1-11 湖畔の戦い Ⅰ

 二階層の森の奥。

 シアル草の自生している、人の立ち入らない湖畔。

 時折遠くを飛ぶキラービーの羽音が聞こえたりするぐらいで、獣や鳥の声は一切聞こえてこない。


 もしかしたら、ダンジョンには普通の動物や獣というものは存在していないのかなと、この数日まったく気にしていなかった事を今更ながらに考えられる程に、ゆったりとした時間が流れている。


 この胸を激しく脈打っているのは、緊張か、あるいは恐怖か。

 もはや自分の胸の内にある確かな感情さえ判然としない。


 もう何度深呼吸をして、とにかく思考を放棄するように空をぼーっと見上げては、忙しない自分の心臓を少しでも落ち着かせようと意識を手放すように時を過ごしている。


 一時は落ち着いていたのに、さっきからまた胸騒ぎが続いている。


 ――近くにいる、早く逃げろ。

 心臓が急かすように激しく脈動している。


 それを呑み込むために、また深呼吸。




 そよぐ風が足元の草を揺らして吹き抜けて。




 ――――風の抜けた先から草を踏み締める足音が聞こえて、僕はゆっくりと目を開けて、足音の主を見つめながら立ち上がった。




「待たせてしまったかしら?」


 小麦色の肌に赤い髪。

 薄暗いこの場所だというにも関わらず、妙にその人の金色の双眸が爛々と輝いているように見える。

 獰猛な動物が、獲物を見つけて舌なめずりでもしているかのようだ。

 剣呑な光を宿した目を細めて笑うその姿に、明確な恐怖を覚えて声さえ漏らしたくなりそうだった。


 呑み込まれないように、立ち向かう為だけに。

 身体が恐怖に支配されないようにぐっと拳を握りしめ、気付かれないように肚に力を込めて、強く息を吐き出した。


「呼び出しておいて遅れるなんて、強者の余裕ってヤツですか?」


 盛大な憎まれ口を吐いて、心を押し殺してさも対等であるかのように振る舞ってみせる。

 ただの一呼吸で、僕はこの人にあっさりと、なんの感慨もなく殺されるだろう事は目に見えている。それでもなお、ハッタリを口にしてでも心が折れてしまわないように踏ん張るのは、僕なりのプライドだった。


 この程度で激昂するような相手には見えなかった。

 僕だけをわざわざ呼び出した事を考えれば、ただただ殺すだけが目的だとは思えないしね。


 はたして――賭けは成功したらしい。


 妖艶、という表現が相応しいその女性は、実に愉しげに笑みを浮かべた。


「面白い坊やね。それなりに魔力はあるとは言っても、それでもたかがヒューマンの範疇に収まる程度。軽口を叩いてみせてるのに、私の強さを侮っているようには見えないわ」


 気付かれないように、僕は安堵の息を漏らした。

 弱者の戯れに付き合ってくれるのなら、僕にとっても好都合だ。


「それはどうも。なんせ思春期の男の子から強がりを取っちゃったら、あとは煩悩とヘタレな本質しか残りませんからね。せいぜい強がらせてもらいますよ」

「ふぅん……、そう。何か秘策でもあるのかしら?」

「さぁ? ご想像にお任せしますよ」

「フフフ、わざわざこんな場所で待っていたんだもの。それは些か白々しすぎるんじゃない?」


 正面数メートルの距離で、姿を見せた赤髪の女性は足を止めた。

 いや――正確には、僕がわざわざ数歩歩み寄ってから足を開いて止まる事で、敢えて距離を維持させるように釣ってみただけだ。

 案の定というか、僕を見下しているこの人は、僕と向き合う位置で腰に手を当てて動きを止めた。


 それでも、やはり警戒していないというわけではないみたいだ。


 視線が一瞬、ほんの僅かに周囲に向けられる。

 警戒しているというよりも、むしろ確認するかのような一瞬の動きだった。

 僕の味方が潜んでいないかを改めて確認したんだろう。


 さらに会話を止めないように、気を引くために言葉を続ける。


 時間を稼ぐためじゃない。

 みんなを巻き込むつもりは毛頭ないのだ。

 これはただ、僕が僕としてのペースを保つための会話だ。


「それで、僕だけを呼び出した理由について聞かせてもらってもいいですかね? 正直、わざわざこんな真似をしなくても、あなたみたいな圧倒的な強さがあるならこんな面倒な真似をする必要なかったんじゃないですか?」

