アッシャー家の崩壊 (4)
アシェロン署のあるハイストリートからアッシャー邸までは、サイレンを鳴らした車で十分と掛かりはしない。しかしその道すがら夜風に漂う焦げ臭さと燃えカスの数々が、火事の激しさを物語っていた。真夜中だというのに路上には人で溢れ、皆一様に野次馬根性も丸出しで屋敷の方を見ていた。
人の波を押し退けようやく辿り着いたバックスとアリーナの目の前に広がっていたのは、炎に包まれ炉と化した荘園だった。窓という窓から火の手が上り、宵闇を夕暮れのように照らしている。
人だかりの最前列、赤い光源の前においてなお蒼褪めた様子がよく見て取れるのはエミリエ・アッシャーと、バックスとアリーナにはまだ面識のない医学生らしい身なりの若い男だった。肩をしっかりと抱き寄せ、共に呆然と立ち尽くしている姿から、男が話に聞く血の繋がらない弟であることは明らかだった。
恐怖、戸惑い、心配――あらゆる感情が渾然一体となって、顔面の鋳型の中に収まっていた。
「ミス・エミリエ・アッシャー」
アリーナが職務的に言った。
「先ほどはどうも。ヘリア国家保安警察のアリーナ・フェイスフル、そしてこちらがデュラント・バックスです。そちらはご家族の方ですね」
男は強張った表情で頷いた。
「弟のフェリックス・アッシャーです。ああ保安官さん、なんとかしてください! 私と姉と使用人たちは皆逃げ出せたのですが、母と妹がまだ中に!」
「シルヴィエさんとヘスターですね」
とアリーナ。
「二人の寝室はどこだ」
バックスは短く言った。彼はもう経験則でこの時間、老女と少女はもう床に就いているということを知っていた。
「母の部屋は三階の東端――階段の左奥です。ヘスターの寝室は別の所ですが、恐らく隣の書庫に閉じこもっているものかと――」
「書庫? なんだってそんな所に」
バックスは訝し気に眉を上げたがすぐに、
「まあいい。事情は後で訊く」
消防団による消火活動に限界を見て取ったバックスは、すかさずバケツの水を頭から被った。彫りの深いゴツゴツとした顔が、炎に照らされヌラヌラと光っている。
「バックス、あなた何を――」
「決まっているだろう。助けに行くんだ」
何の臆面もなくそう言い切る相方に対し、アリーナは声を荒らげた。
「何を言っているの、バックス。待ちなさい、危険すぎるわ。テンペ課長の到着を待ちましょう。独断での行動は職務規定違反よ」
「あんなババアなんてクソ食らえだ」
バックスも負けじと吠え返した。
「始末書なんて今までいくらでも書いてるさ。この危機的な状況が見て分からねェのか、屋敷はあと五分かそこらで倒壊するぞ」
アリーナはなるたけ声を潜めて、
「だとしたら、二人が生きている可能性は余計に――」
「いや生きているね」
バックスは決然と言った。
「少なくとも一人は。俺のカンがそう言っている――じゃあ行くぞ」
「待って、バックス!」
アリーナの必死の制止を振り切って、バックスは地獄の門と化した表玄関へと消えて行った。アリーナの乳白色の瞳に、焔と慄きの色が浮かぶ。彼女は一歩も動けずにいた。
ようやく我に返ったのは、背後から刃物の切先のような鋭い言葉が掛けられた時だった。
「フェイスフル保安官!」
バージット・ゲーブル=テンペだった。
「バックスはどうした、姿が見えんぞ」
その問い掛けに、アリーナはただただ呆然と燃え盛る屋敷の方を指さすことしかできなかった。
そのほっそりとした指先を猛禽のような眼で睨め付けていたテンペは全てを察し、ただ一言、「あの痴れ者め」と吐き捨てるように呟くと、
「構わん、フェイスフル。おまえは地元の消防団と連携し消火活動に当たれ。バックスの件は――私に任せろ。火の勢いが止み、突入が可能になり次第、私が向かう」
鎮火の目途が立ったのは、それから半時間ほど過ぎた頃だった。
