第5話 懸想する雪だるま
顔ない夜
その夜は、とろりとまるい月が浮かぶ寒い夜でした。
道にはうっすらと雪がつもっています。
月のやわらかな光が雪の上に降りそそぎ、甘い蜜がかかったようにつややかに光ります。
その道をひとりの少年がやってきます。
少年は家路を急いでいるのです。けれど時々、何かを気にするように後ろを振り返ります。
少年の後ろには、雪だるまがいました。まるくてしろい雪だるまに顔はありません。
雪だるまはまるい頭と体で、ぴょこぴょこと跳びはねながら少年を追いかけます。
少年はこわくて仕方ありませんでした。早く家に帰りたくて一生懸命、足を動かし続けます。
そのうち、遠く向こうに明るい家の灯が浮かびました。少年はようやく、ほっとして少しだけ足をゆるめました。
その時、背中に冷たいものを感じました。
雪だるまがとうとう、少年を捕まえてしまったのです。
少年は放して欲しくて雪だるまの名前を呼ぼうとしましたが、いくら考えても名前が浮かびません。
-ああ、そうか。
少年は頷きました。
-君には名前なんて初めからないのだったね。
-ええ、そうですよ。
優しく雪だるまはささやきます。
-だから、君にも名前はないのです。
-ああ、そうか。
少年は頷きます。
-君と僕は同じ名前だものね。だから、名前なんていらないのだったね。
気が付いてしまった少年は何もこわくなくなりました。
少年は雪だるまの何もない顔をみつめました。
-僕が君の顔をつくってあげるよ。
少年はカバンからクレヨンを取り出すと、顔を描こうとしましたが、雪はつめたくかたく、描くことはできませんでした。
かなしくなって泣き出した少年に、雪だるまは言いました。
-いいんだよ。顔なんていらない。だって、ほら、君にだって顔がない。
少年はおどろいて泣くのをやめてしまいました。自分の顔を指でさわってみます。そこには雪だるまと同じ、つめたくかたいものがありました。
-ね、同じでしょう?
雪だるまが言いました。少年はそれに少し、かなしそうに頷くと、そっと雪だるまを抱きしめました。
すると、少年の熱でみるみる雪だるまはとけていきます。
とけてしまった雪だるまは、だけど、とっても幸福そう。
少年はまた歩き始めました。
彼は家路を急いでいるのです。家には少年の家族が彼の帰りを心待ちにしているのですから。
おしまい
「お人よしだね、藍士さんは。山岡堂さんだっけ? その古本屋さんは山瀬さんの様子を見てこれは面倒なことになりそうだと、あなたの名前を出したんだ。まんまと押し付けられちゃって」
頼が膝の上で絵本のページをめくりながら意地悪く言うのを、藍士はうんざりと顔を上げて応じた。
「お前なあ、誰のせいだと思っている? 余計なことをしたのはお前だろ」
「引き受けたのは藍士さんでしょう。僕は親切にお仕事のサポートしてあげただけだよ」
「サポート? どこが」
「涙に弱いんだね。驚いたよ。普通、女の子の涙に弱いものだけど、あなたは男女関係ないんだ」
「その藍士さんっての、やめろ。それでなくとも軽く混乱してイラついているんだから」
ふんと鼻先で笑うと、頼はソファーに深くもたれた。そして、改めて手元の絵本をみつめる。山瀬貴司が見本として自分が祖母から貰った絵本を置いていったのだ。
彼が涙を拭き拭き帰った後で、頼と藍士は二階に戻り、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲みながらこの絵本を鑑賞していたのだった。
「どう思う?」
「何が?」
「この絵本の意味。山瀬さんも言っていたけど、本当に子供の読む絵本にしてはなんだか難解で、その上、不気味だね。絵そのものはパステル調の色使いで可愛いのに。……あ、奥付のところに『貴司へ』って書いてあるよ。達筆だなあ、昔の人って」
藍士は心から厭そうに頼の顔を見た。
