ハイペリオン (6)




しかしそんな周囲の思いとは裏腹に、ヘスターの気持ちは虚ろだった。


機械的に宣誓を済ませたのち、静まり返った廷内に罪状の読み上げだけが響く中、ヘスターは感情の一切籠っていない瞳で、ぼんやりと高みを見ていた。


鳥かごのような〈ミノス・ホール〉において、被告人席は一番低いところにある。辺りには見渡す限り一面の人の顔で、まるで仮面の群れだとヘスターは感じた。


顔――顔――顔!


一面顔の群れ!


いずれもが洞のような眼窩を、ヘスターに向けている。


そのほとんどがヘスターにとっては個を持たない、匿名アノニマスの存在だったがだったが、中には勿論見知った顔もいた。


例えば首席弁護人のデルヴィル氏は、自身に満ちた冷厳な表情でまっすぐこちらを見ている。その黒々とした髪の毛の下では知略が渦巻いていて、普段のヘスターだったら決して好きなタイプではない。しかしあの日以来、彼こそが最も多くの言葉をかわした――あるいは一方的に質問を積み重ねて行った相手であり、否が応でも記憶に残っていた。


――証人席のフェリックス兄さん。剽軽な性格で、いつも冗談を飛ばしては母さんや姉さんに怒られていた。しかし今はそんな兄さんは遠い過去のものであるかのように、沈み切った面持ちで顔を強張らせている。


あの日――よく判らないままに日常が終わり、母さんが逝ってしまった日。


まるで不吉の前兆のようにやってきた、カラスのように真っ黒な髪をして、獰猛な眼差しをした女性保安官もいた。なぜか私が火傷させてしまい、怒り狂わせた相手だ。証人席に座ってこそいたが、いつでも任務に戻れるよう隙の無い佇まいをしている――右手をさすっているのは、実際に疼くのか、はたまたこれみよがしな当てこすりか。


でも本当に――ヘスターには理由わけが判っていない。


ミス・ヴァージルは、大衆が犇めく傍聴席からは一段高いボックス席にいた。『三の九独房』で、ビーチェはヘスターの顔をよく眺められなかったが、ヘスターには見えていた。暗がりでは明るいものはよく目立つ。そしてこの鈍色の集団にて、光という光を乱反射する存在は彼女をおいて他にいない。熱狂することも、悲痛あるいは憎悪の感情を顕にしていないのも彼女だけで、純粋に冷静な好奇心で場を達観している。そこには何気ない日常から愉しみを見出せるという、ある種傲慢な優越感がにじみ出ていた――


――そしてエミリエ姉さん。


姉さんは、ミス・ヴァージルとは対照的に、その場の誰よりも暗く沈んだオーラを放つことで目立っていた。意志の強そうな顎のラインが、シャンデリアの仄かな灯りを受けて印象的に浮かび上がっている。でもその立ち振る舞いはどこか挙動不審で――いつもの姉さんらしくもなかった。石の彫刻のように固まっていたかと思うと、不意に肩を小刻みに震わせ始めたり、何かに怯えるようにして辺りを見回したりする。そして、皆の視線が姉さんではなく私に集まっていることを確かめ、ほっと胸を撫で下ろすかのようにして再び外界を遮断した殻に籠る――その繰り返しだった。


そしてなにより――エミリエ・アッシャーは、ヘスター・アッシャーの方を見ていないただ一人の人間だった。


クリストファー判事は、前置きの締めとして、二番目に裁判長へ衆目が集まる言葉を口にした。


「被告人ヘスター・アッシャー。あなたは、アシェロンの故シルヴィエ・アッシャー夫人の死並びに屋敷の焼失に関して、何か関わるところがありますか?」


その台詞は、まるで周囲の音という音を吸収し尽くしてしまったかのようだった。


不気味な沈黙がホール中にわだかまり、〈仮面〉の視線が一層強くヘスターへと注がれる。


ヘスターは何も答えなかった。


――いや、何も答えられなかったのだ。


ヘスターには、あの晩の記憶はない。シルヴィエに対して殺意を持ったこともなく、取り立てて憎んだこともなかった。


アシェロンの街での生活は平穏そのもので――物心ついて間もなくに孤児院から引き取られたヘスターにとっては、あの屋敷こそ唯一の世界で、アッシャー家こそが唯一の構成要素だった。つまり空気と同じように彼女の周りにあり続けていたわけで、憎悪や愛着とはおよそ無縁の――恩知らずな言い方をすれば、あって当然のものだった。


ただ同時に、その空虚な想いが記憶にうろを作っていたのもまた事実で、ヘスターにはあの夜、屋敷の火事と母の死に関与していないと証言できるだけの現実も持ち合わせていなかった。


あの夜に限ったことではない。ヘスターには不意に訪れる記憶の欠落があり、シルヴィエとエミリエには微かにそれを気にしている節があった。しかし肝心の医療の道を志したフェリックスにそれが語られることはなく、『病ではないなにか』としてひっそりとアッシャー家の主導者二人の間で封をされていた。二人は、ヘスター本人はそれに気づいていないと思い込んでいたが、その実おぼろげに勘付いていた――


ヘスターは何も知らない。


でも『何も知らないことがあること』を知っていた。


だから彼女には肯定も否定も出来ず、ただ朝目覚めたら病院のベッドの上で、母は死に家は燃え、自分は捕らわれていたというだけのことで――はたしてそれが夢か現実か。


その境界線もあやふやで――これもまたヘスターらしい素質なのだが、あまり線引きをしようという気にもならなかった。


『あやふやのまま、世間に解き放つのは都合が悪い』


昨夜、地下の独房で投げ掛けられたビーチェ・ヴァージルの言葉が頭をよぎる。


あやふや――そう、すべてが『あやふや』なのだ。


夢も現実も。


肯定も否定も。


そうすべきか、しないべきかという判断も。


しかし、唯一彼女に対して現実をコントロールするように説得してくるデルヴィル弁護士が、当初の段取り通りにしろとでも言わんばかりの視線をこちらへ向けていることに気付いた。


ヘスターは、ゆっくりと操り人形のように顔を上げ、裁判長より遥か上空のシャンデリアを見やりながら言った。


「いいえ、認めません」


すると傍聴席からどっとざわめきが沸き、裁判長は三度槌を打ち鳴らさざるを得なかった。




そしてエンジェルス首席検事が呼ばれ、検察側による証人喚問が始まった。

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