予兆
草刈新九郎と松近健一郎は仇討ちの手打ち以来兄弟の如く映った。黄瀬川多門は利兵衛の代わりに帳簿付けをして重宝され赤坂主膳と青山権五郎は子分達に剣術の稽古をつけている。この主従は根が真面目なのだ。気まぐれな新九郎もこれは見習わなくてはと思った。ただ思っただけだけれど。
「さて」
ある日新九郎が呟いた。
「どうしました」
健一郎が問うと、
「うぬ、面倒だが代官所に行かねばならん」
と憂鬱そうに新九郎が答えた。
「お代官様は弟君。なにを気鬱そうに……お仲が良くないので?」
「いや、仲は良い方だと思う。ただ、奴の置いてったものがな」
「たしか鎧櫃」
「そう、あの中身は家宝の『青龍蒼色縅』。それがしの持って良いものではない」
「なぜそれを弟君は」
「それを糾しに代官所へ行くのだ。そなたも来るか」
「はい、お供します」
そうして新九郎は健一郎を連れ、山猿、忠吉、権太に台車で鎧櫃を持たせ、自分は青に跨がり鶴見を発った。
保土ヶ谷の公介一家に一晩宿を借りた新九郎一行は翌日昼過ぎ、戸塚一家の戸を叩いた。ここでも歓待を受け一晩泊まっていく事にした。
「早く代官所に行けばいいのに」
山猿がぼやくと、
「新九郎殿は、本当は行きたくないのだ」
健一郎が新九郎の心の内を見透かした。
こうして翌日、ようやく六浦代官所に入った。
代官所は、
「《左斬り》が来る!」
と上も下も大騒ぎである。そんな中、代官の小十郎だけが、平然としている。
「《左斬り》が来るのではない。我が兄が来るのだ」
と窘めたところで意味はなし。戸塚と六浦湊の大喧嘩や、数々の武勇伝を聞かされている代官所の人々は鬼かなにかが来るような心持ちであった。
「兄上、お久しゅうございます」
小十郎が頭を下げた。
「うむ、先年の出奔の件では迷惑を掛けた。しかし……」
「何でしょう」
「なぜ、代官職など引き受けた。草刈家は三千石、寄合の家系ぞ」
「申し訳ございません。ただ若年寄を越えて大老井伊掃部頭様直々の命で、断る事は出来ませんでした」
「うぬ、お主を代官にする事で、それがしの動きを封じ込める気であろう。しかし、恩州の和平はお主の機転で成ったな。なかなか良い策だ」
「ありがとうございます」
「しかし、小十郎。我が家の家宝、『青龍蒼色縅』をそれがしの元に置いていくとは家名に泥を塗る行為。本日持参したゆえ引き取られよ」
新九郎は怒っているのだ。しかし、小十郎は、
「ははは、兄上は勘違いしております。『青龍蒼色縅』は家宝ではございません。兄上誕生の折、さる方より、兄上に送られたものとそれがしは聞いております」
と言い放った。
「えっ、それがしは聞いてないぞ」
新九郎は動揺する。
「亡き父上が、それがしには教えてくれました」
「そのさる方とは」
「父上の剣術仲間と聞いております」
「では、持ち帰るしかないな」
「そうですね。ところで甲州の博徒、竹竿の安五郎をご存知ですか」
「いや」
「奴は今まで水運の利権をあらそって駿河の長五郎と戦って来ましたが、それを諦め、相模進出を狙っているらしいのです。相模のやくざは甲州やくざに比べて弱いし纏まりがない。きっと恩州に助けを求めて来ます。さて、どういたしましょう」
「義は相模にある。助けてやるのが筋だろう。今、恩州は纏まっている。全軍でいけば勝てるだろう」
「安五郎には銀ノ助という軍師がおります」
「なに、白馬銀ノ助か。あいつ、信州博徒の振りをして相模、恩恵を探っていたのだな」
「面識があるのですか」
「あいつ、文吉貸元の所にも来たわ。卑怯な手を使ってな。しかし小十郎、やくざの話しに詳しいな」
「はあ、例のさるお方の側用人が関東取締と懇意でいろいろ話しを教えてもらい、それをそれがしに手紙で知らしてくれるのです」
「良き知己を得たな」
「はい」
「では帰るとしよう。今後は代官とやくざの厄介者。なるべく逢わぬがお主の為と心得よ」
「はい」
小十郎は頭を下げた。
「せっかく持って来た鎧櫃、又持って帰るのかよ」
山猿がぼやく。
「しかたあるまい。それがしの物だったんだから」
平然と新九郎が言う。
「新九郎殿、代官と仲直りは出来ましたか」
健一郎が聞く。
「なに元々仲が悪い訳ではない。立場上ぎくしゃくしただけだ」
そう言うと新九郎は青に跨がった。季節は冬の終わり。このひと月後に江戸で大事件が起こるとは今は誰も思わなかった。
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