第7話 裏庭

 結局、来てしまったけどさ。

 藍士はのろのろと布団を出ると、英を起こさないように気を付けながら窓際に寄った。座り込んで障子をそっと開けると戸は二重になっており、外側には硝子戸があった。そこから夜の風景を眺める。

 明るい月が出ている今夜は、庭の様子が美しく映える。二階のこの部屋からは庭が一望できた。ここから見える庭は裏庭になるのだがそれでも十分な広さがあり、日当たりもいいらしく、植えられている花や樹木も多種に富んでいた。

 うちには庭がないからなあ。

 藍士は羨望の眼差しでみつめる。花と緑をこよなく愛する藍士は、庭のある家がうらやましくて仕方なかったのだ。

 あ。何か光った。

 硝子戸に額を押し付けるようにして藍士は庭を見た。

 柵の、向こう側か。

 低い柵で仕切られた向こう側で、何かに月の光が反射したのだ。

 水面に反射、した? 池でもあるのか。

 好奇心にかられて体を起こした時、藍士は不意に昼間の頼の言葉を思い出した。

『裏庭には近づかないこと。低い竹の柵があるから、そこから奥には入らないで。危ないから』

 あれが竹の柵、かな。

 少し逡巡した後、どうしても衝動を抑えられなくて、藍士は結局立ち上がり、そっと部屋を出た。

 玄関の鍵を開けて外に出た藍士は、だいたいの見当でぐるりと家屋を回り、裏庭に行く。そうして低い竹の前に立つと、目を凝らし、耳を澄ました。やはり、向こう側に水辺があるようだ。時折、水の跳ねるような音が聞こえてくる。

 魚がいるんだ。

 嬉しくなって、藍士は何も考えず、あっさり竹の柵を跨いで奥へ奥へと、柔らかな草地を歩いた。すぐに大きな池の前に出る。

 水面に浮かぶ丸い葉は睡蓮だろうか? 穏やかな水流を目で追うと、その水が疎水につながっているのが分かった。

 こんな大きな池が家の敷地内にあるなんてな、さすが、中条家。

 水辺にしゃがんで、水面をまじまじとみつめる。暗くてよく見えないものの、何かが泳いでいるのは分かる。

 鯉でもいるのかな。

 藍士はいよいよ目を凝らす。と、すぐ近くの水面に何か光るものが浮かんでいるのに気が付いた。

 硝子の……小瓶?

 香水瓶のような凝った意匠のその美しい小瓶は、ゆらゆらと水面を漂っている。

 おかしい。

 どうして浮かんでいるんだ? 硝子なら沈むはず……。

 不自然に思いながらも、藍士はいつの間にか、引き寄せられるように小瓶に手を伸ばしていた。指先が冷たく硬い瓶の表面に触れる。

 ……だめだ。これに触れてはいけない。

 藍士の本能が警告する。だが、既に藍士の指は瓶ではない何かに絡めとられていた。

「……うわあ!」

 慌てて身を引こうとしたが、金縛りにあったように彼の体は動かない。ただただ、目の前で起こっている妖しいものごとをみつめるしかなかった。

 ゆ、指? 池から指が出ている?

 藍士は異様だが、しかしその妖艶な光景に戦慄した。池の暗い水面から、さながら睡蓮の花弁のような白くたおやかな女の手が付き出ているのだ。そしてその指は、しっかりと藍士の指を掴んで、決して放そうとはしなかった。

「……は、放してくれ」

 重たい唇をようよう動かして、藍士が必死に訴えると、白い指はそれに応えるように一度、震え、そうしてずるずると水面にせりあがってきた。息を呑んでみつめている藍士の前に、ついに日本髪の楚々そそとした女性が、裸の肩を晒してそこに現れたのだった。

 藍士の喉はカラカラに渇いて悲鳴すら上げられなかった。恐怖で神経がどうにかなりそうだ。だが、ここで気を失うわけにはいかない。もし気を失えば、間違いなくこの暗い池の底に引きずり込まれてしまうだろう。

「た、助けて」

 藍士は女の優しい顔に懇願した。女は微かに微笑んだ。ほのかに紅をさした唇がゆっくり動いて、低く言う。

『来て』

 女の、その艶めかしさにふと、藍士の意識が濁った。その一瞬の隙をついて、女の、藍士を捕らえた指にぐっと力が入る。それだけでくらりと藍士の体が池の水面へと傾いだ。

 ああ、だめだ。抗えない。

 諦めと後悔と恐怖とが、複雑に交じり合った気持ちで藍士は深く目を閉じた。すぐに自分を冷たく包み込むだろう暗い水を思う。

「……あなたは人の話しをきかないようだね」

 凛とした声がした。その刹那、藍士は襟首を掴まれ、乱暴に地面に引き戻されていた。

 え?

