26】僕と沢瑠璃さんとおでんと -2


 声が出なかった。

 この五日間、ずっと探し続けてそれでも見つけられなかったおでんがそこにいる。遠い街灯に薄暗く照らされたおでんが、僕を見ている。じっと見つめてきている。


 だから、僕がおでんを見つけたのではなく、おでんが僕の前に姿を現したんじゃないか、と思った。


 幽霊。


 その言葉が脳裏を過ぎて、ぞくりと背筋が冷たくうずいた。けれどそれ以上に、心の中を暖かい何かが満たした。

 だから僕は、小さい一歩を踏み出した。踏み出すことができた。


 小さく一歩。一歩。そしてまた一歩。

 これまでおでんは、必ず逃げ出した。姿をすぐに消していた。けれど今のおでんはその場に座ったまま、僕を見つめたまま、動かない。動かないでいてくれている。

 一歩、また一歩。また一歩。


 そして――。

 僕は、おでんを見下ろしていた。

 おでんが、僕を見上げていた。

 そんな距離でおでんは座ったまま、ただただ僕を見つめてきていた。

 ――おでんは、僕を受け入れてくれたのか。

 根拠のないそんなことが頭に浮かぶと、おでんに対する最後まで残っていた小さな恐怖心が溶けてなくなったのを感じた。


 だから。

 僕はかがみ込むと、柔らかそうな毛で覆われたおでんの頭へ手を伸ばした。

 その瞬間、僕の意識が飛んだ。


 ――そばに、母親だったかもしれない猫が死んでいる。

 ――空腹に耐えかねて、雨の中四本の足で歩き続ける。

 ――深い水たまりに落ちる。必死でもがく。

 ――すくい上げられる。

 ――巨大な生き物が何か音を発している。

 ――巨大な生き物に、抱きしめられる――


「っ」

 意識を取り戻した時、気づけば僕は手を引いていた。

 なんだ。なんだ今のは。

 すごくぼやけた映像のようなものを見た気がする。誰かの視点に立った、不明瞭な映像。けれどそれは僕の頭にはっきりと入ってきた。今のはいったい――

 はっとする。

 おでんが、変わらず僕を見上げている。


「もしかして、今のはお前の……」

 そこまで言って、またはっとする。

「今の、もしかして沢瑠璃さん?」


 幽霊といえネコに人間の言葉が分かるわけでもなく、頷くというボディランゲージがあるわけでもないだろうけれど、僕の言葉にゆっくりとまばたきをするそれが僕を確信させていた。

 今の映像は、沢瑠璃さんとおでんの初めての出会いだ。

 そう悟った僕には、またおでんの頭へ手を伸ばすことにためらいはなかった。

 そうして再び意識の飛んだ僕の前に、沢瑠璃さんとおでんとの回顧が生まれはじめた。


 献身的に面倒をみる沢瑠璃さんにおでんが警戒を解く日から始まり、初めて沢瑠璃さんに甘えた日が映り、初めて沢瑠璃さんと公園へ出かけた日を経て、沢瑠璃さんと楽しく遊ぶ日々が流れていく。

 時が経ち、やがて沢瑠璃さんの表情が暗くなり、心配する日々。

 そして、ビルの屋上へ上がる沢瑠璃さんの後を追いかけ、おでんを抱きあげる沢瑠璃さんが泣き叫んだ日が過ぎていった。


「……」

 ふと気づけば、僕はおでんの頭から手を離していた。

 そうだったのか。

 沢瑠璃さんがビルの屋上で何をしようとしていたのか、あまり想像したくない。けれどそれを止めたのはおでんだった。おでんは沢瑠璃さんにとって命の恩人だったのだ。だからだったのか、沢瑠璃さんのおでんへの偏愛ぶりはそこにルーツがあったのか。


 僕は一息ついたあと、覚悟を決めておでんの頭へ手を近づけた。知らなければいけない沢瑠璃さんとおでんとの過去がある。

 おでんは、僕の手を受け入れてくれた。


 ――沢瑠璃さんと散歩に出かけるおでん。

 ――気まぐれに沢瑠璃さんの腕から抜け出すおでん。

 ――縄張りに触れてしまい、黒猫に襲われるおでん。

 ――黒猫に喉を噛みつかれるおでん。

 ――半狂乱になって黒猫を打ちのめす沢瑠璃さんを見るおでん。

 ――動かなくなった黒猫を置き捨て、沢瑠璃さんに抱きかかえられるおでん。

 ――涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった泣き顔の沢瑠璃さんを見つめるおでん。

 そして。


「……次の日に、お前は死んじゃったんだね」

 僕は、おでんの頭をなでていた。なでながら、気がつけば涙で頬が火照っていた。

 沢瑠璃さんも、おでんも、そんな悲しい別れ方をするために一緒の時間を過ごしてきたはずじゃなかったのに。僕はこの時、初めて沢瑠璃さんの絶望的な喪失感を理解していた。沢瑠璃さんがネコを嫌いおでんだけを特別視した理由は、そこにあったのだ。


 沢瑠璃さんが、おでんを諦められるはずがない。まるで沢瑠璃さんの半身のようなおでんが死んだなんて、認められるはずがなかい。沢瑠璃さんを独りぼっちじゃないようにしてくれていたおでんを諦められるはずがなかったのだ。


「分かった。おでん、僕の前に現れてくれてありがとね」


 そして僕は流れた涙を袖でぐい、とぬぐう。すると、頬を火照らせていた熱が胸の奥へと乗り移った。


「おでん、一緒に沢瑠璃さんを探してくれる?」


 夜はさらに深くなり、街灯の届かない領域はもう真っ黒に沈んでいる。けれど、沢瑠璃さんを探すのは今しかない。

 すると。


「あ……」

 おでんがととと、と小走りに暗い道路を進みはじめた。

 それを視線で追うと、少し先へ進んだおでんが振り返ってきて、僕を見返してくる。

 それで理解する。おでんがどこかへ案内しようとしていることに。

「分かった、ついてくよ」

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