぇ。なにしろ急だったから」

おばさんは腕一杯に抱えた段ボール箱を持ち直しながらにこやかに話しかけてくれるけれど、僕は会釈を返すだけで精一杯だった。

「小学校の卒業式以来に見たわぁトワくん、大きくなってねー」

「はぁ・・・そうすかね」

「小学校の頃背の順で前のほうだったのにねぇ。うちの凪子は逆に一番大きくて。トワくん、お母さんそっくりだと思ってたけどこうしてみるとやっぱりお父さんにもよく似てるわねぇ」

またも箱を持ち直すおばさんを見て、いつ持ちましょうかと声をかけるか、そのタイミングを計るばかりで、僕はまともに返事もできなかった。

「トワくんおはよ」

ふいに耳に入ってきた、今日限りで聞けなくなるであろうすこし低くて優しい声に僕は思わず肩をすくませた。

「凪、お母さんちょっとお父さんとこ行って来るから。少し時間有るしトワ君とお話してて」

「はーい」

ないちゃんのお母さんは僕に笑顔を向けるとエントランスを抜けて出て行った。

改めてないちゃんを見ると、引越し作業があるからか長袖のTシャツにジーンズ生地のハーフパンツ、スニーカーというシンプルな格好だった。

「トワ君どこの高校行くんだっけ?」

「あ、え?」

ハーフパンツから覗く肉付きの良い太ももをじっと見ていた僕はないちゃんの言葉にはっと顔を上げる。その瞬間、目が合った。

――ないちゃんの目は、少し猫みたい。

小さい頃そう言ったことを思い出す。今もその猫眼は健在で、彼女の魅力的な顔を形作る上でとても役に立っていると思う。幼児期の面影はそのくらいだろうか。ないちゃんはいつの間にか、大人の女性然としていた。

じろじろ見るわけにも行かず、恥ずかしさもあって僕は目を逸らす。

「第二校だけど」

「あー」

ないちゃんは持っていたみかん箱を足元に置き、通路の壁に寄りかかる。

「良いとこ行くんだ?」

首を傾げたとき、ふと彼女の首の辺りで何かがゆれる。

「ないちゃんピアス?あけたの?」

「ん?」

「それ」

僕が顎を突きだし指し示す先には、薄暗いエントランスでも煌めくシルバーの、何かを象ったものが揺らめいていた。それはポニーテールにより露になったないちゃんの小さな耳には不自然なほど存在感があり、しかしその細い首筋を艶かしく彩っていた。

「あ、これね」

ないちゃんは広角を上げ愛おしそうに耳元に指を添える。その手の指や甲に、大きさのことなる絆創膏がいくつも貼られていた。

「人生で一回くらい、開けてみたいと思ってね。その代わり左だけ。右は生まれたままよ」

生まれたままよなんて言い方は、ないちゃんらしい。

「痛かったでしょ」

僕はしょうもないことを言った。ないちゃんはそれを可笑しそうに、喉から漏れ出るように笑った。

「トワくんは無理かもね。痛いの嫌いだもん」

――じゃあないちゃん痛いの好きなの?

喉元まででかかったこの言葉を飲み込むために、僕は生唾を無理に流し込む。

「彼氏がね、プレゼントしてくれたの。穴空いてないのにピアスだよ。」

おかしいよね、と呟くように言ったないちゃんの表情は冷ややかで、少し背筋が冷たくなった。一度だけみかけたことがあるないちゃんの彼氏は、坊主頭で耳にはいくつもピアスをしており、なんなら鼻と口にも付けていて僕は吐き気を覚えながらついつい観察してしまった。

ないちゃんは高身長で160cmは優に超えるのだけれど、彼女よりさらに頭一つ抜き出ており、広い肩幅とそれに見合う背中、細い腰、鍛えられているであろう太ももなどの体のラインが、制服のシャツやスラックスからも見て取れた。何部なのかは知らないが、運動系であることは間違いない。陸上か、水泳か、はたまた野球か。

しかしながら、あれだけ穴が開いていても部活動をさせてもらえるのだろうか。

「どうしたの?」

ぼんやりとそんなことを考えていた僕の顔を覗き込むないちゃんの猫眼としっかり眼が合ってしまった。

唐突に現実に引き戻される僕を、彼女はまた喉の奥で笑いながら見ている。

「ばかだね、その彼氏」

だから僕は強がってそう言ってみる。情けなさで体がむず痒くなった。

ないちゃんはまた一瞬冷ややかな顔をしたけれど、すぐに姿勢を伸ばし喉を鳴らして「そうでしょ」と言いながら箱を持ち上げた。

「だから別れたの。だけど、ピアスは良い人生経験かと思って空けてみたってわけよ。」

ちょっとこの箱だけ渡してくるねと、ないちゃんは自動扉を通り、マンション前の道路に停まっている引っ越し業者の車に近づいていった。

ちゃんと呼吸していたはずなのに、ずっと息を止めていたかと思えるほどに胸が苦しく、僕は盛大に息を吐き出した。

ないちゃんは心臓に悪い。

こんなに長く隣り合って話をしたのは小学校の低学年の頃依頼だし、そもそも中学生になってほぼ学校を休んでいる僕にとって、母親以外と会話をすること自体慣れないことで、二重の意味で疲労感が押し寄せた。

戻ってきたないちゃんは指から剥がれかけた絆創膏をゆっくり剥がしながらまた話しかけてきた。

「おばちゃんとうちのお母さん話してるから、まだかかりそう」

そう言って目を細める。

「トワくんは、彼女とかいるの?」

「…いや」

彼氏がいる、とは言えなかった。ないちゃんなら馬鹿にしたりしないことは分かりきっていたけれど、

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

情けない僕と飽き性のないちゃん ひなた にこ @nicohinata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