「ふふ、せっかちなのね。ま、な男の子らしいと言えばらしいけれども」

「残念ながら、僕は男女の機微とやらを理解できるほどの経験があるわけでもないので。答えはなるべく早く知りたいって思ってしまう方なんですよね」

「せっかく可愛い顔してるのに、余裕がないんじゃ女に嫌われるわよ?」

「あはは、余計なお世話ですよ」


 ――あぁ、この人はやっぱり

 すでに僕の心はそう確信していた、さっきまでうるさいぐらいに鳴り続けていた心音も、今ではぴたりと凪いでいる。


 それもそうだろう、と自嘲が零れた。

 この人は間違いなく、グレイトスネイクですら一捻りで消し飛ばすような、それこそ僕とは次元が違う。

 僕はもちろん、きっとエルナさんでさえ手が届かないだろう圧倒的な強者だ。


 だから、麻痺してる。

 恐怖に身体を震わせる事もなく、死を肯定してしまえるぐらいに落ち着いてしまっている。


 でも――いっそそれがちょうどいい。

 じゃなかったら、こんな風に軽口を叩いたりもできず、きっと逃げ出そうとしてしまうだろう。


「……魔族、ですか」


 カマをかけるというよりも、もっと単純な確認の意味合いを持った僕の問いかけ。

 あの手紙の内容と、今こうして対峙していて感じるとてつもない嫌な予感が、僕にこの人の正体を改めて物語っている。


 女の人はニタリと――それはもう愉しげに笑みを浮かべた。


「正解。やっぱり勇者って私達の気配にはやけに敏感になるのかしらね?」


 返ってきたのはやはり――否定のない肯定。


 僕らがこの世界に呼ばれた理由。

 いくらアメリア王女様やらジーク侯爵さんが僕らを最前線に追いやるような人じゃなかったとは言え、こうしてやって来てしまった以上は対峙せざるを得ない相手。


 僕らの事情なんてきっと、魔族にとってみれば関係ないだろう。

 かつて世界征服の悲願を邪魔した存在たる勇者を前にして、魔族や魔王にあるのはきっと――ただただ邪魔な相手であるという純然たる事実のみ。


 殺意を抱くには、それで十分。

 僕らを分かつのは、勝者として生き残るか敗者として死ぬか。

 単純な線引きだけだ。


 もう――後には退けない。


 一縷の望みを持って対話でどうにかしようなんて都合のいい考えがなかった訳じゃないけれど、やっぱり甘かったらしい。


 改めてそう思うと、ため息を吐きたくもなるというものだ。


「はぁ……。やっぱりそうですか」

「命乞いでもするつもり? 悪いけれど、そんなつまらない真似は遠慮させてもらうわよ?」

「いえいえ、命乞いなんてしませんよ」


 ――ただ一方的に、告げさせてもらうだけですから。




 そう付け加えて、戦端を切る。




「――死んでください」


 魔器から魔力を充填された、初代勇者が作った〈古代魔装具アーティファクト〉。

 青い光を放つ銃身をそいつに向けて、引き金を微塵の躊躇いなく引いた。

 巨大な幾何学的な紋様が幾重にも浮かび上がり、放電を彷彿とさせるようにバチバチと踊る青い光が、みるみる収束していく。


 ――――膨れ上がった光の向こうでは、驚愕に歪む敵の顔。

 そこ向かって放たれたのは、極大な青と白の閃光だった。


 一般的な火薬で作られている銃のような反動とは異なる、圧倒的な力の奔流が手の先から発生した弊害とも言える突風に煽られ、僕は無様に後方にごろごろと転がり、慌てて顔をあげた。


