須賀浜に舞い降りた天使-2

 家に帰った誠は、素早く着ているものを洗濯機に放り込んで風呂に入ると、すぐに泥のように眠ってしまった。

 翌日の朝、スマートフォンにあらかじめセットしたアラームが鳴って、誠はゆるゆるとベッドから這い出るように起きた。タイマー通りなら今は七時半だ。

 昨日の喧嘩の疲れが取れないせいか、胸のあたりに重いものがのしかかったような感覚を覚える。「学校行きたくねぇなぁ」なんて思いながら、自室のドアを開けた。


「おはよう」


 起きた誠を出迎えたのは、母の一色稲子いしきいねこである。仕事に持っていくピンクの手提げバッグを見るに、これから介護の仕事に出かけるのだろう。

 「ふが」と誠は返すと、大きめの茶碗を食器棚から取り出して、卵を割ってかけ、そばつゆを掛けた。この卵かけご飯が、彼の朝食である。

 ふと足元を見ると、もう十四歳になる雌のビーグル犬のミミが誠のご飯を物欲しそうにこっちを見ている。更には、誠の腿に頭を乗せてきている。オイ、どうせお前は食ったんだろ、あっち行けよ。


「母さん、今日は日勤なのか?」

「うん。帰ってくるのはちょっと遅くなるかも。それじゃ、行ってくるね」

「あぁ、いってらっしゃい」


 誠が頷くと同時に、稲子はさっさと出かけてしまった。

 誠の家は、誠本人と稲子、そしてミミの二人と一匹の家族である。父の亮二は誠が生まれるより前にガンで他界している。なので、稲子が介護の派遣社員として仕事をしながら女手一人で誠を育てている。

 誠は、幸運だったと卵かけご飯を食べながら思った。昨日が遅番でなければ、母に自分の制服が汚れながら帰ってくる姿を見て大目玉を食らっていただろう。それでまた喧嘩(といっても一年ぶりだが)をしてきたことがバレれば、涼みたいに「なにをされるのか」わかったものじゃない。また学校で問題になるのは面倒だ。

 誠は寝巻きにしているジャージからさっさと須賀浜高校の制服に着替えると、鞄を持って家を出た。ミミはもう誠が餌をくれないのを分かっているのか、体を丸めて寝てしまっている。

 誠と稲子の住む賃貸のマンションから降りると、誠はまっすぐバス停に向かった。誠の通う須賀浜高校は、バスに乗ってだいたい三十分、歩いて十五分で着く。

 バスから降りて、通学路を歩いていると「よう」と後ろから声をかけられた。涼だ。


「昨日は平気だったのか?」


 平気、というのは、要は「親に喧嘩したことがバレなかったのか」という話だろう。


「ああ、遅番で助かった。そっちは?」

「少し遅く帰ってきたことに注意を受けたけど、まぁそのぐらいだな。制服の汚れとか傷も転んで擦りむいたって言ってごまかせた」

「よくごまかせたな……」


 昨日のことを振り返るような会話をしていると、目の前に赤い綺麗な布が落ちていることに誠は気付いた。ずいぶん大きい、ハンカチに使うようなサイズじゃない。むしろ家庭の料理で三角巾とかに使うヤツに近い。触ってみるとツヤツヤしていて日の光に反射している。たぶんコレはシルクで出来ているんじゃないだろうか。

 誠は地面に落ちている赤い布を拾って真正面を見ると、つやのある、長くて黒い髪を揺らした少女が歩いている。学校指定の制服を着ているのを見るに、たぶんこの学校の生徒だろう。ひょっとしたら、と思い誠は話しかけた。


「なぁ、君」

「はい」


 誠に呼ばれて、少女はたっぷり二秒くらいかけて振り返った。少女の顔を見た瞬間、誠は固まってしまった。

 少女の姿に目を奪われたからだ。

 最初に目に付いたのは、彼女のくりくりとしたファンシーな目だ。紫がかった黒い瞳で、白目がぜんぜん無い。まるでミミの瞳みたいだ。その目の上には短い眉毛が、新品の筆のようなきれいな曲線を描いている。日光を照り返すような艶やかな髪はなんて言ったかな、江戸時代とか鎌倉時代の絵に描かれた女性や、日本人形のような髪によく似ている(後で知ったことだが、いわゆる「姫カット」というものに似ているらしい)。ただ、前髪は切り揃えておらず、スペードのマークを思わせるようなカーブを描いており、額の真ん中で緩やかに尖っている。M字に似ている。

 誠がクラスメートや今までテレビも含めて目にしてきた女の子の中には、可愛らしい容姿や美人と称されるような人を何度か目にしてきた。しかし、今目の前にいるこの少女は、この世界の住人じゃないような、文字通りこの世のものとは思えない、なんというか「異質さ」をはらんだ綺麗さを持っている。

 そんな少女の容姿に目を奪われていると、後ろの涼が「おい」と背中を小突いてきた。それでハッと我に返った誠は、「どうかしたのかしら?」とでも言いたげに小首をかしげる少女へ改めて向き合う。


「わたくしに何か御用でも?」

「あ、すまん。これを落としたのは君か?」


 そう言って、誠は赤い布を少女に見せる。すると少女は大きな目を、ちょっとだけ広げて、


「まぁ、この布は間違いなくわたくしのですわ。どうもありがとう」

「そりゃよかった。それじゃ」


 誠は布を渡すと、そのままさっさと立ち去ろうとした。なんというか、同じ年の女の子と話していると毎度毎度気恥ずかしくなってくる。こんな姿を涼にも見ず知らずの少女に見られるのは、カッコ悪すぎる。

