26】僕と沢瑠璃さんとおでんと -3

 おでんが先に進む。振り返って僕を見つめる。僕はその後を追いかけておでんに追いつく。するとおでんはまた先へ進む。

 その繰り返しをどのくらい続けただろう。


 やがて、おでんが道路の先に見えたコンビニの駐車スペースへ入っていく。

 走って追いかけると、誰もいない寂しいコンビニ前の風景のなか、おでんが入口横に設置されているゴミ箱を引っかいていた。


 けっこう激しく引っかいているのに音がしない。目と耳の間で起こる奇妙なギャップに戸惑いながらそのそばまで近寄ると、おでんは前脚でゴミ箱を引っかきながら、僕を見上げてきた。


「……」


 その意図がなんとなく分かって、僕は店員さんに見つからないようにできるだけ身をかがめながらゴミ箱へ手を突っこんだ。そして指先にそれが触れた瞬間、僕はすぐに理解していた。

 ゴミ箱から取り出したもの、それは。


「沢瑠璃さんの地図……」


 それは、最後に見た時からかなりよれていてボロボロだったけれど、間違いなく沢瑠璃さんの持っていたあの白地図だった。


「おでん、偉い!」


 ナイスファインプレーにおでんを褒めながら、僕はためらわずに白地図を広げた。

 ――そして、おもわずゾッとした。

 白地図に描かれていた無数の赤マル、僕が最後に見た時でもまだ数は残っていたのに、それらすべてがよく分からないキャラクターのあのハンコにびっしりと押し潰されている。しかもそのハンコはねじ込むように捺されて潰れきっていた。

 執念だ。一途すぎる執念だ。いや、これはもう執念の域を通り過ぎて一種の狂――


「……ん?」


 ふと気がついた。

 よくよく見ると、たった一箇所だけハンコの捺されていない赤マルが残されている。


「あれ、待てよ……」


 その赤マルの位置に見覚えがある。……そうだ! たしか沢瑠璃さんが「後回し」と言ってなぜか避けたあの赤マルだ。

 僕はあわててスマホを取り出し、写真表示に切り替えた地図アプリで赤マルの位置を表示させた。


 ――それは、廃ビルだった。

 いや、廃ビルとすら言えないかもしれない。鉄筋と床材の一部が組まれたまでの状態で放置されてサビが浮き、剥き出しの地面から雑草が生え放題になった画像が、スマホの画面に映し出されていた。それは、人の住む街の中に取り残された廃墟だ。


 はっとする。

 この廃ビルは、つい今さっきおでんの記憶の中で見た、おでんが黒猫とケンカしていた場所だ。

 その瞬間、おでんが走り出した。


「あ、おでん!」


 白と茶の毛の四肢が音もなく道路へ飛び出していく。

 走っていく方向でおでんがどこへ行こうとしているのか、すぐに分かった。表示させたままのスマホの画面を見る。

「沢瑠璃さんがいるのは……!」

 僕もまた走り出した。



 人生で、一番走った。

 息が上がって苦しくて胸がつぶれそうだった。目の前がチカチカと点滅した。けれど、立ち止まれなかった。

 沢瑠璃さんが危ない。

 それが僕の頭の全部を支配していた。沢瑠璃さんがいるだろうその場所は、これまでの所とは違う。なんの安全性も保たれていない廃ビル、廃墟だ。一歩間違えば、そして運が悪ければ、怪我だけでは済まない。


「く、くそっ……サッカー部入っといたら良かったかな……!」


 あまりにも苦しくて、けれど立ち止まりたくなくて軽口を漏らして誤魔化す。

 おでんも焦れったそうにしながらも、僕を待ちながら先を走っている。

 けれどあと少し、あともう少し……

 見えた!


 緩やかな上り坂の先に、街灯の薄い明かりとおぼろげな月明かりの下に沈んでそびえるあの廃ビルが見えてきた。おでんはその前で僕の到着を待っている。


「はあっ、はあっ!」


 酸素が足らずぐらぐらと揺れる視界のなか廃ビルへ到着し、道路と敷地内を遮断しているフェンスにつかまりながら廃ビルの実物を目の当たりにする。


 ――これはもう、廃ビルでも廃墟でもない。ただ組まれただけの鉄骨と鉄材の群れだ。いずれは人が出入りするために建設されるはずだった五階建ての鉄くずは、放置された恨みを充満させたように人を寄せ付けまいとしている。なんでこんなものがこんな状態で捨て置かれているんだ!?


「ど、どこ、沢瑠璃さんは……!」


 僕の方が先に着いたかも、そんな希望にすがって周囲を見回して、すぐに失望する。重し石に差して並べられたらフェンス、その一ヶ所が無理矢理こじ開けられていた。


「く、くそっ!」


 その隙間に僕も身体を差し入れる。

 その時、先に敷地内へ入ったおでんが僕の前で初めて鳴き声を上げた。まるで誰かに届けようとする悲しげな声に顔をあげると、鉄骨の林の一番奥、薄明かりに照らされた階段に、二階へと上がろうとしている少女の姿があった。

 間違いない、見間違えようはずがない、沢瑠璃さんだ!

 ありったけの声で沢瑠璃さんの名前を呼ぼうとして、鉄骨の中で響いた沢瑠璃さんの叫び声に僕は耳を疑った。


「おでん、待って!」


 同時に僕は目も疑った。

 沢瑠璃さんを先導するように階段を上がっていく小さな姿、あれは――黒ネコ!?


「おでん、逃げないで!」


 沢瑠璃さんは自分の飼いネコの名前を呼びながら、なのに黒ネコの後を追って階段を上がっていく。


「沢瑠璃さん!」


 なぜ、なんで沢瑠璃さんは黒ネコを追っているんだ、しかもおでんと呼びかけながら――


「……あ!」


 突然だった。

 黒ネコを追う沢瑠璃さん、その姿が僕の記憶を呼び覚ました。

 僕が家の前で気絶した原因になった、マンション屋上に立つ沢瑠璃さんの姿。けれど、僕はその直前にネコの姿も見ている。はっきりと思い出せる、そのネコはおでんじゃなかった。あれは黒ネコだった――!


「もしかして!」


 沢瑠璃さんは見えてなかったんじゃない、見えていたのかもしれない、けれどそれはおでんじゃなくおでんと思っている黒ネコだったんじゃないのか。


 なんで黒ネコが沢瑠璃さんの前に現れているのか理由は分からない、けれどあの高層マンションの屋上まで沢瑠璃さんを導いた事実を考えたら、寒気の走る予想しかできない。

「沢瑠璃さぁん!」

 僕はたまらず走りはじめた。

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