第9話 月と太陽

「え? これって池に浮かんでいた小瓶、だよね? どうして・・・」

「あげるよ」

「いや、そういうことじゃなくて、何で手の中にあるんだよ?」

「あの日本髪の女性があなたにくれたんだよ」

「ど、どうして?」

「あなたのことが気に入ったから?」

「……そもそもこの小瓶は何なの?」

「想いも時には具現化する。日本髪の女性が大切にしていた何かへの想いがこの青い小瓶になったってとこかな。あなたが持っているのが筋だよ」

「い、いらない」

 藍士は小瓶を頼に押し付けた。それを受け取りながら含み笑いを頼はもらす。

「つれないね」

「そ、そういうことじゃ……」

「こんなに綺麗なのに。……彼女のどんな想いがこの青い小瓶になったんだろう」

「そこまでは君にも分からないんだ」

「分からないよ。分かりたくもない。どうせろくな想いじゃないさ。……ほら、あなたの戦利品だよ。やっぱり貰っておきなよ」

 頼は青い小瓶を改めて藍士に差し出す。困惑しながらそれをしばらくみつめた後、藍士は恐る恐る指で触れてみる。ひやりとした感触が伝わってきて、その途端、藍士は総毛立った。

「やっぱり、いらない!」

 慌てて手を引っ込めると、渡す気でいた頼の指先をすり抜けて小瓶は二人の間の草地に落ちた。

「あ、悪い」

 反射的に拾おうと手を伸ばした藍士と同じく拾おうとした頼の指がぶつかる。結果的に小瓶を取り合うような形になったのを見て、頼は冷たく言った。

「……いるの? いらないの?」

「い、いらない」

 藍士は赤面しながら、慌てて手を引っ込めた。

「そう。じゃあ、これはうちの蔵にでも転がしておくよ。……さ、部屋に戻ろう。こんな夜更けに男同士で手を握り合っていちゃいちゃしていても不毛だからね」

「……君、本当に小学生か?」

「もうここには来ないでね、藍士さん」

 頼はゆっくりと歩き出す。そのほっそりとした背中を慌てて追いかけながら藍士は思った。頼まれても二度とこの裏庭には来るものか、と。


 目を覚ますと隣で眠っているはずの英の姿はなく、布団はもぬけの殻だった。夏用のタオル地の掛け布団がたたまれて敷布団の上にきちんと置かれている。

 枕元に置いておいた腕時計を手探りで取って見てみると、時刻は九時をとうに過ぎていた。藍士は慌てて起き出すと、布団を猛スピードでたたみ、急いで着替えを済ませて階下に降りた。

 台所で洗い物をしている英の母親とお手伝いさんに朝の挨拶と寝坊をしたことを詫びると、彼女たちは穏やかに微笑んで、赤面している藍士に優しく言った。

「気にしなくてもいいのよ。英もさっき起きたところだし。頼なんていつ寝ているのか起きているのか分からないくらいよ」

「そ、そうなんですか」

 不意に頼の名前を出てきたことに藍士は動揺したが、母親はそれに気づかずに続けた。

「英は今の縁側で涼んでいるわよ。今日も暑くなりそうね」

「はい。あ、それじゃ失礼します」

「ああ、坊ちゃん。居間に朝食のご用意ができていますからね」

 背を向けかけた藍士に、丸顔のいかにも人の良さそうなお手伝いさんが声を掛ける。対照的にうりざね顔の母親も上品に微笑みながら言った。

「ゆっくりおあがりなさいね」

「あ、ありがとうございます」

 あたふたと頭を下げると、藍士は逃げるようにその場を去った。

 足早に長い廊下を渡り、居間に向かうと庭に面したその縁側で、涼しげな顔で座り、麦茶を飲んでいる英がいた。藍士は歩み寄ると、その背中にいきなり言った。

「お前なあ、何で起こしてくれないんだよ」

「ああ、おはよう」

「おはよう、じゃなくて」

「頼の歌はどうだった?」

「……え?」

 突然の問いに、藍士は唖然とする。

「な、何で……」

「昨夜、裏庭に行ったんだろう? 白妙の君は綺麗だったろ」

「……お前、もしかして、何か企んでる? それで、俺をここに泊めたのか?」

 藍士は英の隣に座って、その横顔をみつめた。

「何考えてる?」

「頼、いいだろ」

「は? どういう意味だよ?」

「頼は月なんだよ。そして、お前は太陽だ」

「……だから、意味が分かんないって」

「月は太陽がないと輝かないんだ。……なあ、藍士。月には太陽が必要なんだ。だから・・・俺が死んだら、頼の傍にいてやってくれないか。あいつはあんなだが、本当は脆いんだよ。あいつの身の奥には破滅願望がある。俺はそれが怖いんだ……」

