顔のない絵本
夏村響
第1話 昼下がりの古本屋
「くだらないと思わないか?」
青年はそう言うと、椅子の上でゆったりと足を組み、向かいの椅子に同じように座る
「肉親の情など」
「冷たいことを言うのだね」
微かに微笑みながら、皮肉に頼は応じる。
「君にも愛してくれる肉親はいるだろうに」
「いるよ」
あっさりと青年は肯定する。そして、少し考えてから言葉を継いだ。
「だからこそ言うんだよ」
「なら聞くけど、君は肉親に情の何がくだらないと思うの?」
「囚われすぎると身の破滅。これ以上くだらないことがあるかい?」
「なるほどね。確かに愛情ほど危険な情はないだろうね。愛に比べれば憎悪など、子供の遊びに思えてくるほどさ。……だけど」
「……だけど?」
「だけど、こうとも言える。それは温かく、とろとろと蜜のように心を満たすもの。それを人は幸福と呼ぶ」
ふと、青年は猫のように目を細めた。
「……君は知っているんだ、その蜜の味を」
「それはどうかな」
微笑む頼をしばらくみつめた後、青年は静かに言った。
「君に頼みがある」
「頼み? 恐ろしい言葉だね」
「何、たいした頼みじゃないさ。……聞いてくれるかな?」
「……そうだね。君はそのためにわざわざここまで来てくれたのだから、無碍に断るわけにもいかないようだ」
「ありがとう」
安堵の息と共に青年は言った。そして、少し身を乗り出すと真摯に頼をみつめる。
「お願いだ。僕をその温かい蜜のところに連れて行って欲しい」
「矛盾しているよ。君はさっき。それを否定していたのに」
「分かっている。だけど、僕は帰りたいんだ」
そして、請うように片手を差し出した。
★
昼下がりのがらんとした店内で、レジカウンターの奥、古い籐の椅子にひとり座る
涼やかな風が舞い込んだようなこの感じは……。
店内に入ってきた中条頼のすらりとした姿にしばらく見惚れた後、藍士は柔らかく言った。
「……頼、久しぶりじゃないか。どうしたんだ、まさか本を買いに来たわけじゃないだろう?」
声を掛けられた頼は藍士の方を振り向くこともなく、棚に並ぶ本の背表紙に視線を這わせながら言った。
「僕が欲しいと思う本はここにはないよ」
「辛辣だな」
藍士は苦笑しながら椅子から降りると、頼の背後に回った。
「もう少し、可愛いことは言えないのか?」
「言えない」
頼は背後に立つ友人の、みぞおちあたりを軽く突くと冷たく言う。
「離れてくれる? 暑苦しいから」
「お前、本当に可愛くないな」
藍士は溜息交じりにそう言ったが、言われた通り、おとなしく頼から離れた。そこで一呼吸おいてようやく頼は藍士を振り返る。
「……相変わらず、だね」
「相変わらず? 何が?」
「笑うと口元がアヒルになるところ」
藍士が困ったように口元に手をやる。
「そうか?」
「そのアヒルの笑顔、子供の頃から変わらない」
少し受け口気味の藍士は、笑うと唇が付き出るように上に上がり、まるでアヒルのくちばしの様になる。幼く見えるが、同時に魅力的でもあるその笑顔は密かに頼のお気に入りだった。
「アヒルの笑顔って……。お前な、年下のくせにいつも俺のこと馬鹿にして」
ついと顔を背ける藍士を、頼はただ笑ってみつめていた。
月下藍士は頼の六歳年上の兄・
藍士は明るい茶色の髪に、愛嬌のある整った顔立ちをしていた。常にブランドスーツに身を包んだその姿は、古本屋の主人というよりは高級なホテルのコンシェルジュか、どこかの大富豪につかえる執事といった風情だ。
「拗ねないでよ、藍士」
「誰が。用がないなら帰ってくれ。忙しいんだ」
「どこが?」
頼はわざとらしく人の気配のない店内を見回す。
「僕には暇そうに見えるけど」
「……うるさいな。仕方ないだろう。うちは老舗でも何でもないんだから」
「そうなのか、三代目」
茶化すように頼が言うと、藍士は困ったような表情になった。
