4】絶対無理なそんな場所


 沢瑠璃さんは、変わった人だった。

 まあ今さら言うことでもないけど。


 目的の赤マル地点へ到着するまで、徒歩二十分。

 本当なら、その半分くらいの時間で行けただろう。それが倍に延びた理由は、沢瑠璃さんがその道中で見せるクセ? 趣味? 主義? なんと表現していいのか分からない、とにかく変わったそれが原因だった。


 とにかく、段差のあるところへ登りたがる。塀があれば塀の上へ、ガードレールがあればガードレールの上へ。アパートでこちらと道路の先に階段があれば、わざわざ階段を上がって向こうの階段から降りてくる。駐車していた車の上へ登ろうとしたときなんかは、高校受験で寝坊しかけたとき以来に焦ってしまった。


 本人いわく、おでん探しの一環でもあるらしい。それ以上は聞けなかったけど、見晴らしのいい所から、ということだろうか。ガードレールに上がっても、発見率は変わらないと思うけど。


 というわけで、それはマズい、それは危ない、と沢瑠璃さんを止めつつ止めつつ、やっとこさ赤マルが付けられていた地点へとたどり着いた。

 たどり着いた――のだけど。


「やっと着いたなー。じゃあ、おでんの写真送るぞ……どうした?」


 不審そうな口調で尋ねてくる、沢瑠璃さんに、僕は、答えられなかった。

 僕は、必死で、下を、向いていた。胃の収縮とも、戦っていた。

 目の前にある、目的地が、いったいなにか、見なくとも、知っていた。


 これは、これは――十五階建てのマンションだ……!


 沢瑠璃さんに気を取られて途中で気がつけなかった、この方向はこのマンションがあるせいで避けていたルートだ、避けていたせいで途中の道の風景も知らなかったから気がつけなかった。

 なんで!? なんでマンションが目的地!? よりにもよって、うちの前にあるマンションよりも階数の多いマンションを!?


 そこでバカな僕はようやく、はっと気がつく。そうだ。今朝、沢瑠璃さんを見たのもこういうところだったじゃないか。その沢瑠璃さんに付いていくという時点で予想ができたことじゃないか。


 でもなんで!? なんでネコ探しの場所が、マンション!? ……うわぁ! も、もう一つ気づいたぞ。あの地図にあった赤マルの群れ。高い建造物を避けて通ってきた僕だから、今さらだけど分かった。あの赤マルの付いた場所、それは―― マンションやビル、鉄塔など、高い建造物がある位置だ!


「? 変なヤツ。まあいいや行くぞ、写真も送ってやる」


 沢瑠璃さんが歩き出そうとする気配。

 ダメだ、それはマズい! 彼女の目的はこのマンションそのものなんかじゃない、そうではなく……まず間違いなくこのマンションの屋上!


 僕は、必死で、その肩をつかんでいた。そして精神的に可能な可動領域限界まで顔を上げて、視線もギリギリまで上げて、僕より上にある沢瑠璃さんの顔を見上げていた。


「さ、沢瑠璃さん」

「な、なによ」


 戸惑いの声を上げる沢瑠璃さん。

 彼女に、僕は意と胃を決して告げた。


「ムリ」


 そのときの彼女の顔。なかなか忘れることができないだろうというくらい、ぽかんとしていた。


「……は?」


 ぽかんとした口からひゅるりと抜け出した声。それが僕の心にぐっさりと根元まで刺さる。けど。僕はもう一度同じ言葉を口にした。


「ムリです」


「……なにが?」


「一緒に行けません」


「……行けない?」


 沢瑠璃さんの表情がみるみる険しくなっていくのが分かる。僕はその表情に負けないくらいの険しい声を聞きたくなくて、沢瑠璃さんがそれ以上口を開く前にマンションの屋上があるとおぼしき上空を指さした。


「高所恐怖症なんです。自宅の二階のベランダにも出たことありません。高い所を見るのもダメなくらいです。今も頑張って吐き気を抑えてます」


「……」


 どのくらいの沈黙が……続いたのだろう。

 沢瑠璃さんは、僕を言い攻めるようなことをしなかった。険しい声を口にすることもなかった。

 ただ。


 黙ったまま僕から身体を遠ざけて、肩に置いたままの僕の手を外した。


 そしてそのまま。

 なにも言わず、ほんの一言を口にすることもなく、そのままマンションの敷地へと入っていった。敷地にはレンガの遊歩道があり、それに沿って植樹された新緑は春の陽射しを吸って嫌みなくらい青々と茂っている。沢瑠璃さんの姿はその新緑の向こうへすぐに消えて、見えなくなった。



 ――本当によく話す沢瑠璃さんが見せた、静かな追放。

 僕は何も言えないまま、消えていった背中を見送るしかできなかった。

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