ハイペリオン (2)




レナード・ヘル。


ヘリア政府を王国の『陽』の部分だとしたら、彼が率いる〈地獄火連盟ヘルファイア・ユニオン〉は『陰』だ。そして寒く寂しい冬の日には、昼よりも夜の占める時間が長いように、王国の貧窮した時には常に彼の影響力があり、時代を支えてきた立役者でもある。


ヘルの出自については、然程多く語られることがない。


というのも、彼は特段裕福な家庭に生まれたわけでもなければ、スラムからのし上がった成り上がり者でもなかったからだ。その経歴には一点の不鮮明さもなく、ヘリアのごく一般的な中産階級の息子として両親の愛情を一身に受け、学校に通った。


ヘル家は王都に数店舗構える雑貨店のオーナーで、商人としてのいろはを肌で感じる環境にこそあったが、羽振りはそこそこだった。父親は慎ましい商売を信条としており、企業買収や多角経営とは無縁の人物だった。


そんなヘル少年の転機は、商業学校在学中――五十年前のことだった。


五十年前。


それは奇しくも普赫ふかく戦争の始まった年で、兵器産業に鉄鋼業、それに伴い食品加工業から繊維産業に至るまで、ありとあらゆる産業の需要が異常な伸びを見せていた。


王国にとっては初の島を二つに割っての戦争で、市民の準備も後手後手に回っていた印象があるのだが、ヘルはいち早く鉱物資源――そして国境沿いの土地確保の重要性に眼を付けた。


ヘリアとプルジアを分かつセントザヴィエ地方は芳醇な湿原で、良質な鉱床があることは旧くから知られていたが、王都からも公都からも遠いという性質上、長らく開発が進んでいなかった地域だった。


しかし戦争となればわけが違う。


手始めにヘルは辺鄙な田舎の鉱山を買い取り、そこを拠点に工場や労働者を次々と呼び集めた。そして目覚ましい勢いでインフラが築かれつつあることをヘリア政府にアピールし、二束三文で買い漁っておいた空き地を高値で売りつけた。


これを連鎖的に繰り返し――三巡もすればもう、若きヘル青年がこさえた借金はチャラになり、その資産は当初の数百倍にまで膨らんでいた。


戦争終結後、摩耗した両陣営に救いの手を差し伸べたのもヘルだった。


彼は自由都市マールバラの貿易商たちと手を組み、流通ルートの仲介をすることで、み疲れた島全土に外貨と植民地資源を行き渡らせることに成功した。つまり吸収して余計に負担の増したヘリアの代わりに復興を推し進めることで、国の威信プライドに掛けては出来ない荒療治を可能にした。ヘリア人、プルジア人の民族や思想の差に捉われず、純粋に土地の特性や流通経路のみを基準とした客観性が、実を結んだといえよう。


復興期を迎えた後は、もっぱら各業界への出資に専念し、その代償に〈地獄火ヘルファイア〉のインシグニアを付けさせた。


結果、いまや全ヘリア国民に取って無くてはならない存在となっており、〈HELLIA《ヘリア》〉の『HELL《ヘル》』は〈HELLFIRE《ヘルファイア》〉そしてレナード・ヘル(同じ綴り)の『HELL』と同義といえた。


ただ、昼と夜は相容れないのもまた事実。


政府と連盟には浅からぬ因縁があることも、ビーチェ・ヴァージルは身を以って知っていた。




ビーチェの外見はよく目立つ。


それでも吃驚するほどの目聡さで彼女を見つけたレナード・ヘルは、お供が制するよりもくツカツカと歩み寄ってきた。


「ミス・ヴァージル!」


張りの無い、柔らかな声音。その動作は滑らかで男性的――まさに絵に描いたような紳士のそれだった。


「勿論いらしていたんですね――いつ振りでしょうか」


「十ヶ月ぐらいかしら」


ビーチェは即答した。


「『シェパード事件』の聴取以来ですからね。あまり良い別れ方ではありませんでしたけれど――またお会いできて光栄でしてよ」


『シェパード事件』。その単語を聞き、ふとヘルの表情が曇った。けれどそれも束の間、稀代の大人物だいじんぶつはビーチェの小さな手を包み込み、純粋に再開を祝福するようにブンブンと振った。


――如才ない。


「ああ、そうでした。アレはお互いにとって、不幸な事件でした」


「アレは揉み消すのが大変な事件でしたわよ」


「でしょうな。けれどそれは過去。私らの親睦には何ら影を落とさないものです」


「そうかしら」


ビーチェの瞳がキラリと光った。


「そうだと良いのですけれど。あたくしが心配なのは、これまでの例を鑑みるに、あたくし達が顔を突き合わせると、近い内に誰かが死ぬんじゃないか、ってことでしてよ」


「でしょうな」


レナード・ヘルは、ビーチェの悪趣味な物言いにもすこぶる物分かりが良かった。


「でも我々は共に顔が広い。そしてこのヘリアには、大勢の人間がいる。毎日誰かが産まれ、誰かが死んでいる――まあ、当然のことでしょう」


「ですわね」


柔和な笑いが二人の口から漏れた。しかしその腹の内は、分厚い外行きの仮面の下に隠されていて、それを深く理解し合っていた。


ゆえに二人は曲者で――互いに一目置いている。


ビーチェは席を勧めたが、ヘルはお付きの顔色を窺って辞退した。


「で、なんですかな――ミス・ヴァージル。あなたの慧眼では、こうして私たちが出会ったことで、再び誰かの命が失われる――さて、誰です今度は」


「さあ――そこまでは判りませんけれど、あまり縁起の良い集まりでないのは確かですわね。聞きましてよ、あなた、ヘスター・アッシャー事件の陪審員をお受けなさったんですってね」


「ええ、ええ――不本意ながら」


「不本意?」


「だってそうでしょう?」


ヘルは哀しそうな顔をした。


「まだ無垢な十六、七の少女が、断頭台の露と消えることに手を貸さざるを得ないかもしれない。あるいは、暗く狭い檻の中で未来永劫過ごさせる決断を強いられるかもしれない。社会の――正義のためとはいえ、哀しいことです」


彼の言葉には常に仮定法が含まれている。


裁判が終わるまで被告は罪人たり得ないことを、きちんと把握している。


――まったく、抜かりの無いこと!


ビーチェは胸の内で口笛を吹いた。


「でも、あなたのような公正な方が陪審員でしたら、不幸なヘスター・アッシャーにもようやく幸運の兆しが見えてきたかもしれませんわね」


「身に余るお言葉」


レナード・ヘルは畏まった。


「市民としての責務を真っ当に果たせるよう、全力を尽くしますよ――そろそろ私は行かなくては。私のような人間が長居してはホテルの静謐な雰囲気を壊してしまいますし、何より秘書の機嫌が目に見えて悪くなっている」


「あら、あなたにも怖いものがお有りなんですのね」


ビーチェは至極愉快そうに笑った。


「勿論。女性と身の回りの世話を焼いてくれる人間には、いくら気を遣っても足り過ぎることはありませんよ――では」


今一度深々と頭を下げると、クルリと踵を返し、レナード・ヘルは颯爽と一団の元へと去って行った。


その華奢ながらも無尽蔵の火を生み出す種火のような後姿を見送りながら、


――決して嘘は吐かない。決して腹の内も見せようとはしない。




――まったく、性質の悪い狐だこと!


と、こっそり毒づいた。



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