 大地を穿つ程の極大な閃光の爪痕に息を呑み――その向こう側で右手を翳しただけで堂々と立つ敵の姿に、今度は息を吐いた。


「……やってくれるじゃない……。本気で防がなかったら、さすがにそれは私でも無事じゃ済まな――」

「そぉい!」


 足元に仕掛けていた導線を引き抜き、今度はちょうど女性が立っていた一帯を火柱が呑み込んだ。


 立ち止まらせるための釣りの理由は、この一撃を喰らわせるためだ。

 強烈な火炎放射を放つ魔導具をぐるりと円状に置いて、導線に魔力を流して発動を促した。


 炎がぶつかり合い、火柱が轟々と空へと燃え上がる。


 僕の稼いだお金を、全部貢いであげるよ。

 殺す為だけにというなんとも味気ない愛情の為だけども。


 さらにポケットから取り出した、重りを括りつけた紙袋。

 その名も〈火竜の粉〉。

 炎の中に投げ込めば、たちまち危険がいっぱいな火薬みたいなコイツを投げつけ、頭を押さえて伏せる。


 ――――巨大な火柱が一瞬にして膨れ上がり、強烈な爆発を引き起こした。


 ……熱いし痛いし、正直僕の方が死ねる気さえしてる。

 佐野さんが調合で作った危険物質の威力は、僕を焼き殺すつもりらしい。

 予想以上だよ、これ。

 何が「初めて作っただけだから、威力は期待しないでね」だ。

 普通ならオーバーキルもいいところだよ。


 爆風をなんとか耐えて立ち上がり、顔をあげる。


 刹那――炎の矢が渦の中から飛んできて、身を捩った僕の脚を掠めた。


 痛みに鈍い声を漏らしながらも未だに燃え上がる炎を見つめていると、中央に近い位置にいた敵を中心に暴風が吹き荒れ、拡散した。


「……嘘でしょ……」

「フフフ……。結構可愛い顔してるのに、不意打ちにトラップなんて。嫌いじゃないわよ、そういうの」

「それはそれは……迷惑ですね。僕はこれだけやって無傷なあなたが大嫌いです……!」


 炎の中から姿を見せたのは、全くと言っていい程に無傷で余裕を持った笑顔さえ浮かべている敵の姿だった。


 あー、これだから人外なんかとは戦いたくなかったんだよ……。


 理不尽を平気な顔でやるような相手に、僕の全財産を注ぎ込んだ攻撃用の魔導具が通用するわけがなかった。

 あれだけ色々採集して売って、そのお金を全部注ぎ込んだのに。


 ……これだから、理不尽は嫌いだ。


「私は魔王陛下の忠実なる下僕、『焔』を司る魔人――エキドナ。このぐらいの炎なら、むしろちょうどいいぐらいよ」

「相性最悪じゃないですか……」

「残念だったわね。大丈夫よ、それぐらい活きがいい方が、私は可愛がってあげられるから」


 そう言いながら一歩、また一歩と敵――エキドナが近づいてきて、金色の双眸がカッと妖しく光を放った。







 その光は妖しく、思わず見惚れそうに頭がぼーっとして――――







「――《跪きなさい》」

「え、お断りします」







 ――――『【魅了の魔眼】を無視しました』。







「……あ、あれ? 変ね……。――《跪いて忠誠を誓いなさい》」

「いや、跪きなさいって言われて断ってるのになんでハードル上げてるんですか。アホですか?」







 ――『【魅了】の魔眼を無視しました』。








 ……………………。






「ぷふっ」

「――ッ!?」






「あれですか、もしかして誰もが跪いて忠誠を誓うとか思っちゃってるちょっと痛い人なんですか? えー、何それひいちゃうなぁ。もしかして女王様とか呼ばれたいんですか? ぷっくくく……!」

「…………ッ!」


 プルプルと震えながら、なんだかエキドナの顔が健康的な小麦色から羞恥の赤が混ざり始めていた。


「――殺すわッ!」

「え。言う事聞かないからって殺すとか、何ですかそのいじめっ子的発想。暴力に訴えればいいとか本気で思っちゃってる方の痛い人でしたか、そうです――かぁっ!?」


 炎の矢みたいなのが飛んできた。

 危なっ、焼けるっ!


