第6話
夢をみた。しかし、起きた瞬間には既に内容のほとんど全部が曖昧だ。それでも、わたしは感じている。夢の内容が幸せなお話だったのではないかというその余韻を。
◯
ホァレイは尿意を感じていた。宇宙空間における私的自由空間における原始的欲望の発散欲求的感覚だ。
おしっこがしたい。
寝て起きて居住空間をほとんど同じくする他クルー達も基本的にホァレイと同じサイクルで尿意をはじめとした食欲他基本的に避けられ難い欲求に迫られる。
朝(ホァレイ達のサイクルでいう睡眠から目覚めた瞬間のこと)、排泄処理施設が満員になり、クルーの欲望の処理具合も散漫になり、つまり、ホァレイのストレスが発散されないことは、艦内のストレス値が加速度的に臨海突破上等フェイズに移行するようなものだったが、だからといって人類の誰も本能的排泄欲求には逆らえないというものだ。
そういうわけで、クルーの中にいた迂闊な誰かがホァレイの部屋の近くに置き忘れた大きなスパナを拾い上げたホァレイの手によってスパナは美しい直線軌道を描き、艦内の慣性制御装置は少しだけ破壊された。
運の悪いことと間の悪いことは往々にして重なるものだ。
悪いことが二つ以上同時に起きると相乗効果が起きる可能性はなぜか跳ね上がり、その場にいた人はよく笑うようになる。不幸な時には笑うべきだ。
艦内の慣性制御が機能しなくなったわずかな時間に、周りより少し早めに起きてツァオロンの立ち姿を見に行っていた整備士カトーが機体をもう少しよく見ようと軽い気持ちでジャンプしていたため、カトーの両足は予定していた接地が叶わず、カトーは予定外の艦内遊泳を強いられた。
まず、カトーは彼の精神面からみて幸運にも(大好きな)ツァオロンの脚の一部に顔面からぶつかり、肉体面からみて不幸にも彼の意識を消失させた。そのすぐ後に、艦内の緊急回避プログラムに基づき、慣性制御が安定方向に働き、彼の両足は艦に帰還した。カトーの脚は二本とも折れた。
艦内放送に応えず、朝のミーティングをサボったと皆に思われたカトーを見つけたのは同僚整備士のスミスで、カトーは速やかに医務室に担ぎ込まれる。
でも、幸運にも命に別状はないと診断されたカトーを見舞いに来たホァレイに
「ねぇ、わたしのツァオロンの整備って終わってたんだっけ?」
と婉曲的になじられ、看護技官のメアリー=スレイに
「そういう話は後にしてください」
「え、でも、"今"ジゥゲイに襲われて、わたしのツァオロン動かなくて、みんな死んじゃっても知らないよ?」
「すみません、今整備に向かいます」
とカトーはベッドから上半身だけ起き上がり、動いたことによる脚の痛みで顔をしかめる。
「スミス整備士がいるでしょう」
とメアリー=スレイは言うけれど、
「いや、あいつよりカトーの方が腕いいし」
カトーは色んな感情で涙目になる。
メアリー=スレイは涙目のカトーをチラリと横目で見た。それからホァレイを見据える。
「なに?」
真正面から目を見られて少しだけたじろいだホァレイに、メアリー=スレイはキッパリと、
「ダメです」
「え、でもジゥゲイ━━」
「スミス整備士の整備だって水準以上のはずですね。だってこの艦は前線配備されるために配備された優秀な艦で、優秀な艦を動かすために優秀なスタッフが乗っていて、あなたは優秀なホァレイなのでしょう」
「え、でも」
ホァレイがなおも食い下がろうとした時にスミス整備士がカトーの様子を見に医務室に入ってくる。
「えーと、どうしましたか?朝食時間が過ぎそうですよ」
「あ、忘れてた。今行くよ」
と、ホァレイはあっさり病室を出ていく。
それで、メアリー=スレイ看護技官は肩をすくめる。カトーはシーツの端でこっそり目を拭う。
「あの子はちょっと極端よ。問題のあるホァレイよね」
「いや、でもツァオロンに上手く乗ってくれるんですよ」
と、カトーがホァレイを庇うので、
「あきれた。あんな風に言われてたのに。ま、好きにしたらいいんじゃない」
とメアリー=スレイはサッパリと言う。この話はおしまいというように手をひらひらさせる。
「整備は私がしても、いいですか?カトーさん」
「うん、頼むよ、スミス」
スミスはカトーのギブスに小さく落書きをしてから、病室を出て行く。早く怪我が治るおまじないだそうだ。
スミスが整備をしている途中でホァレイがスミスのとなりにやってきて、手元を覗き込む。
「あ、それいいスパナだよね、握り心地とか」
と、言うのでスミスは思い当たることがあって苦笑いをした。
「コレ、ちょっと前に整備箱から落っことしたみたいなんですけど、今朝艦内を散歩していたら見つけたんですよ」
「ふーん、よかったじゃん」
と、ホァレイは新しい栄養補給用のパックを開けながら興味なさげに答える。
「で、どうよ?きちんと整備できそう?カトーくらいには」
「カトーさんのツァオロン愛にはなかなか敵いませんね。でも、ホァレイにもツァオロン愛があるから僕の整備でも、大丈夫だと思いますよ」
「ふーん、よくわかんないけど、ジゥゲイが来たらもちろんやっつけるよ」
「おお、頼もしいですね、ホァレイ」
で、ホァレイは整備室の隅の壁に寄りかかって、宙を眺め始め、やがてうつらうつらと寝てしまう。
寝ている時のホァレイの幼い表情をみて、スミスはベースに残してきた妻と娘のことを思う。
ホァレイは夢の中で別のホァレイが不味そうなでろでろパックを美味しそうに飲んでいるのを見る。
で、ホァレイは夢の中でうぇぇと顔をしかめたが、艦の壁に寄りかかっているホァレイの顔は少しだけ笑顔になる。
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