22】立ち止まって、しまった -3

「よし、行くぞ」

 沢瑠璃さんがふたたび歩きはじめる。一人で。


「今日こそおでんを捕まえるぞ!」

 沢瑠璃さんがそんなことを言う。一人で。


「もう遅れるなよ」

 沢瑠璃さんが歩きつづける。一人で。


 そして。


「今日は二ヶ所探すんだから」


 沢瑠璃さんが通りすぎた。一人で。


 いつのまにか道ばたに座っていた、一匹のネコのそばを。


「沢瑠璃さん!」

 気づけば僕は、大声をあげていた。

 その大声に、沢瑠璃さんは身体を飛び上がらせていた。

 そして僕もまた、自分の大声に体を飛び上がらせていた。


 まるで一瞬の白昼夢を見ていたようだった。瞬間の白日夢を見ていたようだった。僕は僕の大声にはっと我に返り、気づけば目の前には沢瑠璃さんだけがいた。一匹のネコはその影すら見えなくなっていた。


 間違いない。

 僕は確信した。

 間違いない。


 それは、そのネコは、今しがた忽然と消えたそのネコは、おでんだった。僕はおでんを写真でしか見たことがないけれど、茶白の毛並みが……いや見た目の判断じゃない、数瞬のあいだ目が合った、そのたった数瞬のはずの、けれど長くにも思える目の合ったこの時間が、そのネコが疑いようもなく間違いもなくおでんだということを伝えていた。


 けれど、沢瑠璃さんは……通りすぎた。疑いも間違いもなくおでんであるはずのネコのそばを、沢瑠璃さんは何一つ気づくことなく、自分の足のそばにおでんがいることに気づくこともなく、通りすぎてしまった。


 だから僕は。

 諦めた。諦めることを……諦めるしかなかった。


「び、びっくりしたー! なんなのよ、どうしたのよ」


 驚いた顔で振り返ってくる沢瑠璃さん。

 その沢瑠璃さんに、僕はなぜか自分でも分かるほどゆがんだ微笑みを返していた。


 ――沢瑠璃さんは、沢瑠璃さんもまた、おでんが見えていなかったのだ。これまでおでん探しをする中で、僕が見つけたおでんを沢瑠璃さんは追いかけていった。そう。沢瑠璃さんでなく、僕が見つけたおでんを。今思えば、沢瑠璃さんがおでんを見つけることがなかった。必ず僕が見つけ、そして必ず沢瑠璃さんは見失っていた。けれどそれは、追いかけたけれど見失ったのではなく、そもそもが見失うことすらしていなかったのだ。だって、沢瑠璃さんには、おでんが、見えていないのだから――


 その一瞬。僕は、心の中の何かを、ほんの一瞬、手放してしまった。

 だからだ。こんな言葉が口をついたのは。


「おでん。死んだんだよね」


 ――ああ。ああ、僕はなんでこんな言い方をしたんだろう。他にもまだ、沢瑠璃さんを傷つけない言い方があっただろうに。それを選んでいれば、一切の感情を失ったような、後で思い出すにもつらすぎる無表情の沢瑠璃さんを見ずにすんだだろうに――


「あはっ」


 沢瑠璃さんが、唐突に笑い声をあげた。それはあまりに明るい声で、つい今しがた浮かべた無表情がまるでウソかのようだった。


「くだらない、くだらなさすぎるぞ司。そんな冗談言ったらぶっコロすぞ? おでんが死んでるわけないじゃない」


 それはあまりにも物騒な物言いだったけれど、その言葉こそが冗談になるはずだった。普段であれば。


 僕は。

 笑うことすらできなかった。笑うことすらないまま、僕はまた尋ねてしまった。


「おでん、一ヶ月前に死んじゃったんだよね」


 今度こそ。

 今度こそ、沢瑠璃さんが凍りついた。僕の、あまりにもバカな問いかけによって。


 長かったのか、短かったのか。

 後になってももう思い出せない沈黙のあと、沢瑠璃さんはなんの感情もこもっていない声で、呟いた。


「――あんた、なにおかしなこと言ってんのよ」


 それは今までに聞いたことのない口調で、僕のことを「あんた」と呼ぶのもこれが初めてだった。その二つのことで、僕はすぐに理解した。沢瑠璃さんがこれまでになく僕から遠ざかったことを。


 けれど。

 バカな僕はもう止められなかった。


「沢瑠璃さんのお母さんに、偶然だけど会ったんだ」


 沢瑠璃さんが、はっきりと分かるほど身体を硬直させた。

 もう。

 引き返せなかった。


「おでん、ノラネコとケンカして、そのキズが元で死んじゃったって、お母さんから聞いた」


「……」


「その場面に、沢瑠璃さんもいたはずって聞いた」


「……」


「ねえ、それってどういうこと? 沢瑠璃さんは、なにを探してるの?」


 こんな。

 こんな沈黙が、僕の住むこの世界にあっただなんて知らなかった。誰もいないならいざ知らず二人もこの場に存在するのに、心も、感情も、この身体すらどこにもない、嘘と空虚で凍りついたような沈黙が、僕たち二人の間に最高透明度の氷壁を織り成していた。


 恐ろしく長い沈黙。いや長いと思っただけかもしれない沈黙。

 その沈黙が、沢瑠璃さんの鳴らした一つの靴音でもろく崩壊した。その靴音はたった一歩、けれど確実に一歩、僕から遠ざかっていた。


 なんの感情も浮かんでいない瞳で僕を見つめる沢瑠璃さんが、小さく唇を開いた。


「――なによ、あんた」


「……」


「なんであんたも同じなのよ。おでんと私の何を知ってるっていうのよ」


「……」


「おでんは死んでない。生きてる。なんであんたとかお母さんとか周りの人間とかにおでんを勝手に殺されなくちゃいけないのよ」


「……」


「――消えろ。あんたなんか、消えてなくなれ。私はもう、だれにも頼らない」


 それが、沢瑠璃さんの最後の言葉だった。

 一歩下がった沢瑠璃さんの足は僕の方へ戻ることなく、そのまま身を翻し、そしてもう一言すら話すこともなく歩き去りはじめることで、僕とのこれ以上を拒絶した。



 ――僕は、それからしばらくの時間を思い出すことができない。いや、そもそも憶えることをしていたかも定かでない。

 僕がかろうじて知ることができたのは、偶然会社帰りに通りがかり僕を車へ乗せてくれた父が教えてくれた、「まるで幽霊かなんかと思ったくらい死んだ表情で身動きもせずに立っていた僕」だった。

 父が僕を拾ったのは、二十時頃。僕は四時間も、立ち尽くしていた。

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