第6話 藍士、英を想う
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目が覚めたのは物音がしたからか。
藍士は、はっとして横になったまま、障子の窓から滲むように部屋に忍び込んでくる月光に目を凝らした。
一瞬、ここがどこだか分からなくなって混乱したが、すぐに思い出す。
ああ、そうだ。英の家に泊まりに来ているんだった。
風の強い夜だ。部屋の障子窓が風に揺すぶられて時に激しく、がたがたと鳴っている。音の正体に少しほっとして、藍士は体を起こし、隣の布団で眠っている英の寝息に耳をそばだてる。規則正しいそれは、彼の穏やかな眠りを意味していた。
英の、半分布団に埋もれたその顔を、藍士は今更ながらまじまじとみつめる。整った英の顔は、昼間会った頼という弟の顔と同じ線で描かれていると思った。
英とあの子。全然、雰囲気は違ったけど、やっぱり兄弟だ、似ているな・・・。
澄まし顔の頼を思い出した途端、藍士は羞恥でかっと顔が熱くなった。彼を女の子だと勘違いしたことが今更ながら恥ずかしい。
あの時の、頼を取り巻く空気は凛と鋭く、あくまでも冷たかった。女の子特有の甘やかな香りや柔らかさは少しもそこには存在していなかったというのに。……しかし、それでも。
藍士は小さく息を吐く。
それでも、男とはどうしても思えなくらいあの子は綺麗で、どこか
中条英に初めて声を掛けられたのは、中学に上がってすぐのことだった。
同じ中学にあの中条家の息子がいるということは知っていた。既に噂になっていたからだ。だけど、それは他人事。関わることなど絶対にないとたかをくくっていた藍士は、英から親しげに声を掛けられた時は心から驚いた。そのことを後に英本人に話すと、英は屈託なく笑って答えた。
『みんな、僕の家のことを化け物の巣窟みたいに思っているからね。次元が違う生き物が突然、声を掛けてきたら、そりゃあ驚くよね』
化け物。
不快な言葉だが、確かにそれに近いイメージを藍士自身、中条の家に持っていた。
N村の名士である中条家は、この町でも有名な存在だった。
町を見下ろす小高い山の、舗装されたなだらかな坂道を登っていくと、緑豊かな農村が現れる。田畑の緑とその間をゆったりと流れる疎水の青が美しい村だ。その見渡す限りのほとんどの土地が中条家の所有であるという。
この村の要は
中条家の人々は、昔から美しい容姿の人が多かったという。そして、神がかり的な不思議な力を持っていたと伝えられている。
美しさとその妖しい力で、彼らは村の人々の心を掴み、陶酔させ、村の土地と水を手に入れ、村を牛耳っていたのだという……。
中条家にまつわる怪談じみた噂話や伝説は、村の出身ではない藍士の身近にも、まるで空気のように当たり前にあった。その空気を吸って育った村やその近隣の町の子供たちは、当然にその噂を信じていた。そのため、中学に上がる時、あの中条の息子が同じ中学の同級生になると知った時にはあまりいい気はしなかった。
N村には小学校はある。町にある小学校の分校としてそれはあった。しかし、中学校以上の学校はないため、村の子供たちは小学校を卒業すると、一番近いこの町の中学校に通うことになる。だらだらとした山の坂道をバスに乗って三十分ほど掛けて通うのだ。
何でここの中学に来るんだよ。
どこかの名門私立中学にでも金にモノを言わせて行けばいいのに。
同じクラスになったりして。
最悪。何かされたらどうしよう。
怖えー。祟られるぞ!
無視だよ、無視。近寄らなきゃいいんだ……。
藍士の周りの同級生たちはそう言って中条の息子の登場を不安がっていた。
中条の家の者は、この世ならざる者と通じ、妖しい力を持っている。だからこそ村を支配できたのだ。中条家の者に逆らうと呪い殺されるぞ。
藍士も勿論、友人たち同様に関わらないようにしようと心に固く誓い、また、まず関わることはないだろうと思っていた。いくら怖い噂のある人物でも、相手は村の名士の息子だ。大きなお屋敷に住む金持ちなのだ。町はずれにあるしがない古本屋の息子など、歯牙にもかけないだろう。
そう、そのはずだった。
それがこのザマだ。
藍士は軽く溜息をつくと、前髪を指先でいじった。
別に英と親しくなったことを後悔しているわけではない。確かに英を友人に選んだ途端、英に批判的だった幼い頃からの友人たちはあっさりと藍士から離れて行った。露骨に裏切り者と罵ってきた者もいた。
裏切り者? 俺がお前たちの何を裏切ったというのだろう?
返ってくる答えはなく、離れていく友人たちの背中をただ見送るしかなかった。
寂しくないか、と聞かれれば確かに寂しくはあった。しかし何よりも彼らとの関係がこんなに脆いものだったという事実が寂しかった。それは英のせいではない。自分自身が築いてきた友人関係がただ貧しかっただけの話だ。
藍士は初めて中条英を見た時のことを思った。
中学に入学し、クラス分けされた教室に入った藍士は、その同じ教室に例の中条の息子がいることにすぐ気が付いた。教室がなんとなくざわついているのは、英がここに存在するせいだ。
彼は一番後ろの窓際の席にゆったりと座り、自分に注がれている好奇の視線などまったく気にする素振りもない。軽く頬杖をついて、あくまで透明な視線を、春めく窓の外の風景に投げていた。伏せがちの目や軽く額にかかる柔らかそうな前髪が、彼に独特な空気感を与えていた。
憮然としている男子たちとは対照的に、女子たちは怖がりながらも頬を桜色に染め、中条英のその端正な横顔に何度も憧れの視線を送っている。
「嫌な感じだな、あいつ」
小学校から仲良くしていた友人の一人が嫉妬にくぐもった声で藍士に耳打ちしてきた。それに曖昧に頷くことしか藍士には出来なかった。
英が藍士に声を掛けてきたのは、その日の放課後だった。
友人たちと連れ立って歩きながら校門を出ようとした時、突然、後ろから藍士の肩が叩かれた。振り返った藍士は、そこに中条英の笑顔があることに驚き、一瞬、息が詰まった。その様子に気が付いているのかいないのか、英は陽気に言う。
「
「……そう、だけど」
思わず一歩後ずさりながら、藍士はなんとか応じた。そして、傍らで複雑な表情をしている友人たちを気にしながら言葉を続ける。
「……それが何なの?」
「いい名前だと思って。僕、好きだよ」
「……は?」
唖然としている藍士を残して、英はそれだけ言うとさっさと校門をくぐって行ってしまった。
それからというもの英はことあるごとに藍士に声を掛けるようになった。
最初は他の友人たちの手前、迷惑に思っていた藍士も、次第に英の優しく明るい性格に惹かれていき、気が付くといつも一緒にいる親友になっていた。それでも、英の村、ましてや中条家の屋敷に行くには勇気がいった。これまでも何度か家に遊びに来るように英に誘われてはいた。だが、藍士はその度に怖気づいて何か理由をつけて断っていたのだ。しかし、進級し、二年生になっても同じクラスになってしまうと、毎日至近距離で顔を合わす英に藍士はそのうち、断る理由のネタが尽きてしまった。
夏休みに入る前に、軽く英に、
「うちに泊まりにおいで。もうそろそろ観念しなよ」
とウィンクされたら、笑って頷くしかなかった藍士だった。
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