ハイペリオン (1)




初公判当日。



雲一つないすがすがしい朝だった。


ミス・ビーチェ・ヴァージルは四時間ちょっとしか寝ていなかったが、ホテルの部屋が快適で、ベッドも柔らかだったため、驚くほど短時間で効率よくエネルギーを充填できた。


――やっぱ、高級は違うわね。


潜伏先の薄っぺらな敷布とは大違い――


自らのブルジョワジーさを、一層強固なものにしたミス・ヴァージルだった。


彼女が〈正義の裏庭〉を贔屓にするのには幾つか理由わけがある。


まず〈ミノス・ホール〉の真裏に位置し、法廷への便が非常に良いこと。


結果、多くの司法関係者がこのホテルに泊まり、自ずと情報が仕入れやすいこと。


そしてなにより、食事が美味しいことだった。


もうすっかり身支度を整えたビーチェがロビーへ降りて行くと、席という席はもう身形みなりの良い宿泊客で埋まり、お喋りの花が咲いていた。テーブルの合間を、給仕が空気の精のようにスーッと通り抜けて行く。


ビーチェの姿に気が付いたベテランの給仕が、慇懃に頭を下げる。


「おはようございます、ミス・ヴァージル。お久しぶりでございますね、昨晩は良くお休みになられましたか? いまお席をお探し致しますので――ああ丁度よかった、一人掛けですが、いま空きました」


そしてすんなりと席に通され、


「『いつもの』でございますね?」


「ええ、『いつもの』」


という、これまた特権階級らしいやり取りをすると、ビーチェは満足げに溜息を吐いた。



程無くして熱々の紅茶と腸詰め等を盛り合わせた伝統的なブレックファスト一式、そして〈ヘリア・タイムズ〉の最新版が運ばれてきて、ビーチェは新聞越しに辺りを見回す。


流石は〈正義の裏庭〉。


流石はヘスター・アッシャーの初公判。


いつも繁盛しているが、今日はいつにも増して人が多い。


知っている顔も、知らない顔も。


裁判の注目度が上がれば上がるほど、傍聴権は転売され、自ずと物好きな富裕層が多くなる。


知らない顔の殆どは、そうした優雅なる野次馬だった。大抵が地方の地主や経営者で、お上りさんの観光旅行に社会的な大義名分を与えるためにやって来るのだ。


知っている方の多くは法曹関係者や役人、あるいはジャーナリストだった。しかしフリーの諜報員という職業柄、彼女の『知っている』は一方的なものであることが多い。傍目には彼女はただの『綺麗で目立つご令嬢』であり、誰一人として声を掛けてくる者はいなかった。


そんな中、ある二人連れの姿が目に留まった。


年配者だらけの中ではビーチェの年齢に近く、また衣装にもそこまでの裕福さを感じさせない――そして何より、その二人の女の顔に見覚えがあった。


――はて、誰だったかしら。


ビーチェ・ヴァージルの脳細胞が、凄まじい勢いで検索を掛けた。彼女の小さな頭蓋には、このヘリアに生ける数千人ものプロフィールが収められている。


――ああそうだ。


――あの研究者崩れの軍医アイラ・ドレイク。今は昇進して大尉だったかしら――懐かしい顔! そしてもう一人は、謂わずと知れたアナイス・ヴェンドラミン。ドレイクに、コートの裏地のようにべったりと張り付いている民間人。


アイラ・ドレイクといえば、あのバージット・ゲーブル=テンペと一悶着起こした人物としても記憶に新しい。バージットをよく知らない人間は、バージットが恐るべき執念を燃やして地の果てまでドレイク大尉を追い詰めなかったことを意外に思うかもしれない。


しかしビーチェは知っていた。


バージット・ゲーブル=テンペはけだものだが、冷静な知性ある獣だということを。



あれから二ヶ月。


素性も居場所もバレているアイラ・ドレイクをテンペが泳がせていたのは、ひとえに泳がせる意味があると踏んでのこと。


ビーチェはもしやとは思っていたが、今日この時、疑念は確信に変わった。


――この裁判。


それはヘスター・アッシャーのみならず、アイラ・ドレイクにとっても頂点ピークである、と。


そしてビーチェ・ヴァージルの思い描いた絵図もまた、真実味を帯び始めている――


男装の麗人的な大尉と、女性的なアナイス・ヴェンドラミンはパッと見、同性愛者レズビアンのように見える。共に未婚で、中々の美形であることから、絵になりそう、見てみたい――という下世話な好奇心が、ビーチェの脳裏に沸いた。


ロビーのカチャカチャという音を抜け、二人のやり取りが耳に入る。


「このデザート、美味しいわ。もう一杯頼んでも良いかしら」


「朝っぱらから? 大概にすべきだ、行かなくてはならないところがあるのだから。ただでさえノロいのだ、パンパンの腹して行っては、時間が幾らあっても――」


「給仕さん――お代わり!」



――さて、二人はどこへ行こうとしているのかしら。



興味を失ったビーチェが再び視線を泳がせると、今度は隅っこの、ヴェールにすっぽりと顔を覆った女の姿が目に入った。


姿勢が良く、でも食が進まないのかフルブレックファストには殆ど手が付けられていない。


本人は上手く正体を隠している心算だろうが、ビーチェ・ヴァージルの眼は誤魔化されなかった。


――エミリエ・アッシャー。


悲劇の喪主、離散した一族の現家長。


横にいるのは勅撰弁護士で、職業的ながらも酷く気遣っている様子が伺える。


今は辺境で、着々と表舞台から消え行く準備を進めているエミリエ。


〈ミノス・ホール〉は、幕引きの舞台としても遜色ない。



その時、正面の扉がガラリと開き、瞬時にどよめきがロビー中に広がった。


ビーチェも釣られてクルリと振り向くと、そこには幾人もの紳士を近衛兵のようにはべらせた酷く小柄で、矮躯わいくに反比例するかのように圧倒的な存在感を放つ男が立っていた。


遠目にもハッキリと判る、血赤色カーマインの刈り上げられた髪に、鋭いエメラルドの瞳。酷く尖った顎と鼻――


名実共に触れるもの全てを金に変える大実業家(シルヴィエなんかにこの喩えを使うのは勿体無い)、いまや機械仕掛けの心臓を持つヘリア王国に無くてはならない〈大腫瘍〉――



地獄火連盟ヘルファイア・ユニオン〉の長、レナード・ヘル――その人だった。




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