第2話 古本屋の三代目 藍士の愛するもの

 ★

「上に行くか」

 藍士はぼんやりと思いに浸っているらしい頼にそう言うと、彼の返事を待たずレジカウンターの奥にある二階へと続く階段を上がり始める。

「藍士、店が無人になるけどいいのか」

「大丈夫。誰かが入って来たらすぐ分かるよ」

「……そうだったな」

 頼はふと後ろを振り返り、北向きの薄暗い店内に整然と並ぶ本棚を見た。不思議なものだと思う。例えば藍士に霊感のようなものはまったくない。それなのに対象が本になると話は違った。

 月下藍士は本の、殊に古本の息遣いや気配、そこに潜む想いなどが直観的に分かるらしい。それ故、例え店を無人にしていても、誰かが店に入ってくれば本たちが騒いで教えてくれる、というのだ。

『騒ぎ方は人によって違うんだよ。例えば、本を本当に好きな人が入って来たら、本たちもその愛情が分かるらしくて歓迎するような温かい感じで騒ぐ。でも、ただ本を金に換える手段くらいにしか思っていない人やろくに読まないでただ初版本や希少本などを買い漁るコレクターなんて人が来ると本たちの反応は冷たいんだ。どちらにせよ、そのざわめきはどこにいても俺に伝わるから、客が来ればすぐに分かるよ』

 その話しを初めて聞いた時、頼は妙に納得したものだった。確かに本たちは騒ぐ。いや、囁く、と言った方が正しいかもしれない。

 頼や藍士以上に長くこの世を生きて、幾人、いや幾百、幾千もの人の手の中を渡り歩いてきたであろう古本たちは、一瞬にして来店した客の人為ひととなりを見抜いてしまう力があるのだろう。

「頼、おいで。コーヒーを淹れよう」

 二階から藍士の声がする。

 頼は黙って狭い階段を昇り始める。上がり切ると突然目の前が広く開けた。二階は一目ですべてが見渡せるワンフロアになっているのだ。一階の薄暗い店舗とは違い、一面の窓から北向きながらも柔らかな日の光が差し込んで部屋はほの明るく、居心地がいい。

 藍士がここで家族と暮らしていた頃は何部屋かに壁で仕切られていたが、家族を亡くした今はそれらの仕切りをすべて取り除き、広々としたワンフロアに改装していた。今ここに住んでいるのは藍士ひとりきりだ。

 元来本好きの藍士らしく、壁際には天井に届くほどの大きな本棚が設えてある。

その本棚はクローゼットを改装したもので、重厚な木製の扉が日差しから本を守ってくれていた。窓際には可愛らしい花が咲いている鉢植えや明るい緑の葉の観葉植物などがきれいに並べられ、その色彩を誇っていた。

 奥のスペースは藍士の寝室として使われているらしくベッドが置かれ、その向かい側にはウォークインクローゼットよろしくポールに整然と吊るされた、たくさんの衣装が見える。どれも趣味のいい、高価そうなものばかりだ。

 相変わらず、本と植物と服を愛する男のようだな。

 軽く微笑むと、頼は勝手知ったる他人の家で勧められる前にリビングのソファーに身を落ち着けた。そしてキッチンカウンターの奥でコーヒーの用意をしている藍士の姿をぼんやりとみつめる。

 頼の記憶にある藍士はいつも明るく、たくさんの人に囲まれていた。優しい心と言葉で人に接する彼は、まるで太陽のように温かく、それ故、人に愛されていたのだ。

『名前が月下のくせに、あいつはまるで太陽だ』

 そう言って笑ったのは英だった。

『頼、お前は月だから、太陽がいるだろう。月をほの明るく照らしてくれる太陽が、さ……』

「お待たせ」

 相変わらず笑顔のまま、盆にマグカップを二つ載せて藍士がやってきた。水色のマグカップを慣れた手つきで頼の前に置くと、赤いマグカップは大切そうに自分の手に持つ。

「今、モカしかなくてね」

「何でもいいよ」

「お前はいつもそうだな」

「何が?」

「ものに執着しないだろ。人間なら誰でも少しぐらいの欲はあるものなのにさ。美味しいものを食べたいとか、おしゃれをしたいとか」

「美しい花を愛でたいとか?」

 頼は少々皮肉っぽくそう言うと、コーヒーの香りを深く吸い込んだ。甘い芳香が頼を満たす。

「……ふうん。いつも僕が飲んでいるコーヒーとは確かに違うね」

「ばーか。インスタントと一緒にするなよ。お前も少しはこだわれよ。コーヒーひとつにしてもさ」

「そのうちね」

 素っ気無い頼の言葉を仕方なさそうに笑って、藍士は改めて言った。

「それで、何があったんだ?」

「何がって?」

「とぼけんな。そんな顔して人の店に来ておいて何言ってる」

「そんな顔」

 抑揚のない声で藍士の言葉を反芻すると、頼はほんのりと笑った。その笑顔に藍士は今更ながらぎくりとする。

「つまり、お見通しだって言いたいわけ? 相変わらずの保護者気取りだね」

「……なあ、頼。お前は二十歳になったよな」

「うん」

「もう子供じゃないんだ。そんなひねくれた態度はやめろ。英が……亡くなってもう三ヶ月経つんだぞ。英はずっと、お前のこと心配していた。一人にしておけないって」

「そうかなあ。あの人は子供の頃から僕のことなんて見ていなかったと思うよ。勝手に病気になって衰弱して、きれいなお嫁さんと生まれてまだやっと一年の子供を遺してあっさり死んでいった。死んだあの人はいいだろう。けど、遺されたものはみんな悲劇だよ。僕はやっと家を出られたっていうのに、総領息子を亡くした父に家を継ぐように宣告されるし、お嫁さんの芙蓉ふようさんは子供を連れて村を出て行くらしいし」