焔の緞帳が上がり、闇に融け込む炭化した柱が姿を現した段になってようやくテンペは指示を出し、地元警察の数人と突入作戦を決行した。自分も同行すると懇願したアリーナだったが、その願いは無碍にも却下された。精神状態を鑑みて、足手まといにしかならんというのがテンペの言い分だった。
やがて再び屋敷の前庭に姿を現したテンペの背後には、二つの担架があった。
一つはヘスター、もう一つはバックスで、アリーナは人知れず胸を撫で下ろしたが、シルヴィエ・アッシャーの姿はどこにも見当たらなかった。
制服の煤を掃いながら、テンペが冷酷に言った。
「ヘスター・アッシャーは軽傷、デュラント・バックス保安官は生憎重症だ。バックスを重点的に応急処置。間もなく王都からの搬送車両が到着するから、それに二人とも乗せろ。後の治療は王都の警察病院で行う」
それは違和感の有り余る采配だった。
最寄りの病院ではなく、わざわざ最短でも一時間半は離れた王都へ搬送するとは、一体どういう了見なのだろう。
ヘスターはまるで眠っているかのように無傷で安らかだったが、バックスは違った。身体のあちこちが焼け焦げ、苦悶の表情を浮かべのたうち苦しんでいる。
見かねたアリーナが問い質そうとしたその時、槌の一撃を思わせる低く威厳のある声が掛けられた。
「いったい何の心算だ、保安官」
アリーナとテンペが一斉に振り向くと、燃え盛る梁を思わせる堂々たる女性が立っていた。その傍らには綺麗だが生命力に乏しい女性がまるで守護霊のように控え、心配と好機が半々の表情を浮かべていた。
赤毛の女性はテンペにグイと歩み寄り、頭一つ違う高みから見下ろしながら言った。
「特にそっちの制服姿の男は、一刻を争う状況だということが分からないのか? 近くには医療設備もしっかりとしたマルグレイヴ・サナトリウムもある。そちらへ搬送するのが当然だと思うが――どうです保安官?」
ゲーブル=テンペは軽侮の念も顕に、挑みかかるような一瞥を与えて黙殺した。
「あそこは専門的な外科医がいないのでね」
「それが理由ならば心配ご無用。私は医者で――」
「これは国家保安警察の案件だ。申し出は感謝するが、どこの馬の骨とも分からない人間に任せる訳にはいかんのだ。ご理解とご了承のほどを申し上げる」
「ヘリア陸軍セントザヴィエ基地配属、アイラ・ドレイク大尉」
女は不意に朗々たる声を張り上げた。
「さあこれで身許は明らかにした。私は軍医で仕事柄、重傷患者の外科手術を数多く行っている。同じ国の治安維持に関わる者として志は一つ。実に適切な助っ人ではないだろうか」
「ドレイク――アイラ・ドレイク――ああ」
何か思い当たる節があったテンペは、ニタリと口の端を歪め、出来る限り柔和な声音を装った。しかしその努力の分と反比例して、余計にグロテスクさと残忍性が際立つというのだから、彼女は相当な傑物だった。
「これはこれはアイラ・ドレイク大尉。自己紹介どうもありがとう、お会いできて光栄だ。私はヘリア王国国家保安警察公安七課課長バージット・ゲーブル=テンペ。どうです大尉、軍医に専念されてのお仕事は。最後にあなたの名前を耳にした時、あなたはまだ研究者として知られていた。ライオネル法相の就任直後で、私の公安課長としての初職務だったからよォく覚えているよ」
「お覚えいただき恐悦至極に存じます」
大尉は面白くもおかしくもないという顔をした。
「私もあなたのことは知っているし、仲間内でもバージット・ゲーブル=テンペの名は広く知れ渡っている。高名か悪名かは、そちらの判断に任せるが」
「そのお仲間というのが、一体どういう素性の連中かは大いに職業的関心を惹かれるところではあるが」
テンペは今にも喉元に食らいつきそうな勢いで、ツカツカと詰め寄りながら言った。
「無駄口を叩いている暇はないし、私の考えは変わらん。これ以上邪魔をするようならば公務執行妨害でしょっ引き、おまえは再び日陰へ追いやられることになるぞ、ドレイク大尉」
「お言葉だが」
アイラ・ドレイクも引き下がらなかった。
「ヘリア憲法により人命尊重の理念は保証されているし、軍法刑法双方において有事の際の越権行為は認められている。それでもお分かりいただけないようなら――」