「三代目なんて名ばかりだよ。そもそも一代目のじいちゃん自身が素人だったんだから。……じいちゃんもなんでまた、古本屋なんか始めようと思ったんだか。いくら本が好きだからって無謀だよな」
「血、じゃない」
「血?」
「うん。あなたにしても継がなくてもいいと言われていたのにこの店を継いだわけでしょ。本好きの呪われた血が代々受け継がれ、無謀な古本屋稼業を続けているんだよ」
「俺は何に呪われているんだよ?」
藍士は無意識に短い茶髪を指でいじり出す。困った時の彼の癖だ。頼はそれをぼんやりみつめながら、藍士と初めて出会った時のことを思い出していた。
確かあの時も、この男は困ったような顔をして髪をいじっていたっけな。
「……あの時、僕はまだ小学生で、あなたは中学生だった」
頼の唐突なその言葉を、藍士は聞き返すこともなく、自然と受け入れ頷いた。
「そうだったな。まだ八歳の癖に、あの頃から頼は生意気だった」
「あなたはあの頃から、そんな風に笑ってばかりだった」
「そうだっけ? ……初めて英の・・・お前たちの家に泊まりに行ったんだったな」
「そう。僕に何の断りもなくね。あなたは突然、現れたんだよ」
僕の、僕たちの世界に割り込むように、ね。
頼は口元だけで笑うと、遠い昔を思った。
★
夏休みに入ったばかりのある日の昼下がり。
図書館から帰ってきた小学生の頼は、縁側から知らない人の声が聞こえてくるのに気が付いた。あまりに明るい笑い声に、少し躊躇しながらも庭づたいに回り、声のする方を覗いてみた。そこには縁側で兄、英の隣に腰を掛けてスイカを食べている見知らぬ少年の姿があった。
彼はよく笑う人だった。
英が何事か話しかけると、そのたびに言葉を返し、ころころと笑う。少し受け口気味の唇がそのたびにつんと上を向いて、アヒルのくちばしの様な形になる。屈託のない彼の様子に、頼は思わず目を細めた。眩しいな、と思ったのは斜めに差し込み始めた太陽の光のせいだろうか。
「あ、頼」
英が頼に気が付いて、おいでと手招く。
「友達を紹介するよ。彼は月下藍士くん。町の外れにある古本屋の息子だよ。今夜、ここに泊まるから」
「……泊まる?」
頼は不思議な言葉を聞いたように首を傾げた。そして、慌てて立ち上がる月下藍士なる見知らぬ少年を目の端に引掛けながらも何も言わず、くるりと背中を向けて玄関に向かった。
「あ、ちょっと」
ぱたぱたと追いかけてくる足音に、頼は玄関の引き戸の前で立ち止まる。
「あの、急に……ごめん。えっと、怒っているのかな? そうだよね、いきなり知らない男が泊りに来るなんて嫌だよね? あ、あのさ、英がいいって言うから来たんだけど、でも、君が嫌なら帰るよ。泊まるの止めるから」
しばらくの間の後、頼は誠実な声に仕方なさそうに振り返って彼を見た。目が合うと、途端に少年は赤面して目を逸らす。そして、どうしたらいいのか分からないというように、もたもたとその短い髪を指先でいじり始めた。
その様子に、頼はやれやれと小さく息をつく。それは多少の違いこそあれ、頼を目の前にした人たちが彼の美貌に対して示すおなじみの反応だったからだ。
頼は溜息まじりに言った。
「……家族の了解はあるわけ?」
「え? 家族って?」
「うちとあなたの」
「あ、うん。それは勿論。でも、君が嫌なら……」
「それなら問題ないね」
頼は面倒だと言わんばかりに藍士の言葉を遮ると言った。
「泊まっていけばいいよ」
「だけど、君は……嫌なんじゃないの?」
藍士の言葉を頼はふんと鼻で笑う。
「そんなことは気にしなくていいよ。でも……ひとつだけ忠告はしておく」
「忠告?」
藍士はぽかんとする。
「……ええっと、ただ友達の家に泊まるだけなのに、忠告?」
「この家が変だってこと、知っているでしょう?」
「変って……」
口ごもっていると、頼がどうでもよさそうに言った。
「今更とぼけなくていいよ。うちの噂のひとつやふたつ、知っているでしょう」