「ちょっと待てよ。死んだらって……何の話しだよ。お前が何が言いたいのか、全然、分からない」

 麦茶の入ったグラスを英が傾けると、氷がからりと転がって透明な音を立てた。それをしばらくみつめた後、英は静かに話し始めた。

「頼はいつも俺に怒っている」

「何だよ、また、急に」

「いとこに雪ってのがいるんだ。頼と同い年でさ、儚げで、華奢な人形のような子で放って置けないんだ。彼女は生まれついて体が弱い。弱いのに、霊を強く呼び寄せる体質で、その辺りを漂う雑多な霊なんかを引き寄せて、それをはらうことなく背負い込んでしまうんだ。ただでさえ体が弱いのに、それが原因で更に体調が悪くなっていく」

「……なんだかそれって、白妙の君みたいだな」

「そうだな。白妙の君も悲しいくらい優しいから」

「その雪って子も悲しいくらい優しいの?」

「うん」

 にこりとして英は続ける。

「だけど、雪の場合は、人の身ゆえ、白妙の君のようにあの歌は効かないんだ」

「……だいたい、あの歌は何なんだ?」

「家に古くから伝わる歌で、あれには荒ぶる魂を鎮める効果があるんだ。本家の者にしか歌うことを許されていない歌だよ。一番上手に歌うのは頼だ。……良かっただろ?」

「……うん。確かに綺麗な声だった」

 夜気に溶け込むように流れる頼の甘やかな歌声を藍士は思い出して素直に頷いた。

 あの歌なら、どんなに荒ぶる魂でも、悲しい魂でも、穏やかに鎮めることが出来るような気がした。

「その雪ちゃんって子に歌が効かないなら、その子はどうなるんだ? 俺が裏庭の池で見た白妙の君は浄化できない想いが腹に溜まって苦しそうだった。雪ちゃんは……大丈夫なのか?」

「白妙の君は光川から流れ込んでくる想いの残滓を呑み込みすぎて、自分の中で浄化しきれなくなってしまった……つまり、消化不良を起こしてしまったわけだけど、雪の場合は、魂そのものをなんでもかんでも受け入れて背負い込んでしまう。想いの残滓ごときとは、そもそも重みが違うんだ」

「うーん、よく分からないけど……それってまさか、その雪ちゃんって子が死んでしまうなんてことには」

「死ぬだろうね」

 意外に、あっさりと英は肯定する。

「そして、それに関わろうとする俺も長生きできないだろう。それを分かっていながら関わろうとする俺に頼は怒っているんだ、弱い、と言って。俺のことも雪のことも弱いって。優しいのは、つまり弱いということだって」

「それって、離れていくお前をつなぎとめたくて……頼ちゃんは寂しいんじゃないのか?」

「知っている」

 短く息を吐くと、英は決心したように言った。

「それでも俺は雪を放っては置けない。俺は雪を選ぶと決めた。雪は頼と同じで、月なんだ。俺は……雪の太陽になる」

「最低な兄貴だな」

「……知っている」

 英は目を伏せた。長いまつげの暗い影が、英の端正な顔に落ちる。

「ごめんな、藍士。お前を選んでしまって」

「お前の言っていること、やっぱりよく分からないよ」

 顔が熱く火照ってくるのをごまかすように、藍士は早口で言った。

「太陽とか月とか、残滓とか魂とか、俺にはさっぱり分からない。けど、お前が頼ちゃんの兄貴を放棄するなら、俺が頼ちゃんの兄貴になってやるよ。後で頼ちゃん、返せったって駄目だからな」

「分かった」

 英は顔を上げると、真っ直ぐに藍士を見た。

「な、何だよ」

「……初めてお前の名前を聞いた時、『アイシ』というから『愛し』かと思ったよ」

「何だ、それ」

 にやりと笑う英に、藍士もつられて笑ってしまった。おかしな兄弟だと思いながら。

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