1】隣の教室の沢瑠璃さん -1

「まあ、座れ」


 教室へ入った僕に、先生が送った第一声にして唯一の言葉はそれだった。


 母親が、玄関から聞こえた衝突音、つまり僕が頭を玄関扉へ強かに頭をぶつけた音に慌てふためきながら出てきて、気絶している僕を中まで引っ張りこみ、十数発の張り手を気付けがわりに放ち、我を取り戻した僕から吐瀉物で無残に汚れた制服を脱がせ、意気消沈のまま僕がシャワーを浴びているあいだ、その一部始終をまったく包み隠すことなくすべてを担任へ伝えてくれたおかげで、どうやら遅刻については怒られずに済んだようだった。


 ただ、なにかしらの悪影響が働くことは間違いないように思えて仕方ない。


「はい……」


 と、もう消え入りたいくらいの声で返事をして自分の席に座ると、僕のお尻にスイッチがあったのだろうか、いっそ清々しいほど気持ちいいタイミングでチャイムが鳴った。それは、午前の授業の終了を報せるチャイムだった。


 先生は教科書や教材をまとめながら、


「よし、授業はここまで。今日のところは試験に出るぞ」


 と授業に出ていない僕にとってとても要らないことを言った挙句、「織野には遅刻のことを聞いてやるな」と僕にとってもっと要らないことを言い残して教室から出ていった。最後のそれ、要るか!?


 僕にとって幸運だったのは(幸運と言う言い方が合っているかは別として)、クラスメートの一人が遅刻した理由に興味を持つ人口は少ないことと、興味を持つ相手、つまり僕の友人たちには「高い所を見て吐いた」という雑な説明だけで「ああ、前みたいなね」とすぐに理解されたことだった。


 というわけで、昼休み開始五分後には何事もなかったような日常が流れていた。


 友人たちからはいつものように学食へ誘われたけど、食欲の出ない僕は丁重にお断りする。そして机へ寝そべり、とにかく頭の中を整理することにした。

 考えるのはもちろん――


(あれ、うちの制服だったよな……)


 あの、マンションの屋上で発見した一人の少女のことだった。もっともあの人影を思い出すイコール高い所を思い出す、になるので、教壇の前の机で仲良く弁当を開いているクラスメートの生駒さんと高安さんの制服を必死に見つめながらだったけど。


 精神的にも胃的にも落ち着いた今、冷静に考えるとそもそも、


 ナンデアンナトコロニイタンダロウ


 ――危なく想像が働きかけたのでカタカナ読みにしてみた。この程度の精神コントロールはできるようになったのだ。

 それはともかく、なぜなんだろうか。


 寄り道したくなってー。いや今日は平日の火曜日、朝から寄り道はない……いやそれ以前に気軽な目的達成への選択肢として間違ってる。


 朝日を浴びたくなってー。いやだったらもっと朝早くのほうがいい……いやそれ以前に気軽な目的達成への選択肢として間違ってる。


 大声で叫びたくなってー。いやお風呂に潜って叫んだほうが手っ取り早い……いやそれ以前に気軽な目的達成への選択肢として間違ってる。


 ちょっと死にたくなってー。いやまああの高さ……

 だんっ!!「うぅいっ!」

 いろんな意味で超危険な想像を爆散させるべく自分の手を拳で思いきり叩く。机と拳でサンドウィッチされた左手はやっぱり本気で痛かったけど、想像は霧散してくれた。左手、ありがとう。


 ……いや、でも冷静によく考えればそれはないだろう。僕の実家から徒歩十五分の通学時間内で、そしてこの校内で、その件に関する話題どころか噂すら耳に届いてこない。もし


 ソンナコトガオコッテイタラ


 大なり小なりの話題にのぼってくるだろうに、それがないということはたんなる考えすぎなのだろう。


 そりゃそうだ、そんな出会うことなんかそうそうないだろう、朝っぱらから飛び降

「っ!」

 禁句に反応して僕の右手が左手へ振り下ろされていた。さっきも描いた軌道をなぞって右手が疾走して、そして――


 あれ? 僕の手でない手が僕の右手をつかんだぞ。


 ふと見上げると、学食へ行ったはずの友だち、理塚くんが憐れむような微笑を浮かべながら顔を横に振っていた。

 彼が横にすべらせた視線に導かれて教室内を見渡すと、クラスメートのほぼ全員が僕を何か、何かはわからない何かを見るような目で見てきていた。

 それで、やっと気づく。


 ――ああ、僕は独りなんかじゃなかったんだ。

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