闇の奥 (2)
『三の九独房』は司法の地下壕の最も奥深くで、同時に最も近くでもある。
罪人の控室から垂直に降りている
昇降機は人力で、カリオトからの奴隷たちが滑車を回す。大々的に奴隷を取引する時代は終わったが(というのも奴隷は安くなく、手間が掛かる)、今もまた人目に付かない場所で彼らは巣食っている。
無機質な鉄の籠の中で、ビーチェは号令の笛の音を聴いた。
最下層に辿り着くと、そこは小ぢんまりとした広間で、分厚い鉄製の扉が四方八方を埋め尽くしている。
正面には税関のような窓口があり、老警備員は鉄格子越しに言った。
「ミス・ビーチェ・ヴァージルだ。三号の鍵を――面会先はヘスター・アッシャー」
鍵の守り人が不愛想に『3』と大きく書かれた鍵を手渡すと、老警備員はそのままビーチェの
「あら、付いてきてくださらないの?」
ビーチェの問いに、老警備員は哀し気に笑って、
「本来なら面会者がきちんとルールを護っているか、監視する義務があるんですがね。あなたに限ってその心配はないし、今まで幾度となくフラれ続けてきましたからなァ――流石に学習するんですよ、私も」
「残念ですわ。お誘いを断る
チャーミングなスマイルを送ると、ビーチェは鉄扉の錠を開け、『3』の回廊へと入って行った。
* * *
〈ミノス・ホール〉の地下は厳密には監獄ではない。
収監用の設備ではないし、懲罰房も作業場もない。
謂わば司法の〈道の駅〉で、
――いや。
小動物ばりの聴覚を持つビーチェ・ヴァージルは
――微かに聴こえる。静かな息吹が。
壁にある僅かな光源を頼りにその音を追ったビーチェは、突き当りの鉄格子の前で歩みを止めた。天井近くに『9』の文字が、仄かに浮かび上がっている。柵の中は、一面の闇だった。
「夜分遅くにごめんなさい」
ビーチェは言った。
「あたくしはビーチェ・ヴァージル。ヘスター・アッシャー――少し、あなたと話がしたくてやってきたの」
返事はなかった。
蛇口が緩んでいるのか、はたまた雨漏りか。
ポツポツとした水音――そして変わらぬ、安定して密やかな吐息だけ聴こえる。
「あら、お返事がないのね――でもまあいいわ。あたくしがお話ししたいときって、大抵あたくし一人が喋って、お相手ダンマリってことが多いんですもの――だからね、好き勝手に話させて頂くわ」
白装束の女は、好き勝手に話し始めた。
……
…………
――栄光ってのは奇妙なものでね(以下、ビーチェ・ヴァージルの話)。
光があれば影があるように、繁栄の裏には犠牲が、あるいは水面下に生きる日陰者の存在が不可欠なのよ。
あなた、そこまで暴れそうにないから、目隠し、猿ぐつわまではされずにここへやってきたのだと思うけれど、だったら見ましたでしょ?
ここは古い文化財で、大掛かりな機械化や補修が出来ないのだけれど、昇降機がある。そしてその昇降機を回すのは、最後にお天道様を見て久しい、夜も昼もない世界に繋がれた人間たちですの。『ピィーッ』という笛の音を合図に、『いっせいのせ』で滑車を回し始める。その昔、人道的観点から馬で代用しようと言う話が持ち上がったのだけれど、すぐに頓挫したのね。
あたくしは差別主義者じゃありませんから、彼らが産まれながらにして卑しい、一段下等な存在だとは思いません。ヘリア憲法も国教会も、全ての命は平等に尊ばれるべきとの旨を表明しています。彼らも、あたくしやあなたと同じように五臓六腑を持ってこの世に生を受け、屍を解剖すれば同じようなメカニズムで動いていたことが判るでしょう。それが科学で――真実です。
でも世界ってのは奇妙なものでね。
ありとあらゆる
科学について言うと、人間はとかく闇を怖れる生き物でね。
獣が火を怖れるように、詳らかでない――道理や理屈で説明できないことを、無条件に忌み嫌う習性がある。
ただ忘れてはならないのは、光と闇は決して対義語ではなく、これまた相対的な、一つながりの概念だっていうこと。
例えば、あたくしが立っている場所はあなたが座っている場所より若干明るいけれど、外の世界に比べればまだまだ暗い。そして夏の陽射し立ち込める白昼も、太陽そのものと比べたら真っ暗闇に等しいのよ。
――その点、あなたは実に運が悪い。
原因不明の力に魅入られてしまったのだから。
医学が進歩すれば難病は難病でなくなり、世間的にも『ちょっと気の毒な人』程度に扱われるわけだけれど、病理が判らない段階では『悪魔憑き』だの『不浄の者』だのと蔑まれるのと一緒。感染性が無いと断言されなければ、疫病持ちとして隔離、そして迫害されるものなのね。
――〈魔女の力〉。
あたくしたちは、あなたが持っているであろうその力を、そう仮称している。
覚えておいてほしいのは、これは病ではなく、はたして悪いものであるかどうかも定かではないってこと。
だからこそ、純粋に『力』。
でもそのメカニズムが究明されない限りは、それはただの『不思議なモノ』であり、社会的に見ればただの恐怖の対象でしかない。
はたして先天か後天か。
治る――いや失くせるものなのか、そうではないのか。
――有益か、害悪か。
それすらもあやふやのまま、あなたを社会の荒波に解き放つのは、あなたにとって――そして何よりあたくしたちにとっても、とても――とっても都合が悪い。
ですから、あなたはここにいる。
ですから、あなたはこれから、あたくしたちと運命を共にする。
そのことを留意なさっておいて。
――明日の、昼しか知らぬ者たちの戯言は差し置いて。
……
…………
「判った?」
――それはそうだ。
意味が判らないからあたくしがこうして長話をしたのであって、もし判り切ったことを言っていたのだとしたら、とんだ茶番だわ。
このビーチェ・ヴァージルに限って、そんなことは絶対にない――
彼女は一人悦に入って笑みを漏らすと、
「長々と失礼したわ。おやすみなさい」
と言って元来た道を辿り始めた。
その白い後姿を――長いトンネルの果てに見える外界のような光を、闇の奥の紺碧の双眸が初めて捉えていた。
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