第3話




     ③



 出発ゲート上の電光掲示板は、十九時三十分発のANA271便、福岡行きは、もう搭乗が開始されている事を示していた。

機内は思ったより空いていた。

席は二人掛けの窓際で、通路側の席にはすでに初老の先客がおり、修一は右手で手刀を切るように挨拶をし、男の前を横切り、席に座った。

空腹だった。

売店で買った缶ビールとサンドイッチを取り出し、ビールのプルトップを引き、サンドイッチをひとつつまみ、口に放り込んだ。

披露宴会場のテーブルの上には、フレンチと和食の折衷料理が並べられていたが、箸を付ける気が起きず、やけに苦く感じるビールばかりを呑んでいた。

 滑走路の延長線上に、オレンジ色の太陽が、今まさに沈もうとしている。窓の向こう、前方に主翼が見える。沈み行く夕陽に、カーボンファイバーの銀色の機体が、キラキラと眩しく光っている。

 機長のアナウンスの後、271便は定刻通りに離陸し、やがて上昇していた機体がフッと軽くなり、水平飛行になったことが分かる。

ほどなく、シートベルト着用のサインが消えた。

 組んだ足の腿に右手肘を乗せ、頬杖を付き、修一は窓に視線を移した。

 赤く染まった雲海が眼下に広がり、その隙間から、たった今、離陸してきたばかりの、煌びやかに輝き始めた東京の夜景が目に飛び込んでくる。

 窓ガラスに修一の横顔が映る。

 「なんて、情けない顔をしてんだよ……」と修一が呟く。

窓硝子の修一が、「自分自身が蒔いた種だろう?」と言い返した。

 数時間前の披露宴での出来事を思い、「それにしても……」と修一は思った。


 修一が、親族控室へと向かう廊下を歩いていると、「内村じゃないか」と、軽く背中を叩かれた。

 振り向くと、見覚えのある男が立っていた。

「あっ、鶴田さん、御無沙汰しています」

仁美の母方の従妹、多恵の夫、鶴田茂だった。

「この度は、おめでとう御座います」

 鶴田は膝を折り、祝いの挨拶を伝えた。

「有難う御座います……今日は、多恵さんは?」

「いえね、娘の小夜子が出産間近なものですから。それで、僕が……ま、新郎側に負けないようにと、新婦側の人集めに駆り出された……あっ、これは余計なことを……」

 そう言って、鶴田は大袈裟に頭を下げて見せた後、ニヤリと、その人懐っこい笑みを浮かべた。

「それはそれは、御苦労様です」

 修一も、鶴田に倣い、大袈裟に頭を下げて見せ、同様にニヤリと笑みを浮かべた後、「お元気でしたか?」と右手を差し出した。鶴田も右手を差し出した。そして、お互いに強く手を握り合った。

 鶴田が今も暮らす羽村市は、修一と仁美が暮らした五日市町に程近く、また、鶴田が三歳年上と年も近いこともあり、何故か、従姉妹同士の仁美と多恵以上に二人は馬が合い、どちらから誘う訳でもなく、立川や拝島の居酒屋で待ち合わせては、何度もグラスを交わした仲だった。

 鶴田は修一の肩を押し、廊下の壁まで移動し、周囲を見回した後、修一の肩を抱きかかえ、「多恵から聞いたんだけど、女医さんと再婚したんだって?」と言った。

「眼科医です。恵理子と言います。籍を入れて、かれこれ十年になりますかね」

「内村、九州に行ったばかりの頃は、ろくな仕事もなく、道路工事の旗振り警備員をしていたんだろ?」

「お医者さんが、何故、選りに選って、旗振りなんかと結婚したんだ? と、鶴田さんは言いたいんでしょう?」

「まぁ……そうだな……あっ、気を悪くしたなら謝る。職業に貴賤なしだものな」

「いえ、気にしてません。誰だって、そう思いますよ。何より、俺本人がそう思ってるんですから」

 壁に背中を預けて立つ鶴田が、礼服の胸ポケットかラークを取り出し、一本咥え、修一にも勧めた。修一は、鶴田の手からラークの箱を受け取り、遠慮なく中から一本取り出した。そして、廊下の角に置いてある長方形の吸殻入れを両手で抱えて来て、鶴田の前に置いた。

「佐賀に移り暮らして、半年後のことでした。角膜潰瘍と言う目の病気になりましてね」

「角膜潰瘍?」

「ええ。診察してくれたのが恵理子でした。

だから、出会いは主治医と患者の関係です。そんな時、行きつけの喫茶店のカウンターで、偶然、恵理子と隣り同士になったんです。俺はすぐに気が付き、挨拶をしたのですが、恵理子の方は、俺のことなんか覚えちゃいません。そりゃ、そうですよね。毎日、沢山の患者を診察しているんです。一患者に過ぎない俺の顔なんて、いちいち、覚えていられませんものね。眼科医が見ているのは、患者の顔ではなく眼球だけだと、後になって、恵理子が笑いながら話してくれました」

