26】僕と沢瑠璃さんとおでんと -4
――けれどこの廃ビルは、今の僕には化け物に近しかった。なんせ、この一階に月明かりが届いているのだ。つまり、すべての階で床材の無い部分が大部分を占め、吹き抜け状態になっている箇所がいくつもあるということだ。しかも、
「っ」
階段の手すりに手をかけると、大きくたわいであわてて手を離す。錆びて脆くなっている部分がある。それらはどんな悪趣味なアスレチックでも絶対に設置しない仕掛けだ。
そんな危険が山とある所へこれから上がろうとしている、と考えただけで脳から血が降りてきて目眩がし始める。けれど、そんな所に沢瑠璃さんがすでに上がっている、と考えた瞬間、僕は力の限り歯を食いしばった。
自分に負けるな、自分なんかに負けるな!
必死に三階まで上がった時、ふいに上階から落ちてきていた階段を上がる音が途絶える。沢瑠璃さんが屋上へ着いたに違いない。
僕はもう無我夢中で階段を上がり、そして鉄骨の化け物の屋上へたどり着く!
――怖気がした。
月明かりだけしか頼れるもののない屋上には、たった一枚の床材も横たわっていなかった。両足がぎゅっとそろえられるくらいしかない幅の鉄骨が縦と横に寝かせられているだけで、靴底と接触できる領域はたったそれだけしかなかった。落ちどころが悪ければ、一気に一階――
ぐらっと視界が歪んだ。吐き気が爆発した。口を押さえて屈みこむ。
次の瞬間、そばにいたおでんが鋭い鳴き声をあげた。
僕の視界のすみに、人影がかすった。
「っ、っ沢瑠璃さん!」
吹き出しかけた酸っぱいものを反射的に飲みくだし、僕はあらん限りに叫んだ。
なんて所に。月明かりに照らされた一人の女子の姿が、鉄骨の向こう側に立っていた。なんてことだ、沢瑠璃さんはこの恐ろしい橋を渡っていったのか。
僕の声が届いたのだろう、沢瑠璃さんがはっと振り返ってくる。
「っ!? なんで、なんで司がここにいんのよ!」
司。沢瑠璃さんがそう呼んでくれたことに一瞬安心したけれど、振り返るというその行為だけで命取りになることに寒気がした。
「なんであんたがここにいるって聞いてるの!」
ダメだ、これ以上沢瑠璃さんを刺激しちゃいけない。僕は深く深呼吸して、できる限り声の抑揚を抑えた。
「沢瑠璃さん、こっちに戻ってきてくれないかな。話したいことがあるんだ」
「イヤ」
沢瑠璃さんはにべもない即答を返してきた。
「なんであんたの言うこと聞かなきゃいけないの」
「……謝りたいんだ。あの時、あんな言い方してしまったこと」
少しのあいだ沈黙があって、そして、
「分かった、許してあげる。もう忘れたわ。それでいいでしょ? だから邪魔しないで」
聞いたことのない、徹底して冷たい声。沢瑠璃さんは完全に僕を拒絶している。けれど、諦めるわけにいかなかった。
「沢瑠璃さ……」
「うるさい邪魔するな、おでんがすぐそこにいるの!」
おでんが唸り声をあげた。
そうして、僕もようやく気づいた。
沢瑠璃さんが進もうとしている鉄骨の先に、小さな影があった。僕はもう驚かない。その影は、黒ネコだった。
もう疑いようがない。沢瑠璃さんには黒ネコがおでんに見えている。黒ネコは沢瑠璃さんを鉄骨の先へ導こうとしている。
「やっと、やっとおでんと会えたのよ、あんただって分かってるでしょ! だから邪魔しないで!」
違う、そのネコはおでんじゃない。
そう言おうとした。
それを遮って、黒ネコが鳴いた。おでんの鳴き声とそっくりに。そして、鉄骨の先へ、その先には何もない先へ向かって歩きはじめる。
「あ、待っておでん!」
沢瑠璃さんがその後ろを追い始めた。もう足元も見ていない――
ダメだ。絶望で頭が真っ白になると同時に、僕は走りはじめた。もう落ちてもかまわないと思った。沢瑠璃さんに追いつけないくらいならもう落ちてもいいと思った。僕こそ足元を見なかった。沢瑠璃さんから目を離したくなかった。息を止めて、鉄骨の上をただただ走った。
沢瑠璃さんがバランスを崩した。突っ張った足の下には何もなかった。身体があっという間に鉄骨の外側へと倒れていった。
僕は――何も考えなかった。
跳んだ。跳んで、墜落しはじめる沢瑠璃さんの腕を両手でつかんでいた。
「沢瑠璃さん!」
タオルが干されるような格好になり、そこから沢瑠璃さんの重みで身体が引き込まれそうになって必死に足をばたつかせると支柱にその足が絡まった。
「っ、っ、っ」
沢瑠璃さんが声にならない声を上げている。その顔は恐怖で引きつっている。これは現実なのか。ブラブラと揺れる沢瑠璃さんはるかの向こうには暗闇で黒ずんだ地面が見える、こんな光景が現実なのか。
「さ、沢瑠璃さん、動かないで!」
僕は両手に力を入れ直す。重い! 人を吊り上げるのがこんなにも重いなんて!
