彼女とネコは高いところが好き
二ツ木線五
序章】僕と彼女の高低差
それを見た瞬間、僕の胃は踊った。
もちろん見た目そのまま踊ったわけじゃないが、母の作った朝食を思うさま詰めこんだ消化管を成している管状の器官が、一気に収縮した。
僕は、自慢にもならないが高所恐怖症だ。
小さな頃、公園の滑り台からものの見事に頭から転落し、一週間ほど生死の狭間を一人旅したことがある。そんな貴重な人生経験はしかし、校舎の二階の窓にすら近寄れなくなるという特異な能力を手に入れるというマイナス方向にしか働かなかった。卒業まであと一年を切り、担任から進路を尋ねられたとき、「校舎が一階しかない大学はないですか」と真剣に聞いたのだけど、そのときに見せられた担任の自我を失ったような呆け顔が今でも忘れられない。
しかし、それのせいで――恩には着ないので、おかげとは絶対に言いたくない――、僕はとある決意をするに至った。
それは、高所恐怖症を克服するということだった。……そのまんまじゃないか、と思うかもしれないが『恐怖を克服する』という、短い文字形成とは裏腹の難関な決意をしたことは買ってほしい。
その恐怖症克服のために打ったまず第一手が、『高い所を見る習慣をつける』ことだった。
高い所が怖い、それが高所恐怖症だけど、ただそれだけと思わないでほしい。恐怖心の産みの親は高い所を『実感する』だけに限定されるわけじゃない。高い所にいる気にさせられる『体験』もまた親の一人だし、もっと言うと高い所にいるような『想像』すら親権を握っている。一対の親から多数の子へ生命を継ぐ動物と違い、恐怖心は唯一の子を起点として多数の親が名乗りを上げるのだ。
話がずいぶんと横滑りしたが、つまり僕の場合、高い場所を見上げるとつい、おもわず、『その高い場所にいる自分を想像し、』『その高い場所にいる体験をしてしまう』のだ。そのため一日を過ごすその大半をうつむき加減で過ごさざるを得ないというこの悩みを、学校の友だちに以前したことがある。すべて聞き届けたその彼の意見はこうだった。
「つまりお前は、怖いもの見たさってやつに年頃の想像力? 妄想力? を浪費する高所恐怖症のバカな高校生、てことでOK?」
友人らしい歯に衣着せぬ端的な評価だったが、言い返せない僕がそこにいた。
だけど、高所恐怖症を克服するならスタート地点はやはり何事も第一歩から。まずは『想像の克服』からが妥当で、三ヶ月ほど前から訓練を開始。朝に家を出ると、実家の真向かいにある十階建てマンションの屋上を見ることを日課にした。
初めの一ヶ月、それはもう大変で、貧血を起こさずにすんだ日はない。ないと断言しよう。風邪をひいたバッドコンディションのときは、学校へ行こうと家を出たその刹那に卒倒してしまった。その事故? を起こしてからは、訓練は帰宅間際にするよう改善を施した。
改善を施した。それはつまり、そんな事故? に見舞われたにもかかわらず、心は折れなかったということだ。その決意の強さが、二ヶ月目に形となって表れた。高い所を見ても何も想像しない、もしくはその直前まで考えていたことを継続する、それができるようになり始めたのだ。そして一度できてしまうとモチベーションも自然と上がるもの。この習慣を間断なく雨の日も風の日も繰り返し、そして四ヶ月目となる今日。
僕は敢行したのだ。
家に帰る直前でなく、家を出た直後にマンションの屋上を見上げたのだ。まだ弱かった二ヶ月ほど前の自分、みじめに卒倒してしまった過去の自分を克服するため。
僕は、決然としてマンションの屋上を見上げたのだ。
――見上げたそこに、猫がいた。
そこに何もいなければ、クリアできていたはずなのだ。そう確信できる自信は構築したつもりだ、けれど、なぜかそこに黒猫がいた。
その想定外の現実に、そしてなにより動物といえ『そこにいることを想像できてしまう存在を見てしまった』ことで、僕の健全な消化器官は吃驚仰天、踊り狂い始めた。反射的に目を逸らしたが、一度脳裏に焼きついてしまった光景は追い払うことができない。
「おぅえっ」
四切のパン一枚、コーンスープ、小皿のサラダ、ヨーグルト、ハムと卵焼き、朝食べたそれらが土石流のように喉を迫り上がろうとしてきて、口を押さえて抑えこむ。
……なんであんな所に猫が!?
信じられない。なんであんな所……マンションの屋上、しかもあんな縁っぷちに猫が……しかも、この距離で目が合うという奇跡まで起きてしまった……!
ムリムリと音を立てんばかりに上がってくる朝食たち、僕は我慢できずに解き放っていた。
――解き放っていただろう。この前までの僕ならば。
しかし今は違う!
たしかに、吐き気に抗うため頬へアイアンクローをしかけ、その握力で奥歯がめきめきと音すら立てている(気がする)。だが、昔の僕ならとうに吐いていただろうこの瞬間、現在の僕は吐いていないのだ、たとえ顎全体を襲う激痛のおかげであろうが。どころか、猛威を振るう凶悪な塊を再び胃へと追いやりつつある。
これが成果だ。これが戦果だ。
そして顎が激痛を超えて痺れに変わるころ、ついに僕は制圧する。朝食を吐瀉物に成り果てさせなくすることに成功する。
「勝った……」
ちゃんと発音できたか定かでないが、僕は小さいながら勝鬨を上げる。
これでもう怖いものはない!
僕は小さく、だが力強く拳を握りしめて、勝ち誇りながら再びマンションを見上げた!
――見上げたそこには、猫じゃなく人がいた。
僕は今度こそ、それこそドラゴン花火のように朝食を宙へぶちまけていた。
実家の門の内側、つまり自分の家の敷地内でぶっ倒れる僕が、気を失う寸前に見たものは。
十階建てマンションの屋上の淵っぺりに立つ――制服姿の少女だった。
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