26】僕と沢瑠璃さんとおでんと -1

 それは、僕にとっては過酷で、けれど必死の五日間だった。


 上がった階数を合わせると、おそらく100階超。立ち入った建物はおそらく40棟超。注意された回数、不審がられた回数は13回。飲み干したペットボトルの数、8本。両親に怒られた回数、5回。うち1回は成績について。


 ――けれど、高所恐怖症からくる吐き気は6回。しかもそれは、初日に集中。尾骨から頚椎までを走る悪寒を抑えるまでには至らずとも僕は少しずつ、少しずつだけれど高所恐怖症をねじ伏せ始めていた。四日目には下半身を襲う筋肉痛に悩まされたけれど、それでも僕は必死におでんを探し続けた。

 ……けれど。



「きょ、今日はこのくらいかな……」


 膝を上げるのも億劫になるくらいに疲れ果てた僕は、ガードレールに手をつきながらペットボトルに残るスポーツドリンクを飲み干した。本当は座りたい気持ちだったけれど、座るともう立つことができない気がして断腸の思いで諦めた。


 腕時計を見ると、二二時を回っている。学校を出てからかれこれ六時間以上、休む間もなく歩き回っていることになる。

 ――今日もおでんを見つけられなかった。


「お、おかしいな……ちょっと甘く考えてたかなぁ……」


 沢瑠璃さんと探していた時くらいのおでん出現率なら、悪くても二日目には見つけられると思っていた。そのはずが、この五日間、おでんの尻尾の先どころかエンカウントする雰囲気すら感じられなかった。まったくの計算違いだった。


「い、いてて……」


 歩き過ぎと上り下り過ぎで膝の関節が痛い。身体にここまで悲鳴を上げさせるのもまったくの計算違いだった。

 けれど、ぎしぎしと痛む膝をなでながら僕は少しだけ笑う。

 一つだけ計算が違わないことがある。それは、


「よ、よぉし、明日に備えて帰ろう」


 僕の心はまったくくじけていないことだった。おでんを探し続ける、その意思に歪みはない。

 僕は、今日もまた超不機嫌の両親が待ってるだろう実家へ帰り始めた。


「けど、自転車も漕ぎすぎたらこんなに膝が痛くなるのかなぁ。……うわぁ! よく考えたら僕はなんで歩いて探してるんだ!」


 五日目にして気づいてしまった弩級の誤ちに薄暗い街灯が照らすなか腰が抜けそうになり、いや明日から自転車使って探せば元は取れる、と学校で学ぶ数学では決して成立しない計算式を完成させながら、僕はヨタヨタと帰り道を歩きはじめた。


 こんな、身体の芯まで疲れ果てている時、人はたぶん見知った道があれば選択肢を作る間もなくその道を選ぶんじゃないだろうか。少なくとも僕はそうだった。学校の帰りに使う道を見つけると、足は自然にその道を選んでいた。


 ――だから、この場所に来るのはある意味当然だった。

 ふとおもわず立ち止まり、そしてふとおもわず視線を巡らせてしまったこの場所は。


「……あぁ。そう言えばここだったっけ」


 おもわず呟いてしまったこの場所は、僕がおでんを初めて見かけた、どこにでもあるなんでもないあの道路だった。ぽつぽつと立っている街灯、舗装で少しがたついたアスファルト、立ち並ぶ民家、夜の暗闇に沈む軒先に並ぶ鉢植え。


 ここで初めておでんを見て、そしてここで初めて沢瑠璃さんと話したんだ。

 ふと興味がわいて、軒先ごとに並ぶ鉢植えを見てみる。


 あった。

 沢瑠璃さんの割った盆栽。元の場所に置かれていた。あの時との違いは、陶器だった鉢がホームセンターで売られているようなプラスチック製にランクダウンしていること、『部外者サワルナ!』と書かれた小さな立て札が新たに投入されていたことくらいだった。


「……すみませんでした」


 沢瑠璃さんが割った時のことを思い出して、僕は他人に見られたとき怪しまれない程度に小さく頭を下げた。

 沢瑠璃さんと正式に出会った場所、そしておでんを探すあのちょっと変わりつつも楽しかった沢瑠璃さんとの日々のスタートも、ここから始まった。

 今は、そんな日々も随分と前の出来事にも感じる。


 けれど、そんな日々は終わってしまったわけじゃなく、今はいびつな形に変わってしまってるだけで、その形がまた変わる時が来る。僕はそう信じる。だから、諦めない。おでんを探すことも、そしてなにより沢瑠璃さんを独りぼっちにさせないためにも。

「帰ろう」

 僕は歩き出そうと、顔を上げた。



 そこに、おでんがいた。



 ―――

 ――

 ―

「あ」

 と、呟いた。

 そして、

「あれ」

 と、呟いた。

 周りを見回した。

 数回、まばたきした。

 目をこすった。

 上を向いた。

 目をつむり、深呼吸した。

 大きく息を吐いて、心を落ち着けて、そしてもう一度前を向いた。

 そこに、おでんがいた。


 まるであの時のように、白と茶の毛のどちらがマダラか分からないそのネコとこの場所で初めて出会った時のように、おでんがそこにいた。疑ってしまいたくなる、けれど疑いようがなく、おでんがそこにいた。

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