「絵本の意味も、文字が達筆だろうが下手だろうが、そんなことどうでもいいだろ」
「つまりさ」
頼はしれっと話しを続ける。
「これって雪だるまが、いたいけな少年に
「阿呆か」
「じゃあ、藍士は何と読む?」
「だから、絵本の意味なんかどうでもいいって」
苛々とソファーから立ち上がると、藍士は空のマグカップを持ってキッチンカウンターの奥に行った。コーヒーを新たに注ぎながら藍士はちらりとソファーに座る頼の姿を盗み見る。相変わらず美しいものだと思う。この世のものとは思えない、という形容は頼のためにあるのだと言い切れるほど、藍士は頼の美しさに心酔していた。まるで内側から光がさしているように見えるその肌の色はまるで月の光だ。ほんのりと桜色に火照る頬などは、触れたいという衝動を抑えるのが大変だった。
『なあ、藍士。月には太陽が必要なんだ。俺が死んだら、頼の傍にいてやってくれないか。あいつはあんなだが、本当は
だったらお前が傍にいてやれよ。何を簡単に若死にしてんだ。
今更ながら、苦く悲しい思いに囚われて、藍士は思わず目を閉じた。
英は知っていたに違いない。自分の死期というやつを。
「危ないよ」
耳元で声がして藍士は、はっとした。そして次の瞬間にはポットを持つ手を掴まれていた。
「あふれるよ。火傷する」
「……あ」
手に持っていたマグカップは既にすりきり一杯までコーヒーが満たされていた。あふれる寸前で、頼がコーヒーを注ぐ藍士の手を掴んで止めていたのだ。
「悪い」
「別にいいけど。目をつぶってコーヒーは注がない方がいいと思うよ」
「そう、だな」
そろそろとポットをコーヒーメーカーに戻すと、藍士は背を向けて行ってしまおうとする頼の肩を思わず掴んでいた。
「頼」
頼は答えない。ただ、じっとそこに佇んでいる。
「俺は怖い」
「……何の話し?」
「お前が消えそうだ」
「消えないよ。人間ひとつが忽然と消えるなんてこと物理的にありえない」
次の瞬間、藍士は頼を後ろから抱きしめていた。思わず頼の身体が仰のけ反るほどの力だったが、頼は何も言わなかった。
「……ごめん」
か細い声で藍士がそうつぶやいて頼の体を離したのは、それから十秒ほど経ってからだった。
「何やってんだろうな、俺は」
「僕を後ろから羽交い絞めにしたんだよ」
「……お前なあ」
「コーヒー、こぼれたね」
言われて初めて、藍士は自分の足元に派手にコーヒーをまき散らして転がっている赤いマグカップに気が付いた。
「あ、悪い。頼、かからなかったか? 大丈夫か」
「平気。それよりあなたの服が汚れたよ。ほら、ズボンの裾」
「いいよ、こんなの。仕事着だ」
ひざまずいて雑巾で床を拭き始める藍士を見下ろしながら、頼は呆れたように言った。
「そのブランド物のスーツが仕事着なわけ?」
「ああ。いい加減な格好で仕事したら、本に失礼だろう」
「なるほどね」
頼はそう言うと、不意にしゃがみ込み転がっている赤いマグカップをつまみ上げた。飲み口が一カ所、欠けている。
「あなたのお気に入りだったのに」
「いいよ。ほら、触るな。手を切ったらどうする」
藍士は頼からカップを奪おうと手を伸ばしたが、頼はしっかりとカップを掴んで離さない。
「何の真似だ?」
「ねえ」
「……何だ」
「このシチュエーション、何か思い出さない?」
一瞬の間の後、苦々しく藍士は言った。
「お前と違って普通の神経を持った人間には、思い出したくない過去の一つや二つ、あるものなんだよ」
「そういう言い方をするってことは、覚えているってことだね」
藍士は黙って、今度こそ頼の手からマグカップをもぎ取った。そして、低い声で言う。
「あの裏庭はまだ、あのままか」
「そうだよ」
頼は床に視線を落としたまま答えた。
「ずっとずっと、あのままさ」
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