闇の奥 (1)

バージット・ゲーブル=テンペと別れたビーチェ・ヴァージルはその晩、芯までしっかりと焼けたステーキに温野菜の付け合わせ、そして植民地カリオト産のワインに舌鼓を打った。


彼女が〈ミノス・ホール〉裏のホテル〈正義の裏庭〉に着いたとき、日付は間もなく変わろうとしていたが、ホテルの支配人はビーチェの姿を一目見るなり後片付けをしていた料理長に残業を命じた。ミス・ヴァージルが淑女レディで、金をたんまりと落とす上客ゆえの配慮だったわけだが、当の本人は出資に見合う厚遇だと満足していた。彼女は特権にあやかることが何よりも好きだった。


上品に口許を拭い、ポンポンと小さな腹を叩いたビーチェだったが、彼女の一日は終わっていなかった。


食後の運動。食べたらお散歩。


かくしてビーチェ・ヴァ―ジルは真っ白な装いのまま、悪戯好きのお化けのように、夜の街へと颯爽と繰り出したのである。


目的地はすぐそこ――正義の母屋たる〈ミノス・ホール〉だった。


建国以来ずっと司法の聖地として国の秩序を護ってきた〈ミノス・ホール〉は、濃鼠色石造りの建物で、高い壁に小さな窓、優美な曲線を描くアーチを持つ。謂わば城塞と宮殿双方の特徴を併せ持っており、ヘリア史に名だたる傑作建築だ。


旧市街のど真ん中に位置し、街灯が少なく道も狭く入り組んでいることから、日の入り後は一層厳めしい雰囲気に包まれる。黒くそびえる磐石モノリスのようで、その正面には刻まれた一節が映える――


『この門を潜る者、希望を棄てよ』


本来ここは善悪の裁決の場で、必ずしも地獄行きを約束するものではない。そのためこの標語の正当性には一抹の不安が残るが、国の最高裁として数々の兇悪事件や叛逆罪に終止符を打ってきた性質上、憚りながらも正鵠を射たものになりつつあった。


良くて十年以上の懲役、悪くて死刑。


地裁の判例を裏切り無罪放免が言い渡される例は――ビーチェ・ヴァージルの知っている限り、数えるほどしかなかった。


ビーチェは鼻歌交じりにホールの周りを一周し、表玄関はチラリと一瞥しただけで、元の裏手に戻ってきた。


そう――目的地はまさに目と鼻の先。


ホテルの入口に面した、ホールの裏口。


今までのはほんのレクリエーションで、一仕事終えた後はすぐに寝床に入れる。


夜勤の警備員は一瞬、暗闇から浮かび上がった白い人影にギョッとしたものの、そこはベテラン。すぐにそれが〈有名〉なミス・ヴァージルであることに気付き、帽子を取って一礼した。


「いらっしゃいませ、ミス・ヴァージル」


警備員はまるで店員のような口調で言った。


「ご面会ですね」


「ご名答」


ビーチェが明るく答える。


「その様子だと、もう判っていらしてね? ミス・ヘスター・アッシャーをお願い」


「三の九番独房。ご案内しますですよ、えーとチョイとお待ちを――オイ、オーギュスト!」


年配の警備員が大声を張り上げると、まだ若い警備員が眠そうな面持ちでのっそりとやってきた。


「俺は今からミス・ヴァージルを地下にご案内する。おまえは俺の代わりにここに着け」


ビーチェはホールの地下のことは地上と同じくらいよく知っていたので、案内などまったく要らなかったのだが、それを噯気おくびにも出さなかった。一介の下級役人にとって自分のような人物と接することは何よりもの光栄であることを知っていたし、ファンサービスの重要性も判っていた。


ホール裏手の錠を開けながら、年配の警備員は興奮し切った様子で囁いた。


「アイツは新人でね。プルジア人だからハッキリ言って、この場を護る任務に似つかわしいかって言う点でははなはだ心許ないのですが――現在いまは平等の時代。『平等万歳!』ってとこですな、ハッハッハ!」