 しかし、少女はそんな誠の心情とは裏腹に、「あの」とふたりを呼び止めた。


「失礼存じますが、あなたさまがたは私立須賀浜高校に通う学生の方とお見受けしますわ」

「あ、あぁ……そうだが」

「わたくし、今日から須賀浜高校に通う転校生なのです。まことにぶしつけながら、その学校に至るまでの道をご案内できませんか?」


 転校生だと!? 誠と涼は驚いて顔を合わせた。まさか通学路でこれから自分のクラスにやって来る転校生と出会うなんて、こんな体験、一生に一度あるかないかだ。

 それにしてもひどくバカ丁寧な話し方をする子だ。お嬢様みたいな言葉を話す子が今時いるもんなのか。


「そうか、君が僕らのクラスに転校してくる新しい生徒だったんだね。僕は羽上涼、さっきハンカチを拾ってくれたこの人は一色誠だ。僕らでよければ案内するよ」

「まぁ、ありがとう存じます」


 少女は微笑みを浮かべ、きっかり斜め四十五度ほど頭と腰を下げて礼をした。


「わたくしは柴咲しばさき天音良あねらと申します。どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそ」


 涼と少女――天音良が握手を交わし、今度は誠とも握手を交わす。誠は握手こそするものの気恥ずかしさで、天音良の顔をまともに見ることができなかった。

 三人は通学路を歩きながら言葉を交わした。といっても、だいたい質問するのは涼だ。こういう時の涼の積極性や情報収集能力はとてもすごい。誠も、涼のそういう部分が羨ましく思っている。


「君は、どうしてこの須賀浜に来たんだい?」

「わたくしは今まで東北のさる高校に通っていたのですが、お父様の仕事の都合で家族と一緒に転勤してきましたの。その際、お父様がここの出身らしくて、「のびのびと勉強してきなさい」とここの学校を勧めましたの」

「なるほどね。君はこの須賀浜に来てどのくらいなんだ?」


 うーん、と小さな顎に手を当てて天音良が考える。


「そうですわねぇ、二日程ですわ。自宅の周りを少しお散歩してみましたけど、静かな場所で、遠くに見える海が青と緑のコントラストが映えてとっても美しかったのが印象に残ってますわ」

「それはよかったよ。海が須賀浜のたった一つの取り柄みたいなものだしね」


 夏になれば、海開きになって海の家とか施設がないにも関わらず多くの観光客や地元の人たちが海水浴場の「ららた浜」にやってくる。それだけでなく、須賀浜は海産物に関しては水産業の界隈では有名で、特に須賀浜の海に住むイカや魚は高級店でも扱われているのを誠は思い出した。

 ふと、誠は真横からなにか視線を感じることに気がついた。目だけ動かして視線の正体を探ると、天音良が好奇心をまるだしでこっちを見ていた。


「あの、誠さん。どうかなさったのですか? さっきからずっとお口を閉ざしたまま俯いていますけれども」


 しまった。変に彼女から目を逸らしていたから怪しく思われているのかもしれない。誠は咄嗟に頭に浮かんだ言い訳を口にした。


「あ、いや……単純に涼が聞きたいことを聞いてくれたから、俺の出る幕がないんで、黙ってえーっと、聞き入ってたんだ。そう、そんな感じ。涼はしゃべるのが上手いんだ」

「そうですの。涼さんは口巧者な方ですのね」


 なんだか変な日本語になってしまったが、とりあえず意図は通じたようだ。しかしふと天音良を挟んで隣にいる涼が底意地の悪い笑みを一瞬見せた。なんのつもりだ。

 涼は普段の大人しそうな顔つきに戻ると、


「いや、実は誠はね、女の子を見ると、恥ずかしく――」

「おおっと! 学校が見えたぞ! さぁ到着したぞ涼くん! 転校生!」


 涼が次に何を言うのかわかった瞬間、すぐに大声で会話を遮って、学校を指さした。これには涼も天音良もびっくりしたようだ。


「えっと、さっきから見えていましたけど……」

「それじゃー俺と涼はこれで。また後で教室で会おう! じゃあな!」

「お、おい誠!」


 無理矢理にでも涼の制服の襟首を引っ張って校門をくぐる。天音良がポカンとこっちを見ているが知ったこっちゃない。変な噂を流されるよりはマシだ。誠たちのクラスがある校舎に入って、革靴と上履きを履き替える下駄箱のところで、涼を解放した。


「誠、いきなりなにをするんだ。びっくりするじゃないか」


無論、涼が抗議してくるが誠はそれ以上に恥ずかしさと険しさを合わせた表情で詰め寄る。


「そりゃこっちのセリフだバカヤロー! お前、俺の秘密を軽々しく喋ってんじゃねーよ」

「あんなん秘密でもなんでもないだろ! 客観的に見れば誰だってわかるだろ」

「それでも口に出されるよりましだ。ちったぁ俺の気持ちも察しろ!」

「ぬ……あーあ、悪かったよ」


 どうにも納得いかないというふうな表情を浮かべながら、なんとなく涼が謝った。口にこそ出さなかったが、「分かりゃいいんだよ」と誠の中で呟いた。心なしか、涼の誠を見る目が、なんか面白がっている視線を送っているのは気のせいだろうか。

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