裏窓 (4)
その夜。
デュラント・バックスは寝付けずにいた。
最後の回診が終わった病室にはもう誰も来ない。裏窓は
バックスの視線は宙にあった。
しかしどこそこが気になるというわけではなく、心ここに在らずだった。
彼は思い返していた。
自分の、アリーナの人生を大きく変えることとなった、あの屋敷の一幕を。
文字通り目に焼き付いている、あのフラッシュバックを。
――待って、バックス!
そうアリーナは叫んだ。
俺はアリーナの必死の制止を振り切り、バケツの水を浴び、炎に包まれた玄関へと駆け込んだ。
ぼってりと濡れた制服は、当初こそ
屋敷の中のことは然程よく覚えてはいない。
家具の殆どは燃え上がるか、焼け焦げるか、あるいは溶け出していた。
ただ、階段のアーチが焔のイルミネーションで縁どられている様を見た時には、
――ああ、地獄の門ってのはこういう見た目なんだろうな
と、漠然と思った。
――『この門を
司法の聖地、ヘリア最高裁〈ミノス・ホール〉の玄関にも刻まれている文言だ。
階段は上へ上へ、屋敷の奥へ奥へと続いていた。
三階の左端。
そのヒントだけを頼りに、歩みを進めた。
火元は見当も付かなかったが、一階より二階、二階より三階のほうが激しく燃えている様子だった。火の巡りは速く、四方八方から炎が噴き出していた。
まるで意志を持って俺を出迎えているかのようで――まるで
ようやく辿り着いた三階は、一際明るい炎と濃い黒煙に包まれていた。
左手の細長い回廊には灰が、煤が、燃えカスが、まるで粉雪のように舞い、地獄へと続く一本道のような様相を呈していた。
己の身に降りかかっている絶望的な状況を、俺の身体は感じ始めていた。
肺が、朦朧とする意識が、これ以上毒ガスを吸ったら命の保証はないということを訴える。ここを行き、そして引き返すことは単純計算にして倍の毒が身体に回ることを意味する。そして最大二人の人間を背負って戻ることは、およそ非現実的といえた。
しかし俺は突き進んだ。
なにがそこまでして俺を駆り立てたのかは判らない。能動的な行動というよりも、何か大きな力に
冷静に考えれば、アッシャー母娘が生存している可能性は極めて低かった。
少なくともこの地獄のような状況下で、四半時間は居続けていることになる。焼け死んでいるか、はたまた煙の毒で息絶えているか。
しかし俺は、誰かが生きている――そんな希望を、根拠のない確信のもと、抱き続けていた。
それはただの勘だった。
このけっして長過ぎはしない保安官生活の中で、俺は幾度も人類の生存本能の顕現ともいえる勘に助けられてきた。
たとえばあの日、悪漢を取り押さえているアリーナの背中をスコープに収める、狙撃者の存在にいち早く気付いたときのこと。たとえばあの日、羽交い絞めにしていた俺の腕に、口に仕込んだ毒針で貫こうとした女の頬を裂いたときのこと。
理屈ではない。ただ頭の中で、何かがまるで警鐘のようにガンガンと鳴り響くのだ。
俺がしこたまこさえた始末書の山の前で、リヴァーズ・シャロンがため息交じりに言った言葉が思い返される。
「この道理も理屈も通じないケダモノめ。何がおまえを規範の道から踏み外させ、成功へと誘う? 野生の勘か? 人類もまた動物王国の一員であるということを、言葉無くして我々に知らしめる神の啓示か? ともかくおまえは曲がりなりにも人間だ。もう少し理性に重きを置かんと、手痛い目に合うかもしれんぞ――まあ言っても聞かんとは思うが、一応の提言だ」
いまとなっては、その長たらしい小言も懐かしい。
――その通りだったよ、親父。
俺は自嘲した。
――でも、その俺の中の唯一神のお告げによれば、娘の方は生きている!
