アッシャー家の崩壊 (3)
ヘリア王国国家保安警察アシェロン署の宿直室。
普段は平和なこの街にあって、夜勤の保安官たちが暇を持て余す部屋として知られているが、この日ばかりは王都からの視察団の宿泊用に幾分か綺麗に整えられていた。
しかしそんな好意も空しく、灰皿にはもう既に吸い殻の山が築かれ、こぼした灰が散らばっていた。
此度の任務の責任者はバージット・ゲーブル=テンペだった。
彼女は怒りに任せてタバコをもみ消すと、また一つ乱暴に灰皿の方へ放り、獣のような声で吠え立てた。
「ダァッ畜生――あのクソ小娘! こちらが世間一般のしきたりに則って握手を求めてやったら、こんな猪口才な真似をしやがって。
そう言うと、救護班からふんだくってきたオレンジ色の膏薬を、赤く爛れた右手にベタベタと塗りたって行く。薬品の刺激臭がいま一つ部屋の悪臭に加わった。
バージット・ゲーブル=テンペは、どう控えめに見ても堅気らしくはない。片方の髪を編んで垂らし、残りをワックスで掻き上げている。任務中に負傷した顎を支えるためのチェーンを猿ぐつわのように咬み、こめかみから首筋に掛けてはグロテスクな模様の刺青が目立つ。
公には公安七課課長の肩書を持っていたが、公安の慣例としてその経歴、職務内容は共に深い闇に覆い隠されていた。ただ下手な政府のお偉方よりよっぽど発言力があり、また本人もその権力を誇示することにやぶさかではなかったから、時々現れては戦慄を撒き散らす、いわば凶兆のような存在として認知されていた。
そんな上司の罵詈雑言を冷ややかな目で見つつも、包帯を片手に献身的な態度を見せていたのはアリーナ・フェイスフル保安官だった。デュラント・バックス保安官とのコンビは若手随一の検挙率を誇り、王都でも注目のホープだった。二人は共にその実績を買われ、一匹狼のゲーブル=テンペのお守りという有り難からぬ栄誉に預かっていた。
「痛みますか」
スラリと背の高いアリーナが身を低くしたところで、椅子に座っているただでさえ小柄なゲーブル=テンペとの目線の差は然程縮まらない。アリーナは幼い頃患った病気ゆえか、両眼がオパールのように白濁しており、感情が驚くほどに読み取りにくい。
「まあね」
ゲーブル=テンペは言った。
「骨折り損のくたびれ儲け――いや『火傷儲け』だ、我慢ならん。やっぱりガセだったか、あの情報屋の小娘め、次に会ったら容赦しねェ」
再びブツブツと毒を吐き始めた上司を、アリーナはそっとしておいた。
ほんの二、三日の辛抱である。これが終わったら長閑な田園風景のこんな不愉快な仮の上司とはおさらばして、いつもの平和な日常――煤と格差にまみれた都市で、バックスと『狩り』に勤しむことができる。屈強なやくざ者や非合法薬物の売人たちを組み伏せ、手錠を掛けるあの感覚が、堪らず恋しかった。
やがて「薬を仕舞って参ります」と言って部屋を出たアリーナを出迎えたのは、皮肉な笑みを絶やさない若白髪の目立つ男――『相棒』《パートナー》のバックスだった。
「お疲れさん」
署の廊下は禁煙なのだが、バックスはその看板の下で一服しながら、ゲーブル=テンペの暴言を盗み聞いていたらしい。手元の灰皿には吸い殻が何本か、着崩した制服からもタバコの匂いをプンプンとさせていた。
アリーナは感情も希薄に、淡々と返した。
そりゃ疲れたわよ、誰かさんが理由を付けてさっさと逃げ出してしまうんだもの。おかげであれからずっと、こっちは一人であの女の呪いの言葉にうなされる羽目になったわ」
「そう怒りなさんな。今度奢るからさ」
バックスは極めて軽いノリで言った。
「ってことは相変わらずか、あのババア」
「しっ、聞こえるわよ。『壁にテンペあり、天井にテンペあり』と言われる地獄耳なんだから――ええそうね、相変わらずね。あなたもそこにいるなら知っているでしょうに。意地の悪い」
