第8話 白妙の君
「この池には古くから大きな鯉が住みついていてね、池の主なんだ。うちでは
頼は池の、たゆたう水面に一瞥をくれてから言葉を続けた。
「彼女は光川から流れ込み、澱みに溜まって浄化できない可哀想な想いの残滓を喰ってあげているんだ」
「え。喰う?」
「そう。喰うことによって浄化をしているんだよ」
理解できないという顔の藍士に仕方なさそうに頼はひとつ頷く。
「浄化するにもいろんなやり方があるのさ。白妙の君はね、優しいんだよ。自分の身の内に収めることで、悲しみや苦しみをこの世から消し去ろうとしてくれる。だけど、それも数が増えてくるとその重さに白妙の君の方が耐えられなくなってくるんだ。そうすると、それらは
「たくさんの顔って……その悲しみや苦しみを持って死んでいった人たちの顔ってことか? ……あの日本髪の女性も……」
「あなたが見たのはどんな顔をだった?」
言われて、藍士は日本髪の女性の顔を思い浮かべようと宙に視線をさまよわせたが、何故だかまったく思い出すことが出来なかった。ただ、日本髪をした真っ白なのっぺらぼうが浮かんでくるだけだ。
「あれ、おかしいな。あの女の人の顔を見たのはついさっきなのに」
「考えなくてもいいよ。無駄だから」
あっさりと言う頼のその態度に、藍士はさすがにむっとして言葉を荒げた。
「無駄って何だよ。君が聞くから僕は・・・。さっきから厭な言い方ばかりして・・・確かに裏庭に勝手に入ったのは悪かったよ。でも、俺は本当に怖い目にあって……。だいたい、その池の主とか光川からの想いだとか本当なのか? 君、俺のことからかってないか?」
「ふうん。信じないんだ」
猫のように目を細めると、頼はいきなり藍士の手を握った。ぎょっとしている藍士を無視して、頼はぐいと引っ張って今逃げてきたばかりの池の淵に彼を引き戻した。
「ちょ、ちょっと、何するんだよ!」
「見ていて」
穏やかに頼は言うと、藍士の手を握ったままそこに膝をついた。必然的に藍士も同じようにしゃがみ込み、びくびくと池の水面と頼の凛とした横顔を交互にみつめる。これから何が起こるのか想像もつかない。
「……白妙の君、おいで願えるか」
水面を見渡した後、頼は低いがよく通る声で言った。しばらくの静寂の後、目の前の水面がわずかに泡立ち、ゆるりと白いものがせりあがってきた。
「……鯉?」
それは大きな白い鯉だった。月の光に反射してきらめく鱗の色は虹の光沢がある。艶めかしくもそれはどこか清廉で、息を呑むほどに美しかった。
「……これが、白妙の君?」
「静かに」
頼の言葉が終わらないうちに、鯉の白い体がわなわなと震えはじめた。苦しむようにひとしきりのたうった後、不意に鯉の体は暗い水に沈んだ。驚いた藍士が小さくあっと叫び、思わず身を乗り出そうとした時、同じ場所から違うものがせりあがってきた。恨めしそうな顔をした少女だった。黒い髪が額に張り付き、色のない唇が呪詛の形にわなないている。
「うわあ!」
「静かにと言っているのに」
頼が呆れたようにそう言うと、空いている手を少女の方に差し出した。すっと息を吸うと、藍士には何と言っているのか理解できない言葉を、歌うように唱え始めた。独特の抑揚があるその歌は、低く高く、暗い水面を流れていく。しばらくすると歌の効果か、少女の表情が和らぎはじめた。
頼は、眠るように目を閉じた少女のその小さな頭にそっと手を載せ、優しく撫でた。と、たちまち少女の姿は霞みはじめ、その面影が消えて元の鯉の姿に戻った。
ああ、消えた……。