「え? 芙蓉さん、出ていくのか? 赤ちゃん抱えて一人でどうするんだよ?」

「芙蓉さんのお母さんが来て、こんな家には置いておけないから連れて帰るって言ったらしい。彼女と子供は実家で暮らすんだろう」

「なんだ、それ。芙蓉さんはそれでいいのか? 何より無礼だろ。中条の家は村の名士だ。こんな家ってことはないだろうに」

「あんな古ぼけた村の名士であることが何かの足しになるのかな」

「お前さあ、もっと自分の生まれ育った村と家に愛情を持てよ。あんまり家にも帰ってないんだろ」

「兄さんの葬儀には行ったよ」

「……当たり前だろ。そんなに薄情で、それでどうやって家を継ぐんだ? 大学進学を機に家を出て、町に下宿するようになったのは、まあ、いい。だけど、お前、大学と下宿を往復するだけの生活なんだろ。家にも寄り付かず家族をないがしろにして、その上、友達もいない。若いのにそんな生活でいいのか? ……いや、そんなことよりこれからのことだ。考えているのか、頼? いつまでもセンチメンタルに浸っている場合じゃないぞ」

 頼はどうでもいいというように顔を背けると、コーヒーを一口、啜った。口の中の苦みが引くと甘みが広がる。

「酸味もある。おいしい」

「頼、聞いてる?」

「聞いてない」

「おーい」

「僕はまだ大学生だよ」

 切り込むように頼は言う。

「そんな先のことまで考えたくない」

「……分かっているさ。でも、お前の立場だと卒業した後のことも念頭において行動しないと……英はいないんだ」

「何だ」

 頼はにっと笑う。

「あなたの方がよほどセントメンタルじゃないか」

「おいおい」

「何で継いだの」

「え? 何?」

「古本屋」

「お前、話しとぶなあ。……まあ、いい。簡単に言うと、そこに古本屋があったから」

「はい?」

 冷たい目ではすから見られて、慌てて藍士は言葉を足した。

「生まれた時からずっと本に囲まれていたんだ。じいちゃんと親父に幼い頃から古本の話しを聞かされて育った。確かに親父には、無理して跡を継ぐ必要はないと言われたけど、今更だよ。既に本の世界に浸かってしまっている俺に他に何をしろと言うんだ? 他の仕事なんて考えられなかった。それにこの町で古本屋をやっていれば」

 そこで藍士は、はっと口を閉じた。その様子を意地悪く見て、頼が後を継ぎ足す。

「この町で古本屋をやっていれば、町の大学に通う僕を監視できる、ってとこ?」

「監視って言うな!」

「それは失礼。だけど、外れてはいないでしょう? ここは僕の実家のあるN村から一番近い町だし、何なら僕を村にいつでも連れ戻せる。便利だよね?」

「お前の実家とそんな約束はしてない。なんだ、その連れ戻せるとか、監視とか」

 機嫌を損ねてぷいとそっぽを向いてしまった藍士のハンサムな横顔を見ながら、頼は楽しそうに笑う。

 月下藍士は兄の友人でありながら、何かと頼の近くにいた。彼は地元の高校を卒業した後は、大学には進学せず、彼の父親が経営する古本屋『古書・月下美人』に就職した。二年前に父親が亡くなってからは店の跡を継ぎ、古本屋の三代目店主として、町はずれの店舗兼倉庫兼住居のレトロな二階建ての小さなビルで一人暮らしをしているのだった。

「ねえ、藍士」

「……何だ?」

 また何か変なことを言うのではと警戒している目で藍士が頼を見る。それに気が付かない振りで頼は言葉を続けた。

「あなたがかつて兄さんに何を言われたのかは詮索しない。けど、そんなもの、保護にして貰って全然、構わない。そんな押し付けられたもの、律儀に守ることないよ」

「……な、何だって?」

「だから」

「あー、もういい。お前、ちょっと黙れ」

 見るからに動揺して、藍士は持っているカップからコーヒーをこぼしそうになる。

「わ。あぶね。あーもう。何だってそんなこと、急に言い出すんだよ。 ・・・おい、黙ってないで何とか言えよ!」

「今、黙れって言ったと思うけど?」

「そういうとこだけ従順だな!」

「いいよ。こんな話し、もうやめよう。あたふたするあなたを見るのも、そろそろ飽きてきたし」

 頼の言葉にうーんと呻いて、藍士はカップをテーブルに置いた。

「このひねくれ者め。……それじゃあ、話しを戻すぞ。頼、何かあってここに来たんだろう? ごまかすのはもういいから話せ」

「何もないよ」

「おい」

「そうじゃなくて、ここに来れば何かあるかと思って来たんだよ」

「はあ?」

 藍士は顔をしかめて頼に何か言いかけたが、その寸前に店からの気配を感じてはっと顔を上げた。

「お客が来たようだね。本が騒いでる」

「……店主の俺より先に気付くなよ」

 呆れ顔で藍士は言った。

「ちょっと待っててくれ。すぐ戻るから」

「ごゆっくり」

 階段を下りていく藍士に手をひらひらさせると、頼は優雅にコーヒーを啜った。

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