 呆然と顔を上げると、柔らかな月の光の中に佇み、座り込んでいる自分を冷たく見下ろす頼の姿があった。彼は怖い顔をして藍士に強く言う。

「僕はだめだって言ったよね? 裏庭には近づくな、柵は越えるな、と」

「……あ、頼ちゃん」

「ちゃんはやめろ」

 低い声で頼は唸るように抗議すると、藍士の腕を引っ張って強引に立たせた。

「早く部屋に戻って」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。今のは何だったんだ?」

 藍士は恐る恐る池の方を見る。だが、水面には女の姿は既になかった。穏やかに揺れる水を湛えた池がそこにあるだけだ。藍士は自分の指をまじまじとみつめる。まだそこには女に掴まれていた感触が生々しく残っていた。

「夢だったとか言わないでくれよ」

「言わないよ。残念ながらあれは現実だもの」

「……あの女の人は幽霊ってこと? 俺は日本髪の綺麗な女の人に池に引きずり込まれそうになったんだぞ?」

「そう」

 目を細めて、池の水面を頼は見た。

「あなたがどれほどうちの家系について知っているのか知らないけれど、ある程度、覚悟があって泊りに来たのだと僕は思っていたよ。うちに泊まりに来ておいてちょっとくらいの異変にいちいち驚かないでくれる?」

「ちょっとくらいって」

 藍士は平然としている頼の顔を驚愕の眼差しでみつめた。池の中からこの世ならぬ女が現れ、暗い水の中に引きずり込まれそうになったのだ。それのどこがちょっとくらいの異変、なのだ。

「俺は下手したら死んでいたんだぞ! 何がちょっとくらい、だ!」

「だからさ」

 頼は当てこするように大げさに溜息をつく。

「僕はここには入るなと忠告したじゃない。・・・兄には言っておいたんだけどな。裏庭に面する窓は障子戸を閉めて外は見えないようにしておいてくれって。あなたは見るからに危なそうだから」

「危なそうって」

「柔らかそうな心を持っていそうだから、そういう人は危ないんだよ」

 ぼそりと頼は言う。聞き返そうとした藍士の言葉を遮って頼は言葉を重ねた。

「で、障子戸は開いていたわけ?」

「……あ、閉まっていたけど」

「開けたんだ」

「……うん」

「夜の裏庭を窓から眺めていた? それでこの池に興味を持った?」

「……うん。月明かりに何かが光って、水辺があるんだと思ったら気になって」

「そう。その時点であなたは魅入られていたんだよ」

「……見るだけでもだめだったのか?」

「見てもいいよ。あなたが裏庭の柵を越えて、この池の近くまで来なければ別に問題はなかったんだ」

 藍士はぐっと息を呑む。今更ながら、ぞくりと背中が寒くなった。自分が信じられないほど、無鉄砲で無神経なことをしていたのだと、頼の冷たい声音を重ねて聞くうちに、そのことがじわじわと肌を通して伝わってきた。

「あなたはさ」

 静かに頼は言った。

「分かってないんだよ。見る、ということはすなわち見られるということ。あなたはぼんやりと夜の風景を眺めていただけなんだろうけど、池にいたあの人は、しっかりあなたをみつめ返していたのさ。見初められたってとこだね」

「あの日本髪の女性は誰なんだ?」

「知るものか」

 ぶっきらぼうに頼は応じる。

「あの池は光川につながっている。いや、この池だけの話じゃなくて、この村に流れる疎水すべてはみんな、光川から水を引いている。光川の事は知っている?」

「あ、うん。少しは。綺麗な川だけど、よく水難事故が起こるとか。そのせいで霊が集まる場所だとか……でも噂だよね」

「そうでもないよ」

 意地悪く、にやりと笑って頼は言葉を続ける。

「あの川は見かけは美しい。流れも優しいせせらぎに見えるけど、うっかり深い所に足を踏み入れたらもう最後だと思った方がいい。底の方は水流が複雑になっているから、あっという間に水底に引き込まれて二度と浮かぶことができない。浅瀬で流れに注意しながら遊ぶ分には問題ないんだけど」

「それで水難事故が起こるんだ……」

「死亡率は、事情をよく知っている村の住人より町から遊びに来た人の方が多いね。特に子供。後は自殺志願者」

「さらりと言うなよ」

「そうして水に沈んでしまった人たちの想いやら無念やらの残滓ざんしが光川から疎水を通して、こういう池に流れ込む。流れにさらされていれば、それらも自然と浄化して消えていくものだろうけど、ほら、あなたが手を伸ばしていたあの辺り。特に流れがよどんでいる場所なんだ。溜まっているんだろうな。そういう人たちの想いが澱のように水の底に、さ。そうなってしまうとなかなか浄化できない」

「……それじゃ、あの女の人は自殺した人? 光川から流れ込んできた怨念?」

「怨念とは怖い表現だね」

 不意に頼は陽気に笑った。

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