5】古賀征一郎さんが言うには


「なるほどねぇ」


 僕の頭の上から、理塚くんの声が降ってきた。

 それから、しばらくの静寂。遠くから小さく聞こえてくるのは、昼休みにふさわしく思い思いに話す生徒たちの喧騒。


「だいたいのことは分かった」


 そしてまた、理塚くんの声が降ってくる。


「だからよ」


 徐々に近づいてきた理塚くんの声。


「ショックがデカいからって寝そべんな。オレら健全な学生だけど、体育館裏なんだから怪しまれるぞ」


 僕は、寝そべっていた。

 本当ならしゃがみ込む程度で抑えておきたかった。けどあまりにもショックが大きすぎてしゃがみ込む力も失せてしまって、寝そべることでしか自分を支えられなかった。寝そべっている時点で支えていないけど。もちろん授業は座って受けていたけど、その時の心境からしてあれが受けていたといえるのか、今のこの状態から推してほしい。


 ―― あれから。

 沢瑠璃さんの姿が消えてから。

 僕はたぶん、二時間近くはその場にいたと思う。少しは期待してしまっていたのだ、沢瑠璃さんが降りてきて、どんな言葉かは想像できなかったけどなにかしらの声をかけてくれることに。けど、空がずいぶんと茜色に染まっても、沢瑠璃さんの姿をまた見かけることはなかった。おそらくこちらとは違う方向から帰ったのだと思う。


 僕は身体からにじみ湧く粘っこい気持ちをずりずりと引きずりながら、帰ることにした。その粘っこい気持ちとは、罪悪感と後悔だ。


 僕が手伝うことをあれほど喜んでくれた沢瑠璃さんに、僕は「手伝えない」と言ってしまった。もとは彼女からの申し出だったといえ、無言で僕から離れていったあの時間で生まれた罪悪感は耐えがたかった。


 そしてなにより、沢瑠璃さんと過ごせるはずの時間を手放してしまった後悔はあまりに大きかった。それまで一言も交わしたことのなかった沢瑠璃さんとあれだけ話せるあれ以上のチャンスなんて、無いと言い切れる。


 僕はなんて、バカなんだ。この高所恐怖症が、これまでの人生の中で今が一番恨めしいよ。これほどこの難物をどうにかしたい、と思ったことはないよ。


 ――という話を。

 昨日の一部始終も含めて、この体育館裏で理塚くんに聞いてもらっていた。


 昼ご飯を食べる時間も惜しく、チャイムが鳴ったと同時に残った力を振りしぼって理塚くんの襟首をつかんで体育館裏まで来てもらったけど、話しているうちに、ぼくはもう寝そべるしかなくなっていた。


「……そうだね」


 彼のいうことは正しいと思ったので、僕はのっそりと顔を上げる。地面のコンクリが気持ちいいけど、それを堪能するために寝そべったわけじゃない。僕は頑張って、体育館の壁に助けてもらいながら立ち上がった。


「正直、猫探すのになんでそんなとこばかり選ぶのか、理解にすっげえ苦しむけどな。まあ、ペットのことは飼い主が一番知ってる、てとこか?」


「うん。高い所がすごい好きらしくて、いなくなった時は高い所を探したらいつも見つかったんだって。あと、おでんね。ネコて言ったら鞄で殴られる」


「え、暴力沙汰!? でもまあ、お前がそんなふうになる気持ちも分からんわけじゃないぜ。自分の好きな子いや自分の気になる子の力になれなかったんだからな」


 僕が落ち葉を手にして理塚くんを見ると、理塚くんはスムーズに言葉を言い換えた。彼の顔は一瞬引きつっていた。

 僕は手にした落ち葉を力なく放すと、ラドンよりも重いため息をついた。


「もう、こんなことって起こらないよ。沢瑠璃さんから声をかけてくれるのって」


 けれど、

「でもよ」


 そんな言葉とともに、理塚くんが精神的疲労困憊状態の僕の肩に手を置いてきた。そして、彼はにんまりと笑ったのだ。


「良かったじゃんよお前!」


「え。なに言ってんの理塚くん」


 目の前にいるこの人物はなにを血迷ってるのだろうか。今の話のどこにテンションの上がる要素があるというのか。僕はそれを口にする代わりに、そのすべてを彼を見る視線へと注ぎ込んだ。


 それでもやはり彼は笑ったままで、こんなことを言った。


「だってよお前、昨日ガッコが終わる時まで沢瑠璃さんと一っ言もしゃべったことないんだろ。それなのにお前、昨日だけであの子とどれだけしゃべったよ」


「え。あ、うん、まあ、たしかに」


「どころか、あの子のおっぱいまで触ったんだろ」


「な! ささ触ってないよそんな柔らかなもの! 手くらいだよ触ったのは!」


 とんでもないことを言い放ちやがったバカ者に僕があわてて反論すると、そのバカ者は笑みをにんまりからにやぁ、に変化させる。それで気がついた。そのことはこのバカ者に伝えてない。は、ハメられた!


