裏窓 (3)



後に取り残された二人。


静寂が、金色の塵と共に包み込む。


バックスはタバコをい、手元の灰皿に灰を落とし続けていた。そして器用に吸いさしのタバコを咥え込むと、片手でチョコレートの包み紙を開こうとする。しかしそちらのほうは不器用なのか、悪戦苦闘していた。


「はいどうぞ」


見かねたアリーナが至って自然な様子で包み紙をほどいてやると、バックスは無愛想に「ありがとう」と言い、チョコレートに貪りついた。犬のようで、子どものようでもある。


無作法なものだから、口の端にチョコレートが付いている。綺麗好きのアリーナが無意識に身を浮かすと、バックスは反射的に紙の切れ端でゴシゴシと拭った。


「で――調子はどう?」


アリーナが躊躇ためらいがちに言った。その視線の先には空虚な、垂れ下がった袖がある。


「まあまあだな。リハビリは定期的で面倒だし、担当医も辛気臭いイヤなヤツだが、そこは流石俺、右手左脚だけで上手く松葉杖を使って歩けるようになったし、バランスを崩した際の受け身もとれるようになった。そして何より杖を突き突きでも息切れしない」


「順応性があるのね」


そしてアリーナは、山積みになった灰皿をチラリと見ると、


「あまり規律ルールには馴染めていないようだけれど」


病棟の廊下には禁煙の立て札があった。病室も、言わずもがなである。


「ああこれか?」


バックスは悪びれる様子もなく、肩をそびやかした。


「ここの喫煙所は階段を六十段も下った先の一階にしかないんだ。俺は半身不随だし、這って行ってもしんどい。如何なる規則にもケースバイケースの例外があり――法の番人には柔軟性も不可欠なんだ」


「で、巡回の看護婦長にビクビクと怯えてここで喫っているわけね」


アリーナは立ち上がった。コーヒーを淹れてやろうとしたのだ。


「あなたがもう少し生真面目だったら、階段のところで行き倒れていたでしょうね――まあ、ほどほどになさいな」


「ご忠告感謝するよ」


バックスは陰に籠ってそう言うと、身をよじらせてサイドテーブル上の新聞を手に取った。王都ではごく一般的な、最大手新聞の朝刊だ。一面にはあのヘスター・アッシャー――美しくも、アリーナにとっては邪悪の象徴でしかないポートレートが、無表情に刷られていた。最も公正且つ知的とされる〈ヘリア・タイムズ〉も、タブロイドから写真を購入していたのだ。


「いよいよ明日ね」


アリーナが言った。


ケトルがあるのは部屋の隅で、アリーナは裏窓の方を向いていた。アリーナ・フェイスフルは焦点の合わない虚ろな眼をしていたが、自分の背後で起きていることも全て把握している風に話すことが多々ある。その度に、バックスとシャロン以外の人間はギョッとする。


バックスには見えないが、西日をもろに受け、心なしか表情の強張こわばっているアリーナは、まさに金色の彫像そのものだった。


「あの娘――ヘスター・アッシャーの裁判」


「ああ」


バックスはまるで世間話に耳を傾けるような相槌を打った。


「どこの新聞も、そのことを書き立てているな」


「私ね、バックス。明日の裁判で、ホールの警備に回されることになっているの。ほら、傍聴席も過去に前例がないほど膨れ上がっているから――まあ増援ね。場所は陪審員席入口」


「ああ、親父から聞いている。親父も一緒にだろ」


バックスは至って何気なく言った。


「なんでも陪審員に〈地獄火連盟ヘルファイア・ユニオン〉のレナード・ヘルも選出されているそうじゃないか。一大コンツェルンの長も参列するとなれば、おまえらが駆り出されるのも納得の警備体制だろう」


アリーナは答えなかった。


コーヒーの粉末をカップに入れ、湯を注ぐ手が止まった。


やがて口を開いた時に漏れ出て来たのは、低く思い詰めた調子の声音だった。


「これで、すべてが終わるのよ」


バックスは紙面から顔を上げた。


逆光の中のアリーナの後ろ姿は、どこかやるせない感情に震えているかのように見える。


「私はあの娘をゆるせない。あなたの身体の自由を、名声に満ちた保安官人生を、輝かしい法の番人としての未来を、私たちコンビの栄光のみちを、いかなる理由であれ、放火なんていう卑劣な手段でいとも容易たやすく踏みにじって行ってしまったあの娘を、私は――」