突き当りの部屋の扉は開いていた。
隙間から、敷物の上に投げ出された二本の細長いもの――恐らく脚が見えた。
真っ黒に炭化し、爪先を天井に向けている。
僅かに残る年配の女性向けの寝間着の切れ端から、家長のシルヴィエ・アッシャーであることが見て取れた。察するに、就寝中の火事に気付いて慌てて跳ね起きたものの、カーペットに足を取られて仰向けに転んだのであろう。そして意識を失い、火に呑まれたのだ――九分九厘、息はしていまい。
対して、右手の分厚い扉はぴったりと閉め切られていた。耐火性に優れた素材で作られているのであろう、
俺は意を決して、体当たりを食らわせた。一撃で、扉は後ろ手に倒れた。
扉の所為だろうか、その部屋は余所に比べて火の巡りが遅く、モオモオとした黒煙が充満するに留まっていた。幾つもの背の高い書架が石碑のように立ち並ぶ中、俺の眼に飛び込んできたのは、移動式の本棚の間に挟まれる形で膝を抱えうずくまる、華奢な姿だった。
「ヘスター・アッシャー」
俺は声を振り絞った。鼓膜に、煙でかすれたざらついた声が響く。
「迎えに来た。脱出するぞ」
しかし返事はなかった。
もしや――と思って近づいてみたが、それは取り越し苦労であることがすぐに判り、俺は胸を撫で下ろした。
ヘスター・アッシャーは生きていた。息をしていた。
気を失っている。しかし、まるで揺り籠の中の幼子のように安らかな吐息を上げ、金色の髪を密やかに揺らしていた。
俺は少女の傍らに屈み、その膝裏と肩に手を掛けゆっくりと持ち上げた。年頃の少女は、まるで羽根のように軽かった。
書庫を出て、廊下を進み、階段を下りる。
来た道をただ辿り返すだけの行程のはずなのに、それは何倍にも長く感じられ、また困難を極めた。
体力の消耗、仮にも人一人を余分に抱えているということ。
そして未だ勢いを増す火の巡りは、屋敷の内装にも変化を及ぼしていた。ところどころ床板が焼け焦げ、大きな穴を穿っている。崩落の
俺は勘を頼りに、地獄を引き返して行った。
そしてまた何度も勘に救われた。脆くなった床を避け、降って来る肖像画から身をかわした。ヘスターはその間も、俺の腕の中で安穏とした表情――棺の中の死体のような安らかさを浮かべ続けていた。
ようやく入口――いまは出口である表玄関が見え始めてきたという段になって、俺はかつてないほどの危機感を覚えた。
それは真上――玄関の中央、高くに太陽のようにぶら下がるシャンデリアだった。
留め金が歪み、重さに耐えきれなくなったそれは、天井もろとも落下してきた。
俺は咄嗟にヘスターを投げ飛ばしたものの、次の瞬間、左腕に走る激痛と、右脚にのしかかる鈍痛に、声にならない悲鳴を上げた。
前にはヘスターが、まるで眠るように横たわっている。
俺は必死の力を振り絞り、なんとかその近くへ這おうとした。
その時、メリメリという音が再び頭上から鳴り響き、火に包まれた床板が、梁の端が、まるで雹のように降ってきた。その一つが俺の乾き切った制服に燃え移り、もう一つはヘスターの衣服めがけて飛んで行った。
俺は音にならない声を張り上げ、ヘスターを目覚めさせようとした。
けれどその努力も虚しく、瀕死の豚のような呻き声を上げながら、ただ目の前で炎に呑まれ行くヘスター・アッシャーを薄れゆく意識の中、見届ける他になかったのである。
しかし。
信じられないことが起こった。
最後に見たその一瞬の光景は、この悪夢のようなフラッシュバックの中でも取り分け鮮明で、悶え苦しむ担架の上ではもちろん、事件から二ヶ月経った今も色褪せることなく目蓋の下で再生できるものだった。
――焔が。
ヘスターの身体を、まるでドレスのように包んで行く中で。
白い肌を焼け焦がすわけでも、赤く爛れさせるわけでもなく。
そっと舐めるように触れ、その痕は残ることは一切なく。
ただまるで炉にくべられた白磁のように、より一層滑らかな白い光を放たせる。
――そう。
ヘスター・アッシャーは焔に愛され、その安らかな眠りに就いていた――
バックスのタバコから灰が落ち、シーツを汚す様を、紺の裏窓だけが見ていた。
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