「お分かりいただけんな。百歩譲って、この半焼け《ミディアム》で虫の息のデュラント・バックスの身柄を貴様に預けたとしよう。しかしこっちのヘスター・アッシャーは、この大火事の重要参考人で、見たところ大した外傷もない。私はすぐにヘスター・アッシャーを然るべき監視下に置かなければならない」
――ははあ、分かってきたぞ。
アイラ・ドレイクは思った。
――バージット・ゲーブル=テンペの狙いは、ヘスター・アッシャーだ。
「しかしこうした火災現場において、目立った外傷はなくとも呼吸器官等に深刻な被害が及んでいる危険性が――」
「いい加減にしろ、この出来損ないの軍人風情が!」
猟奇的な法の番人は、凶暴性も剥き出しに吠えた。手には黒光りする鉄の塊が――小型だが殺傷能力の極めて高い拳銃が握られていた。
「今すぐこの場を立ち去れ。さもなくば――」
「なあアナイス」
全く動じず、少し眉間にしわが寄った程度のアイラ・ドレイクは、傍らの薬剤師にうんざりとした調子で言った。
「私、面倒くさくなってきた。てっとり早く済ましてもいい?」
「さあ、知ーらねっ」
アナイスは意外にもぞんざいな言葉遣いで返す。
「『止めておいた方がいいわよ』とはアドバイスしておくけれど、言っても聞かないでしょう? だからわたくし、知らんぷりするの。止めたからね一応――あとは知―らねっ!」
「何をゴチャゴチャと――」
未だ呪いの言葉を吐き続けるテンペに、アイラは一層距離を詰めると、瞬時に体制を整え、鳩尾に重く鋭い突きを一発お見舞いした。
虚を突かれたテンペは妙なうめき声を上げ、その場にドサリと崩れ落ちた。
「さあ邪魔者は静かになった!」
アイラ・ドレイク大尉の顔は、心なしか晴れ晴れとしていた。
「二人を早くマルグレイヴ・サナトリウムへ! 特に男性――ええとデュラント・バックス保安官の
「ごめんなさいね、騒々しくって」
呆然と石のように立ち尽くしているアッシャー
「でも彼女、わたくし達の仲間内では静かな方なんですよ、これでもね。でも安心なさって、腕は超一流ですから。ヘスターちゃんはきっとすぐに良くなりますよ。そしてお母さまの件に関しましては――ご愁傷さまです」
アリーナ・フェイスフルはその光景をひたすらに見守り続けることしかできず、アシェロンの街の夜は更けて行った。
かくしてアシェロンの街の名家アッシャー家は、一夜の内に崩壊した。
屋敷は全焼。死者は一人、怪我人二人。
シルヴィエ・アッシャー享年六十の喪失は、血によって結び付けられていなかった家族の絆を元通りバラバラに解きほぐしてしまった。
フェリックス・アッシャーは院長の好意により、マルグレイヴ・サナトリウムの住み込み研修医となり雨露を凌いだ。
マーク・アッシャーは継母の訃報を粛々と受け止め、簡素な葬儀に参列したのち、元のセントザヴィエのじめじめとした士官生活へと戻って行った。
意外にも一番ショックが大きかったのはしっかり者のエミリエで、事件後はしばらく口も利けなかった。やがて彼女は財団の権利を他人に譲り渡し、自身は最低限の取り分だけを持って、アッシャー家の別荘群の中でも一番裏ぶれて寂しい場所にある屋敷へと引き籠ってしまった。母に付き、若手実業家として活躍するかつての彼女の姿は、どこにも見られなくなっていた。
そしてヘスターは――
マルグレイヴ・サナトリウムでアイラ・ドレイクの治療を受けた後、やがて意識を取り戻したバージット・ゲーブル=テンペの冷徹な監視下に置かれることとなった。
数日後。
実業家シルヴィエ・アッシャーの死は大々的に報じられたが、程無くして更なるビッグニュースに人々の関心を根こそぎ奪われてしまうこととなる。
末っ子のヘスター・アッシャーが、継母殺しの放火殺人犯として逮捕されたのだった。
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