ハイペリオン (3)
ドクター・トリストラム・ダフォードは警察医だった。
年の頃は四十代前半。中々の色男で、
しかし家庭は冷え切っており、肝心の患者もコチコチに冷たくなっていることが多い。外科医としてよりも検死医としての仕事がメインで、彼を嫌う同僚たちからは『
そんな彼が敵を滅多刺しにせず、物言わぬ死体相手にメスを振り下ろすことで
――秘密裏の
――口外無用の
あの方の手に掛かったら、法治国家として本分を果たすべく裁判所に駆け込むより先に、ガス室だ。
――バージット・ゲーブル=テンペ。
あの
――そう。ドクター・ダフォードは、テンペにその任務への忠実さと道徳心の欠如を買われ、法律より一段高いところにある高尚な〈汚れ仕事〉を命じられた、選ばれし正義の民だった。彼の献身は、何人かの特に気に食わない同僚を僻地に飛ばし、非合法薬物の私的取引を闇に葬ることで正当とされていた。
だから、彼は日陰者で満足できる――今はまだ。
――二ヶ月前。
その極秘通信は、朝食の席――妻も子供も出て行き、ガラリとした寂しさと放蕩の蝕みが色濃く窺えるひと時に舞い込んできた。
――ダフォード、仕事だ。
テンペの砂嵐のような、ガサガサとして耳障りな声だった。
――人道とはおよそ遠くかけ離れた
もちろん知っていた。
王都に住まう保安警察関係者なら皆知っている。
最も有能な新参者。
同時に、最もじゃま臭い小生意気だということだ。
ただダフォード医師の個人的な趣味の関係で、その興味はむしろ相方のアリーナ・フェイスフルの方にあった。
凛とした姿勢、引き締まった大きな尻、そして切り落とされた魚のような眼――堪らない。霊廟に繋ぎ、愛でたい類だ。
そんなダフォードの性癖をも調べ尽くしている公安課長のゲーブル=テンペが、見透かしたかのように言う。
――残念だったな、フェイスフルじゃなくて。
言葉こそ冗談めかしているが、その声に面白みは欠片も無かった。
――
とんでもない言われようだったが、
――俺は悪くない。世間が悪い。
けれど任務だけはきちんとこなそうという心持ちの医師の元に届けられたのは、確かになるほど、いずれ来るであろう表舞台への
死者と生者の狭間。
息する肉の塊。
あの良く働くやんちゃくちゃの猟犬のようなバックスの変わりようは、性癖の壁を乗り越えて好奇心を抱くに値する。
自分と決して眼を合わせようとはしない隊員たちに搬送させ、人払いをした手術室の中でスルスルと包帯を解いていったダフォード医師は、思わず口笛を吹いた。
――これは見事だ。
純粋な賛美の言葉。
世間から忘れ去られて久しいが、彼の外科医としての腕は中々のもので、だからこそ判る。
その縫合、止血処理の見事さを。切断面は一寸の狂いもなく一刀のもと断ち切られたことを意味し、皮膚の張り方から筋の流れまで、瞬時にして見極めていなければ出来ない芸当――まさに名人芸だった。
同業者としての畏敬の念からカルテに目を走らせ、執刀医の箇所で視線が止まる。
――アイラ・ドレイク。
――ああ、やっぱり。
これは知識や手先の器用さに加え、現場で数多くの手術をこなして初めて成り立つ。あの政情不安で、治安の悪いセントザヴィエの凄腕アイラ・ドレイクなら納得だ。あるいは、乳房の付いたチョッキを欲する
四肢切断は、外科手術の根源にして、最も合理的な手段として知られる。
しかし医学あるいは社会の発展に伴い、その有用性は徐々に
ただ負傷箇所の
しかしそれも今日この頃まで。
唯一無二の祖は、今一度医学界を席巻せんとしていることを、ダフォード医師は知っていた。
――そう、自分のように。
この綺麗な断面。接ぎ木がしやすそうな切り株がごとくそれは、生えんべき四肢を待ちわびている――より大きな力を求め、渇望する切り口。
どうしてなかなか良い材料が手に入った、とテンペの慧眼とドレイクの神業に拍手喝采を送りながら、ダフォードは簡単な消毒と入院手続きをした。
あれから二ヶ月。
悟られぬ監視と綿密なリハビリプログラム下に置かれていた
――凄まじい。
――素晴らしい。
医師は、儚げな女体以外に興奮を掻き立てるものがあろうとは思いもよらなかった。
ただそうなると気掛かりなのは、任務の遂行性だった。
首尾は上々。しかしここで浮かれていては手痛いしっぺ返しを食らう。
監視の目を行き届かさねば。
繋ぐ鎖を、もっと強めねば。
そう思っていた矢先のことである。
ヘスター・アッシャーの裁判当日、ヘスターの未熟ながらも輝かしき被虐者としての素養を
ゲーブル=テンペの息が掛かっている守衛に、
――異常はないか。
――はい、ありません。
というヒソヒソ話をした後、バックスの居る病棟へ向かうと、逞しい体格の年配の女がのしのしと廊下を練り歩いている最中だった。職務に忠実な看護婦長で、人間の雌というよりは雄牛に近い。世の大多数の男性と同様、ダフォード医師も彼女を『女性』と見なしていなかった。
「婦長、おはよう。回診の時間だ。デュラント・バックスの部屋にはもう行ったかね?」
雄牛のような女は、ケダモノを見るような胡乱な目線を医師に浴びせ掛けた。
そしてやけに機械的な調子で、
「いえ、まだです。隣のシーツを変えたら行きます」
と言った。
(畜生)
ダフォード医師は毒づいた。
(この手の女は、自分の顔を鏡で見ることなしに、世の男すべてが自分に欲情しかねないと思っている。まったく、誰が――
隣の病室にノックと共に乗り込み、入院患者を恐怖のどん底に落としやっている看護婦長を目の端で追っていたダフォード医師は、一呼吸を置いてドアをノックした。
「デュラント・バックス保安官。私だ、ダフォードだ」
そう言って部屋に入った医師だったが、すぐに廊下に飛び出してきた。
その様子を、汚れたシーツをガシッと抱えた看護婦長が見咎める。
「どうなさいました」
ダフォードは蒼白だった。信じられない、何かの間違いに違いないという面持ちで、挙動不審に辺りを見回す。そしてようやく捻り出した上ずった声に、婦長は薬物中毒者の禁断症状を垣間見た。
「オ、オイ。デュ、デュラント・バックスのす、姿は本当にみ、見ていないのかね」
「言いましたでしょう、見てませんよ。でもこの階の
「『居るはず』? 『居るはず』と言ったな!」
ダフォードは不意に叫んだ。
百戦錬磨の看護婦長も、流石にギョッとした。その眼は明らかに異常で――血走り、色濃い焦燥がギラギラとした狂気に光っていた。
「だったら自分の目で確かめてみればいい! あの曲がった
そして自制の
「そうだ、こうしちゃおれん。しゅ、守衛だ。あの畜生! 大ウソつきめ!
と呂律も不確かに喚きながら、廊下の向こうへと消えて行った。
後に取り残された婦長が眉根にしわを寄せて病室を覗き込むと、明るい朝の光が立ち込める室内にはバックスも、その制服も、杖の姿もなく、ただ無造作に丸められたシーツの上に真新しい朝刊だけが、裏窓から吹き込む西風によってバサバサと煽られていた。
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