裏窓 (1)


ヘリア国家保安警察王都病院。


病棟のリノリウム張りの廊下を、コツコツと踵が打つ。


スラリと背が高く、紙袋一杯に生活雑貨を入れた女――その双眸はまっすぐと前を見据えていたが、何を思っているかは白い靄に隠されている。


大理石の彫刻がそのまま動き出したかのような姿に、すれ違う者はぎょっとする。


その実、アリーナ・フェイスフルは密かに心躍っていた。


相棒のお見舞い。


断じてその惨めな姿をせせら笑いたいのではない。ただその顔を見ると不思議と心が休まる、純粋に嬉しい。


世間ではそれを恋と言い、周囲もそう信じて疑わなかったが、肝心の当人たちは朴念仁を貫き通していた。数多の犯罪者たちの魂胆を見抜いてきた彼等らしからぬ鈍重さとも思えるが、直属の上司曰く、


「いくら視力が良いからといって、自分の眼球が見えるわけでもあるまい」


人間なんて、得てしてそんなものなのかもしれない。


やがて突き当りの扉の前に立つと、中から談笑する声がする。


アリーナは、中身をひっくり返さないように用心深く紙袋を持ち変えてノックした。


声が止み、野太い胴間声が返って来る。


「開いている」


アリーナがドアを開けると、まず西日の強烈な眩しさが、次いでタバコとアロマの入り混じったむせ返るような匂いが彼女を襲った。そしてようやく眼が慣れてくると、入院用のスライド式の寝台にもたれ掛かる皮肉な笑みと、その傍らに佇むピンと背筋を伸ばした初老の男の姿が飛び込んでくる。


「随分と遅かったな」


病床の男は、分をわきまえずタバコの煙を吐き出しながら言った。


「あらご挨拶ね」


アリーナは言った。


「これでも定時きっかりに仕事を終わらせて、すぐに雑貨店に行って買い込んできたのよ。誰かさんのお使いの量が多いから――私は有能よ」


「そうだ、彼女は有能だ」


もう一人の男が、グイと顎をしゃくった。


「一日中ゴロゴロして、監視の目を盗んではタバコを喫ったり酒を呷ったりしているおまえと違ってな」


「そりゃねェぜ、親父。俺は名誉の負傷をした英雄なんだ。もう少し労わってくれても、罰は当たらないと思うぞ」


「殉教者気取りは死んでからにしろ」


初老の男は鼻で笑った。


「少なくとも、テンペ課長はそう言うだろうな」


横たわる男――未だ包帯でグルグル巻きになり、あちらこちらから生々しい火傷の痕が見え隠れしているのは、言わずもがなのデュラント・バックス。


もう一人はバックスとアリーナの直属の上司で、あの無礼なバックスをして「親父」と呼んで慕うリヴァーズ・シャロン部長保安官だった。


リヴァーズ・シャロンは五十八歳。二年後に定年を控えた大ベテランで、小柄な体躯の割にやけに長い馬面といい感情の起伏をあまり表に出さないポーカーフェイスといい、キャリアと功績に裏打ちされた模範的な保安官のように見える。しかしその人生は波乱万丈で、それこそが捻くれ者のバックスを手懐けた一番の要因といっても過言ではない。


ヘリアは島国で、今でこそ島内唯一の国家として認識されているが、つい半世紀ほどまではもう一つ国があった。


――プルジア公国。


文化も宗教も違うこの国は、ヘリアの最も長き縁の隣人であり、最大の禍根の種だった。セントザヴィエ地方より北がプルジア、南がヘリア領だったわけだが、五年前に戦争が勃発。ヘリア人もプルジア人も見た目には然程変わりはなかったから戦局は混迷を極め、結果プルジアの自滅という形で幕を下ろしたものの、その代償は両陣営にとって余りあるものだった。


戦勝国ヘリアを宗主国とする連邦国家の樹立は、即ちプルジアの実質的な滅亡を意味していた。ヘリア側にも吸収による統治の混乱、溢れる難民や傷痍軍人など多くの問題が降り、治安や経済の面でも大いに困窮した。故にヘリア史上初の勝者なき戦争として知られ、「先の大戦」といえばこの〈普赫ふかく戦争〉を意味する。


そのような経緯から、ヘリアにはプルジア人を一段低く見たり、忌避したりする心理が存在した。


しかし多くの植民地を抱えるヘリアにとって人種差別政策を全面に打ち出すわけにも行かず、以来プルジア人はまつろわぬ民として、しこりのように生きることを余儀なくされていた。



そして――リヴァーズ・シャロンはプルジア人で、それを隠そうともしない稀有な人物だったのだ。


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