24】 ……沢瑠璃

「ちょっと待ちなさい、穂花!」


 お母さんの怒鳴り声と肩へ伸ばしてきた手を振り切って、私は自分の部屋へ駆け込んだ。そして、ドアの鍵をかけて階段を登ってくる足音をシャットアウトしてやる。鍵は外からコインでも簡単に開けられるタイプだから、「こら、ちょっと開けなさい!」というお母さんの声も無視して、鍵のツマミをセロハンテープでがっちり固定してやる。これで私もこのドアから出入りできなくなったけど、窓から出てお隣の屋根沿いに降りるルートがあるから問題ない。


「お母さんは許さないわよ、学校行ってないなんて何考えてるの!」


 ゲームセンターの太鼓ゲーム並みにお母さんがドアを叩いてる。


「こら、開けなさい!」


 開けるわけないじゃない。ここは私の部屋。私とおでんの部屋。誰も入れさせなんかしない、おでんのことを何も理解してない人間を入れさせなんかしない。


 お母さんはひとしきり部屋の外で騒いだあと、「お父さんからも言ってもらうからね!」と捨て台詞を残して下へ降りていった。


 やっと静かになった、と私はベッドに倒れこんで、かつてはおでんと一緒によく寝ていた大きな枕に顔をうずめる。そして……私の匂いしかしないことに強い失望感が襲ってきて、より深く顔をうずめてしまう。前はほんの少しだけどおでんの匂いも嗅ぎとることができた。けど、今はもうその匂いも薄れてしまって、この部屋におでんがいなくなってずいぶんと経っていることを改めて認識してしまう。それを受け入れがたくて私は手と足をバタつかせる。そうしているうちに手と足のどちらかがおでんの体とぶつかるんじゃないかと思って。そんな奇跡が起きるんじゃないかと思って。


 けど、神様はそんな奇跡を置き去りにしてしまう。


「おでん。おでん。おでん」


 だから、私は名前を繰り返し呼び続けるしかできない。


 ――おでんは、私の命の恩人だった。

 言葉の綾でなく、ホントにそう思ってる。私が小さな時からずっとそばにいたのは当たり前だったけど、高二の夏、そのおでんがいなくなったことがある。家の中にもいなくて、家の周りを探してもみたけど、その姿はどこにもない。おでんはこの家から……この部屋から逃げたと思った。


 私はその夜、急に何もかもがどうでもよくなった。やっぱり私は一人ぼっちなんだと考えた途端、頭か心かあるいはそのどちらとものどこかがすこん、と抜けてしまった気がして、もうどうでもいい、と思った。だから私は部屋の窓から抜け出した(窓抜けルートはこの時確立した)。そして、近くのビルの屋上へ独りのぼり、しばらくぼーっとしてた。もちろん、自殺とかを考えてたわけじゃないけど、なぜだかとにかく高い所へ行きたくなったのだ。


 すると。

 いつの間にか、そばにおでんがいた。


 ビックリした。

 おでんは、もしかしたら私の後ろを追いかけてきたのかもしれない。もしかしたら偶然ここに居合わせただけかもしれない。もしかしたらずっとここにいたのかもしれない。

 けど、私にとってそれはどうでもよかった。


 おでんが私を見上げて、にゃあ、と小さく鳴いた。


 その途端。

 私は、泣いてしまった。

 自分でもビックリしてしまった。泣く理由なんか一つもないはずなのに。別に死のうと思ってここへ来たわけじゃないのに。

 私は泣いてしまった、おでんを抱いて。


 それから、私にとっておでんは特別になった。それまでも私にとって特別だったけど、それよりももっと特別なものになった。それが、命の恩人だった。だからこの部屋におでんがいないなんてことは、絶対に有り得ちゃいけない。


 けど、そのおでんは一ヶ月以上前からこの部屋へ戻っていない。あの日、おでんと散歩に出た日、あの腹立たしい黒猫と喧嘩してから。私パニックになりながらも近くに落ちてた竹の棒で黒猫をさんざん叩いて追い払ったけど、その時からいつの間にかおでんはいなくなってしまった。


 私は自分の半身を無くした気分、なんてものじゃない。心そのものを無くした気分だった。

 私はおでん探しを始めた。前のように高い所へ上ればおでんを見つけられるんじゃ、と思って。それは、正しかった。毎回とはいかなかったけど、何度もおでんを見つけることができたのだ。けど、なぜだか分からないけど、おでんはいつも逃げてしまう。いつもその姿をちらちらと見せるのに、屋上や屋根上まで上るとぱったりとその姿を消してしまう。


 なんでだろう、私はこんなにもおでんといたいのに、おでんはなんで私から逃げてしまうのだろう。

 そんな焦りばかりが募るところに、アイツを見かけた。


 織野司。


 初め見かけたときは偶然だと思っていたけど、何日か見てるうちに、アイツに猫がよく寄ってくるのを見て、アイツを利用しようと思った、最初のうちは。けど、アイツとおでんを探すうち、探すことが楽しくなってる自分に気がついて、私は独りぼっちじゃないんじゃ、と思えるようになった。


 けど、アイツは突き放してきた。

 おでんは死んだ、なんて言い出した。


 気持ちが切れるのはカンタンだった。実は独りぼっちのままだったことを理解するのはカンタンだった。


 もういい。

 誰も理解してくれなくていい。


 私は、おでんを探し続ける。そのために私がどうなったって興味がない。


「おでん。待っててね……ぜったい、お前のそばに行くからね……」


 私は、ベッドから起きあがった。

 こんなことしてる場合じゃない。おでんを探さなくちゃ。どうせもう少ししたらお父さんが帰ってきてドアの向こうからうるさくしてくるに違いない。だったら、こんな家にい続けたって意味がない。


 私は窓の鍵を外して、アルミのサッシへ手をかけた。

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