第10話 老人の絵本

 ★

 月下藍士は、念のためもう一度、その家にかかる表札と番地を確認した。

 間違いない。

 藍士は手元のメモを見て、ひとつ頷く。この家の主である岩田恵造いわたけいぞうという人物が、貴之の名前の入った『顔のない絵本』を売ったのだ。手に提げている紙袋の中の絵本に自然と目が行く。

 この絵本は今朝、隣町の古本屋で入手してきたばかりのものだ。

 山瀬が藍士の店を訪れてから今日で二日経つ。なかなか順調に事は進んでいるのではないかと藍士は思っていた。

 しかし、障害がないでもないか。

 藍士は絵本を手に入れた経緯を思った。

 古本屋仲間のネットワークを使って、絵本を買い入れそうな店に片っ端から電話を入れてみた結果、すぐに隣町の安寿堂という古本屋にそれがあると分かった。早速、出掛けてみると、主人は抜け目のなさそうな初老の男で、丁寧に挨拶をする藍士をいかにも胡散臭そうにじろじろ眺めた後、無愛想に言った。

「あんたが電話で言っていたのはこの絵本だな? 確かに最近、入ってきた本だが」

「あ、ちょっといいですか」

 主人は無言で絵本を藍士に差し出した。それを藍士は両手で受け取ると、先ず後ろのページをめくってみる。そこには達筆な文字で『貴之へ』とあった。

「間違いありません。この本です」

「そうかい、良かったな」

「おいくらでしょう?」

「そんな雑本、欲しけりゃくれてやる、持ってけ」

「え。いいんですか?」

「ああ、どうぞ」

 どうでもよさそうに主人は言って、手を振る。早く藍士を追い払いたいのだろう。それを感じながらも、藍士は言葉を重ねた。

「あの、この本はどのような方が売りに来られましたか?」

「本の出所かね」

「はい」

 主人は、ふうんと頷くと、またじろじろと藍士を値踏みするように見て言った。

「あんた、本当に古本屋かね? いつもそんなぱりっとした格好をしているのか」

「はあ、よく言われます」

「月下美人さんとこの三代目は、格好ばかりの詮索好き。頭にへぼのつく本の探偵気取りだ、なんて言われているが? 困っている人に付け込んで、荒稼ぎしているんだって?」

 藍士は内心、うんざりした。そんな噂がこの界隈の古本屋の間で流れているのは百も承知だが、こうも目の前ではっきり言われるとやはり気は滅入る。

 中条家と付き合いを始めた頃から、藍士の周りでは怪異なことが起こるようになった。そのせいか、古本屋を継いでからも本を巡る奇妙な出来事に何度か遭遇してきた。それらは何とか解決してきたものの、どこをどう噂が廻ったのか『本の探偵』だのと密かに呼ばれるようになってしまっていた。藍士にとってそれはありがたくない称号なのだが。

「あの、私はただの古本屋です。本の探偵などと名乗ったこともありませんし、荒稼ぎなどした覚えもありません」

「そうか。そんな絵本を欲しがるから、また何かおかしなことでもしているのかと思ったんだがな」

 そう言った後、不意に主人の顔が和らいだ。

「とはいえ、まあ、噂は噂だ。どんな奴かは、そいつの目を見れば分かる。あんた、いい目してるよ。……ま、頑張んな」

「……え。あ、ありがとうございます」

 一瞬の間の後、慌てて藍士は頭を下げた。次に顔を上げると、目の前に一枚のメモが差し出された。

「絵本を売った客の名前と住所だ。本当はこういうことは駄目なんだが、ほら、個人情報とかでうるさいだろ。だから、内緒な」

「あ、ありがとうございます。このことは他言しませんから」

「あんた、その家に行くんだろ」

「はい、そのつもりです。あ、こちらのご迷惑にならないようにしますので」

「そういうことを気にしているんじゃない。ここの家の主人は変わり者でな、しかも」

「しかも?」

 不吉な予感がして、藍士はぐっと、息を呑む。主人は少し声を落とすと言った。

「死んじまったんだよ」

「は? 亡くなられた?」

 思わず、藍士は声を上げる。

「ではこの絵本は亡くなる前に売られた、と」

「そうだが、売ったのはその亡くなったじいさんの孫だよ。じいさんの使いで来たってな」

「はあ、お孫さん……」

 藍士は渡されたメモに目を落とした。住所を見ると郊外の住宅地だ。名を岩田恵造とある。

「いつですか、亡くなられたのは」

「うーん、最近だよ。数日前だ。正確な日付は分からんが」

「この岩田さんはどのような方だったんですか?」

「偏屈な古書愛好家って感じだな。資産家らしい。金はあるんだろうな」

「ご家族とお暮らしですか」

「一人暮らしだったよ」

「お孫さんはいらっしゃるんですよね」

「うん。確か、十年くらい前までは息子夫婦と同居していたんだが、何が原因かは知らないが、急に息子夫婦が孫を連れて出て行ってしまったんだと。それからは一人だ。週に何回かは介護ヘルパーが訪問していたようだが、まあ、寂しい暮らしを本で慰めていたのかもしれんな。結局、孤独死だったが」

「……そうですか。お気の毒な。その息子さん夫婦は近くにお住まいなのですか?」

「近所ではないようだが、それほど遠くでもないだろ。孫はよく来ていたようだから」

「よくご存知ですね」

「この辺の古本屋ではあのじいさんは有名人なんだよ。なんだかんだで噂は入ってくる」

 困ったように笑いながら主人は言った。

「結構な目利きで、希少本の収集をしていたんだが……」

「何ですか?」

「今思えば、死の前兆だったのか、ちょっとここがやばくなってきていたらしくてな、行動がおかしくなっていたんだ」

 主人は自分のこめかみに人差し指を当てて言った。

「痴呆が始まってたんだよ」

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