藍士がほっと安堵したのも束の間、鯉の姿はまた揺らめきはじめ、ゆっくりとした速度で違う顔が現れた。それは若い男の顔。お世辞にも穏やかとは言えない表情をしている。及び腰になる藍士とは対照的に、頼は臆することなく手をそのまま男の頭の上に置いて歌を続けた。次第にその男の顔も和やかに変わり、先ほどの少女のように霞んで消えた。そして次には幼い子供の顔が現れ……。
まるで粘土細工のようだ、と藍士は思う。頼の手の中で粘土は優しくこねられて、次々と違う顔が作られていく。
呆然としている藍士の前で、その光景は登場人物を変えて何度も繰り返されていく。そして、最後に藍士を池に引き込もうとした日本髪の女性が消えると、鯉は元の姿に戻って落ち着いた。
「もう大丈夫だよ」
頼が驚くほど優しい声で鯉に呼びかけた。差し出したままの彼の手を、その指先を、鯉は慈しむように愛撫する。やがて体を優雅にくねらせると、静かに水の中へ姿を消した。
「おい、君の方こそ大丈夫か」
その場に力なくへたり込んだ頼に、藍士は言った。彼の血の気の引いた顔を本気で心配した。
「……平気。いつものことだから」
そして、微かに笑った。その笑い方が自虐的に思えて、不意に藍士の胸を打った。
この子を見ていると、どうしてこんなに切ない気持ちになるんだろう……。
藍士はまじまじと線の細い頼の横顔をみつめた。誰にも救ってやることのできない深い寂しさがそこにはあり、そしてそれが、頼の儚げな美しさの源であるような気がした。
「……あなたが今見た顔は」
ゆっくりと頼が話し始めた。
「想いの残滓のなせる業ってとこだよ」
「え? それはどういう……」
「たかが残滓のくせして、まだ実体化して想いを果たそうとしているんだよ。面倒だよね、人の想いって奴は」
ふっと小さく息をつく。
「白妙の君が浄化しきれなかった想いが彼女の身の内に溜まっていくのを、時に僕らがこうして解き放つ手助けをするんだ。そうしてやらないと白妙の君が潰されてしまうから」
「……想いのザンシってのは何?」
「あなたはさっき、怨念と言ったけど、それは大きく外れていないよ。人は死んでも想いは残る。その想いが良いものだろうが、悪いものだろうが、どちらにせよ同じ『情』であり、そこを考えれば、それらは結局、人を滅ぼしかねない怨念に違いないから」
「えっと……だから?」
「光川で死んだ人たちにも勿論、それらの想いはある。その想いの残滓……つまりカスやらクズやらが川の水に混じって疎水を通してここに流れ込んでくるんだ。
所詮、カスやクズだから、たいした力はない。放っておいても自然消滅してしまうものだけど、池の流れの止まった淀みに落ち込んだものはそうはいかない。さっきも言ったけど、優しい白妙の君は放って置けなくて、どこにも行けず、苦しみ、のたうつそれらの残滓を喰うことで浄化してあげていたんだ。だけど、数が多いとさすがに浄化しきれない。白妙の君に悪影響が出てしまう。さっき、あなたを誘って池の底に沈めてしまおうとしたようにね」
「それって、やっぱり俺を殺そうと」
「お仲間にしたかったんだろうね。白妙の君の中にいたあの日本髪の女性、彼女があなたを欲しがったんだ」
「欲しがるって……」
絶句する藍士を面白そうに頼は見て、言葉を重ねた。
「そんな顔しなくてもいいよ。もう、終わってしまったことだから。そういうことを防ぐために僕は歌を歌うのさ」
「あれは白妙の君を助けるために?」
「白妙の君の中に溜まった想いを浄化する手伝いをしているんだよ。……ああ、そうだ」
頼はまだ握っていた藍士の手を目の高さまで持ち上げると、そこでようやく手を離した。
「手の中、見てみて」
言われた通り、藍士は自分の手のひらを開く。そこには青い小瓶が載っていた。
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