 修一がそう言って笑った。

鶴田は、二、三度首を左右に振った後、人差し指と中指に挟んだラークを深く吸い、宙に向かって、ゆっくりと煙を吐き出し、「そりゃ、そうだな」と失笑した。

「喫茶店は、美味しい珈琲を出すと評判の店でしてね。カウンターを挟んで、俺はマスターと珈琲談義に花を咲かせていたんです」

「そう言えば内村は、上京して来たばかりの頃、新宿の珈琲専門店でバイトをした経験があると話したことがあったね」

 鶴田が言葉を挿んだ。

「偶然、恵理子も大の珈琲好きで、また、その店の常連だったらしく、俺とマスターの珈琲談義に加わって来たんです。きっかけは珈琲でしたが、やがて、色んな話に話が弾みました。役者を目指して上京したこと、ギターの弾き語りを始めたこと、結婚して、娘が二人産まれたが、人に騙されて借金を背負わされ、二年近く家族バラバラになったこととか……恵理子は、興味深げに耳を傾けていましたね。互いのメールアドレスを交換しました。それからしばらくはメールを通して、本当に色んなことを話しました。二人とも、映画鑑賞が趣味なのが共通点で、映画の話では盛り上がりましたね。ダスティン・ホフマン主演の《卒業》は好きな映画だったけど、ヒロインの母のミセス・ロビンソンが、娘の恋人を何故、誘惑したのか? 未だに、気持ちが理解出来ないと俺が言うと、恵理子が、それを言うなら、《鎌田行進曲》よ。平田満演じる大部屋俳優のヤスが、友情とは言え、何故、あんな危険な階段落ちをしたのか? 私にはヤスの気持ちが理解出来ない……だとか、他愛無いことですが、お互いに夢中になって語り合いましたね」

「鎌田行進曲の階段落ちは、銀ちゃんに対するヤスの友情なんかではなく、活動屋と呼ばれた、あの頃の映画人の、映画に賭ける夢じゃないのか」

「そうですよね、男なら、誰でもそう思いますよね。ですが、《鎌田行進曲》は仁美と新宿の映画館で観たのですが、観終った後、あの時、仁美も恵理子と同じ疑問を口にしたんですよね。不思議ですよね、」

「へえ。それは面白い。同じ人間なのに、同じ映画を見ても、男と女では、受け取り方がまるっきり違うんだね」

「男と女は、同じ人間だと思うから理解が出来ないのでしょうかね……」

「男と女は、犬と猿ほども違う。理解出来ると思うからおかしなことになる、と言うことだろうね」

 そう言って、鶴田が苦笑いを浮かべ、吐息と一緒に煙を吐き出した。

「恵理子も、自分のことを色々話してくれました。インターン時代に同僚の医師と結婚したが、互いに忙しく、すれ違いが原因で離婚したこととか……」

「考えてみたら、お医者さんなんて、医者の世界のことしか知らない。それに比べ、内村は、様々な人生経験をしてきた。道路工事の旗振りとお医者さんなんて、あり得ない関係だげど、恵理子さんにとっては、内村のようなタイプの人間は初めてで、魅力的だったのかも知れないね」

 鶴田は、短くなったラークを灰皿に押しつけ、腕時計に視線を落とし、「おっ、こんな時間だ。そろそろ控室に入るか」と、修一の肩に手を置いた。

親族控室には新郎側と新婦側、それぞれ縦二列に長テーブルとパイプ椅子が置かれていたが、椅子に座っている人はおらず、新郎側は新郎側、新婦側は新婦側で、部屋の隅に一塊に集まり、挨拶や昔話に花を咲かせていた。

「お義姉さん、御無沙汰しています」

修一の言葉に、清美は一瞬驚いた表情を浮かべた後、すぐに笑顔を繕い、「修一さん、御無沙汰よね。何年振りかしら?」と付け加えた。

「福岡で暮らしてるんだって?」

清美の夫の吉田が会話に加わってきた。

吉田の声に、「修一君じゃないか!」と、部屋の隅で、知人と談笑していた正雄が振り返り、修一に声を掛けて来た。仁美は三人兄妹の末っ子で、正雄が長男、清美が長女である。離婚してからは勿論のこと、修一が仁美の親族たちと顔を合わせるのは、義父の葬儀以来、十数年振りである。

出席を決めた時から覚悟はしていた。しかし、出来ることなら顔を合わせたくなかった、と言うのが正直な気持ちだった。

「大きな家を建てられたんだってね?」

「とんでもありません、猫の額ほどの、ちっぽけな家です」

吉田の問いに、作り笑いを浮かべながら、修一は答えた。

離婚の経緯を、仁美がどんな風に話しているのかは知らない。

予想していたこととは言え、修一は何とも言えぬ居心地の悪さを感じていた。

仁美は? と姿を探すと、笙子と一緒に新郎側に交じり、口に手を当て笑ったり、頭を下げたりしている。

ふと、修一は仁美と初めて出逢った日のことを思い出そうとしたが、清美が、吉田が、正雄がと、代わる代わる、次々と話し掛けられるものだから、いつしか彼等の唇は忙しなく動いているだけで、言葉は全く聞こえなくなった。

やがて修一の想いは、遠く、遠く、過ぎ去った昔を彷徨い始めていた。

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