「アリーナ」


バックスがたしなめる口調で遮った。


「卑劣かどうか、またあの娘が犯人かどうかは明日の裁判で初めてハッキリすることなんだ。今言っても何も始まらないし、それは予断だ。仮にあの娘が放火の張本人だったにしろ、おまえや、あのいけ好かないバージット・ゲーブル=テンペの意見を無視して火の海に飛び込んだのは、他ならぬ俺自身の意思だ。もちろんおまえには迷惑を掛けたが、俺自身に関しては自業自得というヤツで――」


「綺麗ごとね」


アリーナはバッサリと切り捨てた。


バックスは構わず続けた。


「それに俺と組まずとも、おまえは有能だ。近い将来、今を越える名誉と実績を築き上げることだろう。片腕片脚を失った俺に構わず、さっさと次の相棒を――」


「――もう無理なのよ」


アリーナはボソリと言った。


バックスは眉をひそめて、


「ん? 何か言ったか? 声が小さくて聴こえなんだ」


「いえ何も。ただね、一つだけ私に言えることはね、いかに明日の裁判でヘスター・アッシャーに極刑が下ろうとも、私の気分が晴れることはなく、更に死刑執行までの限りある時間を死よりもなお辛い生者の苦しみを、存分に味わってもらうことを願っているということだけね。いかに保安官らしくないとお説教を食らわせられても、それだけは揺るがない」


バックスは複雑な面持ちで、憤怒に打ち震える相棒を見ていた。


アリーナは自分とは何から何まで違う。


冷静沈着で、規律にうるさく、潔癖。


しかし両者を最良の相棒として繋いでいたのは、その決定的な違いの数々と、ただ一つの共通点――それはお互いに頑固者で、自分の信念は梃子でも揺るがないという点だった。


アリーナは「美しすぎるほどに表情がない」と評される人物だったが、良き戦友としてバックスは知っていた。冷静な仮面の下には常に激情がほとばしり、抑制の裏の炎が燃え上がっていることを。


そして往々にして、自制心の強い人間ほど決壊したあとの爆発力が凄まじい。


例の日以来、アリーナにはその傾向が顕著に見られる。


バックスはいち早くそれに気付き、密かに心配していたが、アリーナはそれを望んでいなかった――だから知らぬ振りを、お互いにしていた。


ようやく落ち着きを取り戻したアリーナは、抑え切った口調で続けた。


「ただ、明日の裁判は、もしかするとすんなりと終わらない可能性があるの。つまり明白な刑罰が確定されず、次回の審議に持ち越されるってことね。証拠が不充分なのよ――館の床が綺麗さっぱり抜け落ちてしまった所為せいで」


アリーナはふと口を噤み、色の無い眼をまっすぐとバックスに向けた。


「バックス。あなた、何か隠しているでしょう」


バックスは何も答えなかった。


裏窓は閉まっていた。しかし両者の間には冷たい隙間風が吹き抜けたようだった。


「あの晩、あの燃え盛る屋敷の中であなたは何かを見て、何かを胸に内にしまった。それが審議に大いに関わるものだとは思わない――だとしたら、あなたはそれをきちんと報告するはずだもの。恐らく、客観的に見たらどうでもよいこと。でもあなたにとっては何か気掛かりで――だからこそ秘密にしている」


「――どうしてそんなことを?」


「当たり前でしょう? 相棒だからよ」


アリーナは、この上なく確信に満ちた口調で断言した。


そして何も答えようとしないバックスを一瞥して、ふと口許を綻ばせると、


「まあいいわ」


と言って、湯気の立つコーヒーカップをサイドテーブルに置いた。


「あなたは口の軽い、頑固者ですもの。話したいことはペラペラと話すし、逆に言いたくないことは拷問の恐怖を前にしても口を割らない。私は、あなたの見たものは明日、すべてを終わらせるための手がかり――いや、必要不可欠な材料だと信じてる。だから、そのことだけは胸に留めて――その気になったら、話して」


「どうして――」


繰り返されるバックスの呟きに、アリーナは自嘲的な笑みを浮かべた。


そして彼女もまた、同じ言葉を吐くのだった。



「当たり前でしょ。相棒、だからよ」




金色の裏窓だけが、二人を見ていた。



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