でも離せない、この手は絶対に!
全身の力を込めて、沢瑠璃さんの身体を引き上げようとした。
その耳もとで、鳴き声がした。
黒ネコだった。
見間違えか。
笑っているように見えた。
次の瞬間、僕の体を白と茶の毛玉が飛び越えた。
それは一瞬の出来事だった。
黒ネコに飛びかかったおでん、おでんに飛びかかられた黒ネコ。その二匹が鉄骨の外、何もない暗い空間に飛び出していくと、鳴き声一つも上げず、あっという間に虚空へ消え去っていってしまった。
「……」
何かを言う間も、言える間もなかった。いない。二匹のネコは、あっという間にいなくなってしまった。
声を漏らしそうになった僕。その僕の手にずれる感触があって、一気に現実へ引き戻された。
目の前に、沢瑠璃さんの今にも泣き崩れそうな顔がある。
「つ、つかさ……」
「大丈夫! 絶対に離さない!」
僕は叫んでもう一度全身に力を入れなおす。けれど、体勢が悪すぎる……マズい、マズい!
その時だった。
「手を伸ばせ沢瑠璃!」
僕でも沢瑠璃さんでもない声がした。
顔を上げる。
そこに、鉄骨へ腹ばいになった理塚くんがいた。
「偶然っちゃ偶然なんだけどな」
一階まで降りきってから、理塚くんが安心しきった表情でそう言った。
「そこのフェンスんとこにあの地図が落ちてたから。それが無かったら、気づけなかったぜ」
僕は。
僕は、一言も発さずに全身全霊の力を込めて理塚くんにベアハッグした。感謝と友情と安堵を込めに込めて本気で、本気でベアハッグした。
「ぐえぇぇ……!」
「理塚くん、理塚くん、理塚くん……!」
理塚くんは運が良かった。彼の生命力が、僕の全力をほんの少しだけ上回っていた。
地面へ横たわりピクピクと痙攣している理塚くんのそばにひざまずき、僕はその手を握った。
「偶然なんかじゃない。僕には分かる。理塚くん、きみ、ずっと沢瑠璃さんを探してくれてたんじゃないの? じゃなかったら、こんな時間にこんなところを通らないよ」
「そうそうそうそうそうだから力いっぱい握るな骨が骨がぁ!」
残念ながら理塚くんは運が良かった。理塚くんの骨密度が僕の全力を上回っていた。諦めて手を離す。
「でも、ホントにありがと。僕だけだったら、あのまま落ちてたかもしれない」
「あ、ああ、沢瑠璃が落ちそうになったのが見えた時は俺もさすがに焦ったぜ」
「さすがに、ていえるほど冷静沈着な性格じゃないよね」
「……まあな」
上目遣いに睨んでくる理塚くん。僕がニコッと笑うと、理塚くんもやがて苦笑い気味に笑った。
「おでん……」
僕達のそばで呆然と座りこんでいた沢瑠璃さんが、ぽそりと呟いた。振り向いた僕を、見上げてくる。
「おでん……黒猫と落ちていった……」
僕は目を軽くつむった。そうか、あの一瞬の出来事、沢瑠璃さんにも見えてたのか。
あの二匹の姿は、あれから見えない。廃ビルの外へ飛び出していったのだから普通なら無事には済まないだろうけれど。
一つ確実に言えるのは、おでんは確かに沢瑠璃さんを守ったということだ。……いや、今回だけじゃない。今になって思えば、沢瑠璃さんとのおでん探しで、屋上に出たことはない。もしかしたらおでんは、僕たちの前にあえて現れて、屋上に上がらないようにしてくれていたのかもしれない。
おでんは沢瑠璃さんを守ってきた。次は僕が沢瑠璃さんを守りきる。
僕は目を開けると、沢瑠璃さんへ手を差し伸べた。
「沢瑠璃さん。行こう」