「ほらぁ、なぁ? 昨日までのお前は想像の中でしか沢瑠璃さんに触ってないだろ?」


「う、ぐ」

 反論できない。


「それを昨日のお前はさ、実際の肉に触れたんだろ?」


「に、肉って言うな、なまめかしいよ!」


「でも柔らかかったろ?」


「う、ぐ」

 反論できないアゲイン。

 そこまで言うと理塚くんはいやらしい笑みをやめて、すごく嬉しそうに笑った。


「良かったじゃんよ。それってすごい進歩じゃん」


「う。うん。そう言われたらたしかに」


 たしかに理塚くんの言うとおりだった。あの険しい顔をしたのは沢瑠璃さんだけど、ぱっと明るい笑みをこぼしてくれたのも沢瑠璃さんだ。そしてその笑顔を見たのは、僕だった。あの笑顔を思い出すと、少しだけど気持ちが軽くなった。


 理塚くんは続けた。

「まあ、ちょっとしたボタンのかけ違えでちょっと残念な終わり方にはなったけど、もう一つお前が気づいてない『ピンチはチャンス』なことを教えてやるよ」


「え、なに、なんなのそれ」


 おもわず聞き返すと、理塚くんはちょっともったいぶるような少しの間を置いて、


「お前、古賀征一郎て人、知ってるか」


「……だれ? 古賀瀬一太郎?」


「逆にだれだよそれ。古賀征一郎。一般的な恐怖症克服の第一人者で、学会にも何度か論文を発表してる権威だ。知らないだろ?」


「……うん。そんな偉い人なんだ」


「ネットサーフィンしてるときにその人の記事を偶然見たんだけど、恐怖症克服で一番重要なのは『克服を決心するに至る明確な目的を得ること』と、『克服を目的にしない』ことなんだと。要は、克服することを目的にしないでなにかのために克服しようとするのが大事なんだと」


「なにかのために……」


 僕がついオウム返しに呟くと、理塚くんは今ありげに頷いた。


「なんか思いつくよな」


「……あ!」


 目の前が弾けたようだった。

 ある。あるじゃないか! 目的にできるものが!


「うおおっ!」


「うお、いきなり吠えんなよ! まだあるんだよ、その目的がそばにあればあるほど効果が出るってことと、なにも考えないより一点に集中したほうが恐怖の対象から気が散りやすいってこと。つまりよ、思いきって沢瑠璃さんに手をつないでもらってよ、猫探すのに集中したら克服まではいかなくても沢瑠璃さんに付き合うくらいはできんじゃねぇの」


「理塚くん、おでんね」


「ああ、おでんね。いやオレまでそれに付き合う必要ねぇでしょ!?」


 理塚くんのそんな声は放っておいた。放っておくほど、今の僕はみなぎっていた。


 理塚くんの言ったことは――それが実際には古賀瀬一太郎が言ったことといえ――、僕のドロドロにドロった感情を完全クリーニングするには充分すぎた。

 そうだ。僕は高所恐怖症を克服するために克服するんじゃない、沢瑠璃さんの力になるために克服しよう!


「理塚くん」

「ん、なんだ?」

「写真を一枚撮らせて」

「……なにするんだ?」

「仏壇のおばあちゃんの横に飾って崇める」

「やめろ! ばあちゃんに悪いけど不吉すぎるわ!」

「よぉし、やるぞぉ!」

「言っとくけど放課後にしろよ、沢瑠璃さんに迷惑はかけるな」

「分かった! 理塚くん、写真は諦めて今度お昼おごらせて!」

「おう、ぜひそうしてくれ!」


 僕はもうさっきまでの僕じゃないぞ。もう遅いかもしれない、けどダメ元でももう一度沢瑠璃さんに言ってみるぞ!


「そうと決まればごめん理塚くん! 次の授業の宿題やってないから先に帰るね!」


「おう、たぶん間に合わんだろけどそれもぜひそうしてくれ!」


 そして僕は走り出した。あまりにテンションが上がりすぎて、教室へ着く頃には宿題のことを忘れてる自信があった。



 ――体育館裏から走り去った彼の背中が角へ消えたのを確認してから、理塚は頭をかきながら苦笑いを浮かべた。

「嘘も方便、てな。だれだよ、古賀征一郎て」

 理塚光宗。気遣いをナチュラルに行える男。学年で誰より男子からも女子からも人気の高いことに、本人だけが気づいていない。

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