第12話 鵺
蜜美と呼ばれた彼女はぷいとそっぽを向くと、機嫌が悪いまま作業を続ける。
「すみません。ここの作業、今日中に済ませたいんで」
「ああ、どうもお邪魔しまして。……あの、少し、聞いていいかな?」
「はあ、いいですけど」
「遺族の方は息子さんだけですか、ここに来られたのは?」
「昨日はお孫さんがおられましたよ。あの人も本に興味があるようで、散々、家の中の本を見て回っていました。ああ、そうだ。本ならその廊下の奥の洋間にたくさんあります。あの部屋が本の置き場なんじゃないですか。……まあ、この家には至るところに本が積まれていますけどね。ここの本、すべて査定するんですか?」
「そう、ですね。そうなるのかな」
藍士は曖昧に笑ってごまかしながら言った。
「そのお孫さんのことですが、この家から本を持ち出していましたか?」
「ええっと、確か、廊下に積んであったのを何冊か。あの人、不思議と洋間には入らないんですよ。あんなに一杯あるんだから選び放題だと思うんですけど。……じゃ、もういいですか? 作業に戻らないと」
「ああ、ありがとう」
藍士が礼を言うと男の子は明るく笑い、背中を向けて作業に戻ろうとした、が、その時、今まで黙っていた頼が不意に口を開いた。
「朽ちながら
一瞬の沈黙の後、ゆっくりと男の子が振り返った。
「
「その
頼は彼の胸のあたりを軽く指差す。男の子は首を横に振った。
「いえ、これは『そらふね』って読むんですよ。会社の名前です」
「どういう意味?」
「さあ? 僕らはアルバイトだから社名の由来までは知りませんよ」
「そう」
にこりとすると、頼はさっさと部屋を出る。慌てて藍士も頼の背中を追った。
「おい、何だよ。今の」
「鵺、だよ」
「能楽のだな?」
「知ってんじゃない」
「……さっき、お前が空舟がどうのって言っていたのが、能楽の『鵺』の台詞だってのは分かったよ。何で、それをあの子に言ったのかって聞いているんだ」
「彼らの作業服の胸ポケットの刺繍。空舟ってあった」
「だから、会社の名前だろ。それが何なんだ?」
「何でもない。ただ、ああいう子がよりによってこんな仕事をして、しかも社名が空舟なんて、笑えない冗談だなと思っただけだよ」
「お前、何言ってんの?」
「……あの男の子、幽霊を見慣れている顔をしていたよ」
「……は?」
「藍士には分からないよ」
ふっと口元で小さく笑ってから頼は言葉を継いだ。
「あの子には、僕と同じ匂いが少し、する」
「同じ匂いって?」
「いいよ、考えなくて。余計なことだった。……さ、本を見てみよう。なんなら本気で査定してみたら?」
取って付けたように陽気に笑う頼に、藍士は言葉を返せなかった。
あれは確か……『鵺』という化け物が退治され、
「朽ちながら空舟の、月日も見えず暗きより、暗き道にぞ入りける……」
頼、お前は『鵺』じゃないだろう。
先を行く頼の細い背中にそう言いかけたが、藍士は結局、口をつぐんだ。そんな言葉が何の足しにもならないことを分かっていたからだ。その時、不意に頼の体が廊下の暗がりに消えた。驚いて駆け寄ると、頼は廊下の突き当たりにある八畳ほどの洋間を覗き込んでいた。
「見てよ、すごいことになってるから」
「え。……ああ」
藍士は頼の腕をさりげなく捕まえてから、言われるままに部屋の中を見た。
「これは……すごいな」
その部屋の様子に思わず藍士は息を呑んだ。
四方の壁は背の高い本棚に囲まれており、息苦しいほどの圧迫感がある。窓はそのせいで塞がれていて、室内は必然的に薄暗い。そして、本棚に入り切れない本がフローリングの床に積み上げられており、文字通り、足の踏み場も無い状態だった。
「すごいよね、いろんな意味でさ」
頼が入口から一歩入ったところで立ち止まり、肩を竦める。それ以上、中に入る気はないようだ。藍士は本の山を崩さないよう細心の注意を払いながら奥へと足を進めた。本の重みで傾いでいるのか、床に少し違和感を感じる。
「なんだか、変な感じだ。床が抜けるんじゃないか」
「本の重みで床が弱っているのかもね」
「……ここの本はあまり触られていないようだな。本が減っている感じがしない」
藍士はぴったりと本が収まっている本棚を見渡しながら言った。
「どうして孫はこの部屋の本には手を付けなかったんだろう。さっきの遺品整理の子が言っていただろう、廊下の本は持って行ったって。あんな所に乱雑に積まれている本より、ここの本の方がまだましな保存状態なのにな」
「でも、よく見ると雑本ばかりじゃない? ほら、その辺にあるのは最近の雑誌とか文庫本とか、古本じゃないのもある。これじゃあ、持って行っても大したお金にならない」
「いや、よく見るといい本もあるよ」
何冊か手に取ろうと藍士がしゃがみ込むと、頼が不意に言った。
「もう出よう」
「え?」
「飽きたよ」
頼は冷たくそう言うと、一人で部屋を出て行った。そしてそのまま玄関に向かい、家の外に出てしまう。
「鍵はいいよね。あの子たち、まだ作業しているみたいだから」
「そうだが、どうしたんだ、頼」
仕方なく頼の後を追って外に出た藍士は困惑顔で言う。
「ついさっきまでは興味津々だったのに」
「だから、飽きた。もういいよ」
「……何か見えたのか?」
「人が死んだ家だからね」
言ったきり、頼は黙り込む。藍士は振り返って自分がさっきまでいた家を眺めた。
人が死んだ家。
そう思うからか、どうもこの家には不穏な空気が立ち込めているように思う。
気分を変えようと深呼吸していると頼がつんと肘で藍士を突いた。
「ねえ、あれって」
さりげなく隣の家の方を目で示す。鍵を預けるように言われた青い屋根の家だ。そこにはいかにも好奇心旺盛といった顔つきの老婦人が、庭の垣根越しにこちらの様子を伺っている。
「篠原さん、だっけ」
「そのようだ」
ひとつ頷くと、藍士は愛想のいい顔を作って婦人に近づいて行った。
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