「え……?」
困惑する沢瑠璃さんの手を取って立たせる。
「おい織野、どこ行くんだよ」
「いいから、付いてきて」
行くべきところがある。そこへ行かないと、解決しない場所がある。
僕は、理塚くんの時と違って優しく、けれどしっかりと沢瑠璃さんの手を取りながら歩きだした。
湊川公園は、その名前のとおり湊川の縁沿いにある少し大きめの公園だ。
遊具の種類は多いから普段から子供たちの集い場になっているし、川沿いには桜の木が並ぶ遊歩道があって春には花見で賑わう。湊川公園の名前は知らなくてもこの地域に住む人なら「ああ、この公園!」となる。
この公園で、僕は滑り台から落ちた。同時に、沢瑠璃さんとも出会えることができた。
けれど、この公園で出会ったのは僕と沢瑠璃さんだけじゃなかった。
この公園の前に立った時、沢瑠璃さんは「イヤ……」と手を振り払う素振りを見せた。けれど「大丈夫」とその手をきゅっと握りしめると、沢瑠璃さんはすぐに大人しくなった。
そこは、湊川公園のすみだった。今は整備も進んだけれど、昔は雨が降ると砂が川へ流れ落ちて窪みがよく発生していた。それこそ、時には大きな水たまりができるほど。
そのすみに植えられていた木。いやそれは木じゃなく、苗だった。明らかに、最近植えられたばかりの苗。
僕たちはスマホのライトで照らすなか、その苗の前に立っていた。
沢瑠璃さんの顔は、青ざめている。
理塚くんの「おい、ここってもしかして」という言葉を背に受けながら、沢瑠璃さんを見つめた。
「……沢瑠璃さんがさっき見たのは、おでんだよ」
「!」
沢瑠璃さんの目が大きく見開かれる。
「沢瑠璃さんが今まで見てたのは、たぶんあの黒ネコだと思う」
「え、な、な、なんで黒猫のこと……」
僕はその問いには答えず、続けた。
「僕には、おでんが見えてた。聞いたわけじゃないけど、おでんはたぶん沢瑠璃さんに黒ネコが見えることと、独りぼっちだったことが心配だったんだと思う。だから、僕の前に現れたのかも。ね、おでん」
ゆるい風が吹いて、苗が少し揺れる。それは、おでんが頷いたようにも思えた。
「ここで沢瑠璃さんは、おでんと出会ったんだよね」
「……」
沢瑠璃さんは答えなかったけれど、それは頷いたと同じ意味に違いなかった。
僕は微笑んで、沢瑠璃さんの手を取る。
「もう一度、謝らせて。君をまた独りぼっちにさせてしまってごめん。大事なおでんにあんな言い方してごめん。でも、もう大丈夫。もうおでんはいないけど、これからは僕がいつだって沢瑠璃さんのそばにいる。もちろん、不肖ながら僕の友達の理塚くんも」
「おい、不肖って……」
「君は黙りなさい」
「はい……」
言葉だけでなく、この心も伝われ。そんな気持ちを込めて、沢瑠璃さんの手を、ぎゅっと握りしめた。
沢瑠璃さんはゆっくりと、僕とおでんが眠っている苗とを見回した。
そして。
「うっ」
小さな嗚咽。沢瑠璃さんの目に涙が浮かびはじめる。
僕は、にっこりと笑った。
「改めて、これからもよろしく!」
――沢瑠璃さんは、何かが壊れたように泣き叫んだ。その泣き声は、とてもとても痛い泣き声だった。
僕は、熱を帯び始める沢瑠璃さんの手を離さなかった。
一度は離してしまった、華奢なこの手を、もう二度と離さないと誓いながら。
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