 ギリギリで避けれたけれど、余裕があったのはその一瞬だけだった。


 一瞬、エキドナの姿がブレたかと思えば、次の瞬間には目の前に赤い髪が揺れていて――――鋭い衝撃とぐるぐると回る視界、身体の内を伝ってきた骨が折れるような鈍い音が聞こえてきた。


 気が付けば、僕は後方に――さながら力ない人形のように蹴り飛ばされていた。


「……魔眼が効かないなら、もういいわ。下等なヒューマン風情がこの私を侮辱して……ッ! 穿て炎の矢――【焔矢】」

「――がっ、あああぁぁぁ――――ぐッ!」


 放たれた炎の矢に、倒れていた僕の右腕が――あっさりと貫かれ、地面に縫い止められた。


 痛みと熱さに思わず叫び声をあげて、動こうとすればする程に増す痛みに必至になって歯を食い縛る。

 倒れたままエキドナを睨みつければ、愉悦の混じる醜悪な笑みを浮かべた。


「楽に死ねるなんて思わない事ね……! 死にたいって懇願するまで、死なせてあげないわよ……!」


 怒りのあまり、擬態していた姿から本物の蛇女の姿へと変わっていくエキドナ。

 ついに完璧な人外と化した姿を見上げて、僕は脂汗がダラダラ流れる顔のまま、痛みを噛み殺しながら引き攣った笑みを浮かべてみせた。


「……魅了の魔眼だかなんだか知らないけど……、思った通りにいかないからってすぐにキレるようなアンタを使ってる時点で、魔王サマも器が知れるって話だよ――ぐッ、あああぁぁッ!」

「……あの御方を侮辱するなんて、そんなに苦しみたいのかしらッ? ――調子に乗るんじゃないわよ、〈普人族ヒューマン〉風情がぁッ!」


 エキドナの下半身――黒い大蛇の身体に締め上げられながら持ち上げられた。

 ミシミシと音を立てて身体が締め付けられ息を強引に吐き出されたせいか、濁濁と流れ出る赤黒い血の妙な温かささえ感じられなくなり、意識が朦朧とする。


「ぐ……ああぁぁぁ……ッ」

「あの御方を侮辱した罪は重いわよ……ッ!」

「……ッ、侮辱されるのは、アンタの浅はかさのせい、でしょうが……ッ」

「減らず口を――ッ!」


 更に強く締め付けられ、咳と一緒に血が零れる。

 さっきの蹴りで折られた骨が刺さったのかもしれない、なんて考えられる程度に、思考が纏まらなくなっていた、その時だった。






 ――――怒り狂うエキドナの顔の横に、突然。

 細野さんが姿を現して、ぐるぐると回った力をそのままに強烈な蹴りを入れた。






「――ぐッ、どこから――!」

「細野だけにいい格好をさせるか!」


 さらに後方から片手につけた盾を振り被って殴りつけようとした赤崎くんの一撃に、エキドナもたまらず僕の身体を放り出して後方へと下がった。


 べしゃり、と力なく倒れた僕の耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。


「――ユウ様ッ!」


 ――あぁ、まったく。


「な、んで、全員来ちゃう、かな……」

「なんでって、決まってんだろうが。お前だけにいい格好をさせて、お前だけに全部を任せるなんてのはな、もうごめんなんだよッ! 馬鹿野郎が!」


 赤崎くんの叫びに朦朧としていた意識が、なんとか起きなくちゃって思う僕の心とは裏腹に、ゆっくりと黒一色に覆われていく。








 ――――相変わらずどこか間の抜ける効果音が、黒一色の世界の中で聞こえたような気がした。

 







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