調子の低い冗談に、ビーチェはクスリともしなかった。



* * *


〈ミノス・ホール〉の中は入り組んでいる。


長い歴史と共に増改築を繰り返した現れで、一階、二階、地下一階というような紋切り型の分類は通用しない。筋道を正しく記憶し、全体からの位置関係を把握することこそがこの迷宮を迷わず進む唯一の手段で、『三の九』はいわゆる中心の一番奥深くにあった。


古くよりそこは、ホールで行われる大小様々な裁判の中でも、最も事件性が高い被疑者に割り当てられる。


司法の番犬として永年過ごしてきた老警備員も、そのことを重々承知していて、だからこその興奮冷めやらぬ様子だった。


「犯罪者にオスもメスもないことは、よォく判ってるんですがね」


細い石畳の階段を行きながら、警備員は言った。


「でも『三の九』に女性を入れたことなんざ、あんまり記憶にないモンでねェ。ホラ、ここで裁かれるには殺人か、国家を転覆させかねない大きな犯罪に加担しなきゃならないわけですが、女性は情痴殺人で夫や間男を殺めたりする例はあっても、中々大量殺人までは結び付きませんからねェ。政治犯の女ともなれば、もっと珍しいでしょう」


世の女性運動家が聴いたら『女性蔑視だ!』と猛り狂いそうな意見だったが、なるほどその通りだとビーチェは思った。


基本的に女性の方が現金で、ヒステリーだ。


カッとして凶行に及ぶことはあっても、思い詰めて綿密な計画を立てて、大規模な破壊工作に及ぶということは性分ではない。


これは平等以前に、生物本来に備わる特性のようなものなのだ――もっとも、例外がないことはないけれど。


「でも四、五年前に一人いましたでしょう? 叛逆罪で、三の九独房に入れられて裁判を待っていた女が。ほら、ハーミオン・ワテルロという――」


その名を聞き、警備員はネズミのような悲鳴を上げた。


「イヤ、すみません。急に叫んだりして。そりゃ私もよォく覚えていますよ、ワテルロ――ハーミオン・ワテルロね。どっかの植民地の提督一族で、王政復古過激派の闘士で、現行の植民地政府にクーデターを起こし捕らえられた女。もちろんここで裁かれ終身禁錮刑の判決が下されたわけですが――何より私が覚えているのは、あの女、ここでの護送中に大暴れしたってことですね。看守の一瞬の隙を突き、喉元に喰らい付き――動脈から血の一滴も出なくなるまで、けっしてその顎の力を緩めることがなかった。私は見ていたんですよ、その場で。あんなケダモノ、二度と御免です」


ビーチェは頷いた。


余談だが、ヘリアは立憲君主制である。


五十年前の普赫戦争を期に近代化の波がどっと押し寄せ、国王が一切の統治権を握る専制君主制とは別れを告げた。以来、民主的投票による議会が国の内政を司ることとなり、ヘリア王家は国家元帥としての地位は保っているものの、嘗ての栄華はない。


「まあアレはヘリア史上でも類を見ないレアケースでしたから――ヘスター・アッシャーに限って、そんなことはありませんでしょ?」


「そりゃあもちろん」


警備員はブンブンと首を振った。


「ウサギのように大人しいですよ。そしてウサギのように静かだ。弁護人も、聴取するのに相当骨を折る始末で。果たして声帯があるのやら。そして生き延びる気があるのやら」


ビーチェは何も答えなかった。


ミノスの大門は、別名〈地獄の門〉としても知られる。


それは即ち行きて帰るみちなしという暗黙の了解を謳ったものであり、全国民の意識下に刷り込まれている概念でもある。


はたしてヘスター・アッシャーはこちらの問いかけに対し、雄弁に答えてくれるものだろうか。


――いや、それはこの際どうでもいい。


ビーチェ・ヴァージルは常日頃から、話されたいより話したい人間なのだ。


彼女にとって、監獄も穏やかな春の陽射し射し込むテラスも、お話の舞台としては等しく相応ふさわしい。




老警備員のカンテラを追いながら、ビーチェは深い深い奈落の底へと歩みを進めた。




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