藍士は言葉が出てこない。とぼけるつもりはないが、中条家の一員である頼を目の前にして、肯定することもできない。確かに中条家と多少なりとも関わりがある者なら彼らの怖い噂を知らない、というのは白々しい。
……中条家の人間はみんなおかしな力を持っている。下手に関わると祟られる……。
藍士はぐっと息を呑む。子供の頃から周囲の大人たちから当たり前のように聞かされてきた有名な噂だ。
祟られる、なんていうのは言い過ぎ。そう否定しながらも、心のどこかで信じる自分もいる。確かに今日、中条家に泊まりに来るのにはそれなりの勇気が必要だった。それでも、来たのはやはり中条英が友達だと思うから、英が好きだからだ。
藍士はきっと顔を上げ、毅然と首を横に振った。
「そんな噂、どうでもいいよ」
「どうでもいいっていうのはどういう意味?」
「だから、どうでもいいってこと。嘘でも本当でも」
「そう? 意外に勇敢なんだね」
にっと笑って頼は続けた。
「だけど本当はここに来たくなかった、英に誘われて断りきれなくて仕方なく、なんて思っているんじゃないの? 今が逃げ出すチャンスだよ」
「思ってない」
藍士は近くにいる英の存在を気にしながら声を潜めて言った。
「それは噂はいろいろ聞いているから、抵抗があったのは認めるけど」
「素直だね」
「だけど、英は俺の友達だから」
「友達」
ふっとほどけるように頼が笑った。
「久々に聞く言葉だ」
「え? どういう意味?」
「まあ、いいよ。とにかく、忠告を聞いて」
「……あ、そうか。分かったよ。で、何なの?」
「簡単なことさ。ここに泊まるなら裏庭には近づかないこと。特に夜はね」
「裏庭?」
「そう。竹の低い柵があるから、それより奥には入らないで。危ないから」
「危ないって何が? 危ないものが何かあるの?」
「あるよ。危ないと言うよりとっても怖いものがある」
「怖いものって……?」
「そんなに怯えた顔をしないでくれる? さっきは勇敢だと思ったのにさ、がっかりだよ」
強張った顔で硬直している藍士に、意地悪く笑って頼は言う。
「大丈夫。裏庭に近づかなければ何も起こらないよ。ちゃんと明日は自分の家に帰れる。じゃあね」
頼は軽く手を上げると、さっさと家に中に入って行った。取り残され、佇むしかなかった藍士はしばらくそこで呆然としていたが、不意に名前を呼ばれて、はっと我に返った。
「藍士、どうした?」
振り返ると、笑顔の英がいた。
「こんなところでぼうっとして」
「……何でもないよ。そ、それより、お前!」
「何だよ?」
「言っておいてくれないと困るだろ!」
「え? 何のこと?」
「弟が一人いるって言ってたよな。妹もいるならいるって言っとけよ。慌てただろ」
「妹?」
「さっきの……らいちゃんって言ったか、あの子のことだよ。すっごい美少女じゃん。あー、緊張した」
「……あ、あのさ」
英は困ったように頭を掻くと言った。
「あれ、妹じゃないよ。弟な。弟の頼だよ」
「……え」
藍士は文字通り、絶句した。
「大丈夫か、藍士?」
「……さっきの子、男なのか?」
「うん。気に入ったか?」
「ば、ばーか、何言ってんだよ!」
藍士は頬を赤く染めながら喚く。
「そういうことじゃないだろ!」
「何か言われた?」
「え。まあ……」
「ごめんな。あいつ、変わってるから。気にしなくていいよ」
「うーん、変わっていると言えばそうなんだけど……」
「何だよ?」
「なんて言うか……必死に見えた」
「必死?」
「うん。……必死に何かに抗っているような、必死に痛みをこらえているような……上手く言えないけど、そんな、けなげな感じもしたんだよなあ」
「……そうか」
英は静かに目を伏せた。
急に黙り込む英の様子より、藍士は頼のことが気になって、彼が姿を消した玄関の方ばかりを見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます