桜田門外の変

 その日は三月三日の桃の節句というのに明け方からぼたん雪が降っていた。今日は節句の祝いの為、諸大名が総登城することになっており、朝っぱらから物好きな江戸庶民が武鑑を片手に大名行列を見物していた。その中には浪人の姿もあった。真剣な顔で武鑑を見つつ確認をしている。そんな時、

「関様、関鍋乃助様」

 と誰かが浪人を呼んだ。

「だ、誰だ!」

 慌てる鍋乃助と呼ばれた男。

「怪しい者ではございません。水戸様に可愛がって頂いている、商人です」

 男は名乗った。

「そうか。では何の用だ」

 鍋乃助は尋ねた。

「はい、水戸様よりこれをお預かりしました」

 そう言って商人は懐から何か出した。

「これを」

 ずしりと重い。

「これは」

「ピストル、つまり短筒でございます」

「短筒か」

「これで《赤鬼》を成敗しろとのお言葉でございます」

「ありがたや」

 鍋乃助は額に短筒を持ち上げた。

「関様、目立たぬように」

「ああ、失敬」

 鍋乃助は興奮を抑えた。

「ではこれで私は失礼します。ご武運を」

 商人は翻った。

「せめて屋号でもお教え下され」

 鍋乃助が尋ねると、

「黒猫でございます」

 と言って商人は去った。しばらくして、鍋乃助は、

「森七八郎」

と仲間を呼び、

「これをお主に託す。駕籠状を装い行列の先頭に斬り込み、短筒を撃て。それを合図に我らが斬り込む」

 と命じた。

「はっ」

 森は短筒を押し抱き、持ち場に戻った。


 登城の太鼓が鳴って半刻、彦根の屋敷の門が開いた。供は六十人。皆合羽を着て、刀は布袋が掛かっている。護衛としてはやや甘いが「江戸で大名駕篭を襲った例はない」と井伊掃部頭が強く言い放ち、襲撃の情報にも「ここで怯んではわしのご政道が間違っているといったことになる」と相手にしなかった。

 雪がやみ、日が射して来た。

 やがて、行列が桜田門外に近づくと、

「お願いでございます」

一人の浪人が書状を持って列の先頭に近づく。駕籠状だ。

「ならぬ、ならぬ」

 彦根の武士、日下源ノ丞が制止すると、男は急に日下を上段に斬りつけ、懐の短筒を駕篭に向かってうちつけた。

『バーン』

『バーン』

 弾音は二発鳴った。

 それを合図に浪人たちが行列に襲いかかり斬り合いとなった。しかし不意をつかれた彦根勢は一方的防戦となり、警護を失った井伊の駕篭は滅多差しに逢う。すでに初手の短筒で動けなくなっていた井伊掃部頭直捨の首級は浪士によって討たれた。これを桜田門外の変と言う。


「上様、大変でございます。ご大老、掃部頭様が門外で頸を取られました」

 竹内修理亮が報告する。

「だめだな、修理。掃部頭は病気じゃ。明日亡くなるであろう。今日死んだら譜代の井伊家は改易だ」

「ああ、ご無礼つかまつりました」

「うぬ、しかし黒猫共は今回もよくやった。まさか掃部を打ち抜いた短筒が浪士のものでなく黒猫のものとはなあ……あはは」

「上様、お口が過ぎますぞ。誰もいないと思っていても、どこかに密偵が」

「そうじゃな。掃部のこと、残念である」

 家元は神妙な顔をして舌を出した。


 その日、初代鶴見の文吉と利兵衛は江戸に来ていた。上州の大目玉英五郎親分に挨拶をした後、江戸の大物、神門馬太郎に逢いに来たのだ。馬太郎はやくざではあるが町火消しの『へ組』の頭という側面を持っていて庶民から人気があった。また、大の水戸様、二橋様贔屓で知られていた。そんな家を尋ねると、

「文吉に利兵衛じゃないか。いい日に来たな。一杯やってきなよ」

 甚だ機嫌がいい。

「いい日ったって桃の節句じゃねえか」

 文吉が言うと、

「知らないのか。井伊の《赤鬼》が殺されたんだ」

 馬太郎が答える。

「そいつは大変じゃないか。幕府の大老様だぞ。誰に殺されたんだい」

「大きい声ではいえないが、水戸の脱藩浪士だ」

「じゃあ、裏で?」

「そいつは分からねえな」

 馬太郎は惚けた。

「なんにしろ、水戸様や二橋様をないがしろにした野郎だ。それに天子様に逆らい勝手にメリケンと、なんとか条約は結ぶし、攘夷派の方々を殺すし、やりたい放題だったんだ。死んで悲しむ人はなし、ってんだ。さあ、飲もうぜ」

 酒の好きな、文吉、利兵衛のことだ。一晩中酒盛りは続いた。


 翌日。

「利兵衛、今日はちょっと一人で回りたい所がある。お前は好きにしてくれ」

「親分、まさか女じゃないでしょうね」

「馬鹿、男だよ」

「そうですか、では私は好きな骨董と草紙屋でも回ってましょう。で何刻にどこで逢いやしょう」

「そうだな、昼過ぎに馬太郎のところにしよう。あいつ、機嫌がいいからまた飲ましてくれるかもしれねえ」

「合点」

 二人は別れた。すると文吉はすたすたと歩き、とある大店に入った。

「鶴見の文吉というもんだが、店主はいるかね」

 丁稚の小僧に聞く。

「はい、丁度今日は居ります。鶴見の文吉様ですね。今しばらくお待ち下さい」

 丁寧な対応に文吉は感心した。やがて、

「貸元、ご無沙汰しております」

玉屋玉三郎が現れた。ここは『玉屋総本店』であった。

「言い遅れたが、おれはもう貸元でも博徒でもねえ。凪に二代目を継がせて今はただの、じじいだよ」

「そうだったのですか。近頃、江戸と水戸での商いが忙しくて、恩州まで行けなかったのです。申し訳ございません……ところで今日はどのような」

「うん、菊千代様に逢いたい。取り次ぎを頼む」

「菊千代様ですか……お忙しい身ですので難しいかもしれませんが。話しは通してみましょう」

「ありがてえ。用はそれだけだ。俺は神門の所にいるから知らせをくれ」

 そう言うと文吉は出て行った。


 文吉は神門馬太郎の家に戻って来た。

「どうした、用事は済んだのか」

 馬太郎が言う。

「成否はともかくやることはやった」

「ならよう、今日も一杯いくか」

「いいねえ、鶴見には酒嫌いは居るし、うるせえ凪も居るから気分よく飲めねえ」

 と早速酒盛りが始まった。やがて利兵衛も帰って来て飲んだくれた。

 それを見ていた馬太郎の子分達は、

「いい歳してよく飲むねえ」

とあきれた。

 それから二刻。

「鶴見の文吉様おりますか」

 と玉屋の丁稚が現れた。

「おう、坊主よくきたな。まず一献」

「だめですよ子供に酒は」

 馬太郎の子分に窘められ、

「冗談、冗談」

文吉が笑う。

「主人より、この書状を預かりました。お返事を承ります」

「うむ」

 文吉は真顔に戻り書状を読む。そして、

「あい分かったと告げてくれ」

と言った。

「かしこまりました」

 丁稚は帰って行った。

「おい、馬さん」

 文吉が呼ぶ。

「なんだい?」

「清掃寺って知ってるかい」

「いや、知らねえなあ。ちょっと待て地図持って来る」

 馬太郎は奥の部屋へ行った。

「江戸は馬の糞ほど寺があるからなあ」

 地図を持って来た馬太郎はそれを広げる。三人でそれを見る。

「ああ、ここだ。こっからだと駕篭で半刻だな」

「そうか。利兵衛明日も単独行動だ。明日は未の刻に指定されてるからな。遅くなるかも知れねえ」

 そういう文吉は酒がすっかり醒めていた。


 翌日昼過ぎ、文吉は馬太郎の手配してくれた駕篭に乗って清掃寺に向かった。やはり半刻かかった。山門を抜けるとこの寺が小さいながら目が行き届いている良い寺だと分かった。中心部は大きな池があり鯉が泳いでいる。桜はまだだが紅梅白梅が咲き乱れてその花びらが池に浮かんで情感漂う。

 気がつくと後ろに僧侶がいた。住職だろう。文吉は挨拶をしてお布施を渡した。

「孤雲はつつがないか」

 空耳かと思ったら違った。

「住職は孤雲住職をご存知で」

「ここは華麗宗、苦災寺と同じ。かつて奥州でともに学んだものだ」

「はあ、ではお尋ねしますが。孤雲和尚は本物の人物ですか。見かけ通りの偽物ですか」

「あれは偽物のふりをした本物だ」

「ほう」

「やつはあれで奥手でな。普段おどけているのも、自分の力を知られて、人に頼られるのが嫌なのじゃ」

「ふふ、何となく分かります」

 文吉が笑うと、

「賓客がきたぞ。彼の人は多忙なお方。急がれよ」

「はい」

文吉は本堂に入った。


「文吉、懐かしいぞ」

「菊千代様……あの菊千代様とお呼びしてよろしいですか。それとも……」

「構わぬ。余もあのころが一番楽しく、自由だった。今は籠の鳥よ」

「ご苦労が忍ばれます」

「ありがとう。ところで今日の用はあれか」

「はい、新九郎様のことです」

「奴は見込みがあるか」

「あり過ぎます。あり過ぎて怖いくらいです。もし、菊千代様のお子でなければ、我が娘の婿にしています」

「そうか。それは無理だ」

「やはり、そうですか」

「余には今、他家からの跡取り候補がいるにはいるが、一人は頭でっかち、もう一人は健康に難がある。どちらも余の気に喰わん」

「そうなると新九郎さまを呼び戻すしかないですね」

「そうだ。それはそうと、新九郎はまだその事を知らないのか」

「お約束通り、知らせておりやせん。だからこそ命知らずのふるまいが」

「そうか。命知らずか」

「はい」

「頭の方はどうだ」

「瞬時に物事を決める力はありそうです。出来不出来はわかりません。普段はぼんやりしていますので」

「ぼんやりか。それも良い。よく知らせてくれた。感謝するぞ。済まぬが先がつかえておる。これで失礼する。道中達者でな」

「はい」

 菊千代は消えた。

「ううむ」

 文吉はあぐらをかいた。


 二日後、文吉一行は駿河に向けて江戸を発った。

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