「まあね。でもまあなんだ、俺も警察学校はおろか親からも教師からも、口も素行も悪いって言われ続けて育ったクチだけど、あのババアは格が違うね。世の中の不平不満を一身に受けて産まれてきたみたいだ――ホントに、何者なんだ?」
「さあ?」
アリーナは肩を竦めた。
「少なくとも私たちの上司のリヴァーズ・シャロンよりずっとエラそうで、実際に偉いっていうのは事実ね。なんでも先の戦争の戦後処理で、結構ヤバいヤマの捜査主任もとい隠蔽係だったって噂。政府直属の秘密部隊として、戦争中も数多くの危険な汚れ仕事をこなしてのし上がった」
「ほう」
バックスは筋張った喉を愉快げに鳴らした。
「俺が聞いた話じゃ裏社会の出で、司法取引の果てに悪行の数々を闇に葬った、『最も忠実な裏切り者』らしいが」
「意外と出自は悪くないって説もあるわね。代々政府お抱えの隠密の家系だとか、高貴なお方の嫡子だとか。まあああだこうだ言っても始まらないわよ、『秘密』こそ彼女の専売特許だもの。暴くも護るもお手の物」
「ああ、暴力は正義の
バックスは大仰に声を張り上げた。
「ババアの座右の銘だ。まったく、俺ら下っ端には手に負えんな」
「関わり合いになるのは最小限に留めておきたいものね。私はそう願ってるわ」
バックスはもたれ掛かっていた身をよいしょと起こすと、灰皿を床に置いて言った。
「さあ良い子のバックスはババアにおやすみを言って、さっさと立ち去るかね。ああそうだ、さっき街で良いブドウ酒を手に入れたんだ、お前も飲むか?」
「飲む」
アリーナは即答した。
「じゃあ決まりだ。後で俺の部屋に来いよ――くれぐれもババアは連れてくるなよ」
「誰が」
アリーナは笑って、
「オーケー、楽しみにしてるわ。じゃあ後ほど」
アリーナの形の良い尻が廊下の向こうへ消えたのを見届けると、バックスは一呼吸おいて慇懃にドアをノックした。
扉を開けた次の瞬間、署内の緊急事態を報せるベルがけたたましく鳴り響いた。すると、バックスの人を食ったようなにやけ顔も、ゲーブル=テンペの毒に満ちた独り言も形を潜め、瞬時に法の番人特有の引き締まった顔に切り替わる。
すかさず受話器を取り、手早くダイヤルを回したテンペは鋭い口調で詰問した。
「何事だ」
しばらく極めて無愛想で職業的な相槌が続き、「分かった。すぐに向かう」と言って受話器を置いたテンペに向かって、バックスが訊く。
「事件ですか」
「ああ」
テンペは手綱のような鎖をガリッと噛みながら言った。
「火事だ。場所は昼間の、あのクソ忌々しい小娘の屋敷。火の回りが尋常じゃなく速いらしく、もう屋敷は一面火の海だ。我々も行くぞ――聞こえていたな、フェイスフル保安官!」
バックスが驚いて隣を見ると、そこにはまるで魔法のようにアリーナが姿を現していた。彼女もまた、使命に忠実な猟犬の面持ちをしている。バックスが幾度となく見た、相棒としての顔だ。
「分かったならさっさと車に乗り込め。一刻の猶予も――ん、待てよ」
不意にテンペは口を噤み、何かを高速で思案している様子だった。やがて再び言葉を発したテンペの口許には、いつもの邪悪な笑み――謀略を賛美する表情が、色濃く浮かび上がっていた。
「考えを変えた。バックス、フェイスフル両保安官。おまえらは先に現場に向かい、待機していろ。私も一本連絡を入れたのち、合流する」
「ハッ」
踵を返して駆けて行く二人。
その背後でテンペの独り言が羽音のように鳴っているのを、バックスもアリーナも聞き逃しはしなかった。
「これは吉報だ。あの小娘がステーキになること以上に、この小旅行を実りあるものにできるやもしれん。あのイタズラにこの火事――これで辻褄が合う! ああ、正義は暴力の御名の下に!」
この悪しき雄叫びは、アリーナを後々まで苛ませることになる。
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