絶望の大地-1

 翌日、誠は普段起きる一時間前の六時に起きた。よく見ると、ベッドの上でずうずうしくミミが丸まって寝ていた。やけに掛け布団が重かったのはこいつのせいか。

 ミミをだっこしてリビングまで連れて行くと、稲子がテレビのニュース番組を見ていた。誠に気付くと、手を上げて挨拶した。今は天気予報をやっているようだ。つやつやしたビーグル特有の肌触りと毛並みをなでているとミミが「下ろして」といわんばかりに暴れた。下ろすと、全身をバタバタ震わせて稲子のそばに行った。


「まだ起きてこなくてもいいのに」

「寝坊しちまうよ」


 いつもより早く起きると、稲子が放つ第一声はだいたいこんなものだ。「朝ごはんを作るのがめんどくさい」というのを、冗談めかして言った意味であるのはもう既に知っている。

 椅子に座ってもたれかかりながらテレビを見ると、今日は晴れのち曇りのようだ。


「折りたたみ傘持ってったほうがいいかな」

「かもね」


 曇りでも雨が降ると信じているのは、稲子が自他ともに認める「雨女」だからだ。稲子が介護の仕事で休日をもらうと、その日はほとんど雨が降ってしまう。今のところ、季節の変わり目というのも度外視しても彼女が休日で雨が降らなかった日は誠の記憶にない。おかげで「洗濯物が干せない」「出かけられない」なんて昔は怒っていたが、次第に慣れた節を見せており、洗濯物も晴れている日に干して、回収するのは誠に任せている時もある。知恵が回るというか、たくましいというか。


「朝ごはんは目玉焼きとパンでいい?」

「なんでもいいよ」


 誠は食パンをオーブントースターに入れて、タイマーをセットした。その間に、稲子が油を小さなフライパンに敷いて卵を割って入れる。


「誠」

「うん?」

「……少し、顔つき変わった?」

「あん?」


 誠は冷えた日本茶をプラスチックのコップに入れながら眉を潜めた。どういう意味だろう。

 ただ、今の稲子の言葉はなんだか、驚きがこもっていた。


「ううん、なんでもない」

「そうかい」


 昨日の天音良とのデート、否、街の案内は今でもはっきり覚えている。菩薩崎に行ったことや、展望台に上り須賀浜の景色を眺めたこと、オムライスを食べている時に進路について話したことも、堀之内に怪我をさせてしまったこと、そしてそれでもなお彼女が気丈に誠に励ましたことも。

 おぼろげであるが、自分にそっくりな顔をした、あのバイザーを被った少年と、海の水の奔流に覆われたイカらしき謎のバケモノ。

 天音良も目撃していたことから、あれは現実だ。だけど、どう説明すればいいのか言葉が思いつかない。昨日は天音良が優しく対応してくれたことや、友達として付き合ってくれたことで頭がいっぱいだったんで放置していたが、冷静になってみたらとんでもないことだ。涼にこのことを話しても「天音良と映画でも見に行ったのか」と一蹴されるだろう。

――あのガキ、いったいなんなんだ?

パンが焼け、目玉焼きも皿に乗っけて食べる。ミミが朝食を取っている誠を見て近寄ってきた。あっちいけ。

 食パンと目玉焼きを平らげて、制服に着替えた。


「あら、もう行くの?」


 今は七時。いつもならこの時間に起きているだろう。この時間に学校に行けば、たぶん一番乗りだろうか。


「ああ、いってくる」


 ミミの顔を撫でながら、カバンを手に取る。心地よいのか、ミミは全体重を頭に向けて、顔をすりすりさせている。


「いってらっしゃい」


 頷いて、誠は家を出た。

 バスに乗って、通学路を歩く。当たり前だが、この時間にこの道を歩いている学生はいつも見るより少ない。ニ、三人ポツポツ見かける程度だ。

 教室に着いて、しばらく机に頬杖ついてぼーっとしていると、涼が入ってきた。先にいる誠を見て、「おや」と言いたげに目を少し見開くと、


「珍しいねえ。君が先にいるなんて」

「早起きしちまったんだ」


 涼は自分の机にカバンを置くと、誠の席に寄ってきた。


「それで? 昨日はどうだったかな」

「なんだっけか」

「とぼけるなよ、天音良とデー……じゃなかった。彼女に街案内したんだろ。どうだったんだ?」

「あぁ、その話か」


 誠はかいつまんで、天音良にどこを案内させたのかを涼に説明した。ただし、途中で堀之内たちが仕返しにやってきたことや、バイザーをかぶった自分と同じ顔の少年が『カラスター』と呼ぶイカの怪物を呼び出して堀之内とその取り巻きを蹴散らしてしまう箇所をどう話すべきか迷って、口をつぐんでしまった。彼女を巻き込んでしまったことは、反省の意味も兼ねて彼に話すべきとは思っているが、その後の出来事に関しては説明しようがない。

 どうしたものかと考えていると、今度は教室に天音良が入ってきた。すぐに誠と涼の存在に気付いて、「ごきげんよう」と挨拶をした。

 なかなか続きを話さない誠に対して、「天音良に聞いたほうが早い」と涼が判断したのか、誠を連れて彼女のもとへ近付いて、お昼ご飯を食べたあとにどうしたのかを尋ねた。


「そのあとの事ですか? えぇ、あの後、実はおつむがよろしくない面々が誠さんによからぬことをいたしましたの」

「おつむがよろしくない面々? ……誠、お前まさか堀之内の奴らと出くわしたのか」

「まぁ、な」


 誠が歯切れの悪そうに答えると、涼が片手で頭の上に手を置いて髪をつかんだ。よく、涼が「まいったな」と困惑するとすぐやる癖だ。


「運が悪かったな、誠。天音良は大丈夫だったのか?」

「その点に関してはご心配いりませんわ。誠さんが、身体を張ってわたくしを守ってくださいましたもの。いつもの誠さんとはまた違っていて、とっても力強く、勇敢でいらっしゃいましたわ」

「ほぉー、女の子を守るなんてなかなかやるじゃないか、誠」

「いや、俺は何も……」


 すると天音良が紫黒の目を細めてこちらに向けてきた。口元に笑みを浮かべて、人差し指を口に当てている。「おっしゃりたいことはわかります。この場はわたくしがごまかしておきますわ」ということか。


「もちろん、多勢に無勢でしたからその場から誠さんと一緒に逃げました。ですけど、誠さんが必死にしんがりを努めてくださったので、この通り唇を切っただけでなんとか済みましたわ」

「ずいぶん大変な目にあったんだな、誠。いろいろ言いたいことはあるけど、二人とも無事でよかったよ」

「まぁ、な」


 誠は、天音良が堀之内に殴られたこと(とついでにカラスターの件)を隠しつつ誠を立てていることに申し訳なくて、妙に歯切れが悪くなった。事実っちゃあ事実(らしい)なんだけれども。

 ちょうど授業開始のチャイムが鳴って、誠たちは各々の席に戻った。

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