Drops(飴先生)
「いいか、人間は皆死ぬ。お前も、お前もだ」
金の髪を持つ初老の男性教諭はそう言い放った。それは今でも覚えている。黒い襟付きベストを着こみ、星の金属チャームで飾られたリボンタイを付けていた。それが、ひどく鮮明に記憶に焼き付いている。
「死なない人間などいない。我々にできるのは、その瞬間を一分、一秒でも遅らせることだけだ」
不機嫌そうな顔で語った彼の名をDoomはよく知らない。先生としか呼ばなかったからだ。ただ、『Drops』と呼ばれているのを何度か耳にした覚えがあった。Dropsはいつも不機嫌そうな顔をして、教壇に立った。その表情を崩さぬまま黒板を書き、生徒を当てるときも、授業が終わって退出するときも、同じ顔をしていた。もったいぶった文語・常体で話し、常に人を寄せ付けない独特の雰囲気を身に纏っていた。『空間飛行学の担当教師は気が触れている』ともっぱらの噂で、別にそれは当の本人も気が付いていたようだったが、全く気にしているそぶりはなかった。変人だったのだ。
その頃のDoomは成績トップをマークしていて、卒業したら軍のエリートパイロットになるだろうと噂されていた。そうならなかったのは、早い話が適性検査に落ちたからだ。彼は不真面目で移り気でスピード狂だった。欠席回数はゼロだが、成績表の一番上、意欲・態度の項目にはいつもCがついていた。
そんなことはDoomにはどうでもよかったのだ。実技で使う、何もない学校内のコースをいかに速く飛ぶか、いつもそればかりを考えていた。スピード狂の不良学生だった彼を、『Drops』は呼び出した。気に入らない生徒を呼び出して補習と称し、課題を押し付け圧力をかけるというのは悪しき風習としてこの学校にも残っていた。またか、と思いながらその日もDoomは授業後の誰もいない教室に向かって歩いていた。切り抜けるのには自信がある。呼び出されるたび、反省するふりばかりが上手くなっていく。
Doomは教室の引き戸を開けた。
「遅かったな。まあいい。私の話を聞いていけ」
Doomを出迎えたのは、普段通りの不機嫌な顔をしたDropsだった。Doomは面食らった。呼び出してきた教師は怒っていることが常だからだ。扉を開けた時点で怒鳴られることだって珍しくない。
「……座ったらどうだ。立ったまま話を聞く気だというのなら止めはしないが……長くなるぞ」
ぽかんと立ち尽くすDoomへ向かって、Dropsは呆れたように言った。Doomははっとし、早足で教壇の前の席へついた。DropsはDoomに向き直ると、眉をしかめて言った。
「アキノブと言ったか。あんな操縦をしていい気になっているんじゃなかろうな。速く飛ぶというのは速度を出すこととイコールではないぞ……わかっているのか?」
不機嫌そうな声に、説教か、とDoomは思った。どうにも不可解だったのは、このDropsという男のどこか浮世離れした雰囲気のせいだ。周りとはどこか線を引き、何とも積極的に関わろうとしない。それが良い方であれ悪い方であれ、興味というものがまるでないようだった。善意も悪意もそこには存在しない。そういう風に見えていた。不良学生の彼の目から見てもそれが殊更に間違っているとは思えなかった。それで、この変人と名高い教師にも他者に苛立ちを覚えることがあったのかとか、Doomはそんなようなことをぼんやり考えていた。この時はまだ。
「あの飛び方は危険に過ぎる。おまえは、より速く飛びたいんだろう。『ボタン』の使い方を教えてやる」
冷ややかだった不機嫌そうな金の目に、ほんのわずか熱が篭った。Doomは目と耳を疑った。
「…………?」
『ボタン』と言えばミサイルの発射装置のことだ。学校内では使用が禁止されている。『ボタン』の話はタブーだ。誰も触れようとせず、押してみたいと言おうものなら生徒指導部への呼び出しがかかる。禁忌を、暗黙の了解を、目の前の男は、それを取り締まる教師の側でありながら破ったのだ。
狼狽えるDoomを見て、Dropsは嘲るように鼻を鳴らした。一年授業を受けてきて、初めて見る表情だった。
「学年首位の癖に呑み込みが悪いな。空間飛行学の授業を忘れたか? ミサイルを使った障害物の排除法を教えてやると言ったんだ。大気圏の外に出れば法などない。飛んできたデブリに突っ込まれて死ぬのはごめんだろう。おまえは、誰もかれもを置いて行く速さを求めている。違うか?」
Doomは返事をしようとした。しかしあまりの動揺で声が出なかった。がくがくとぎこちない動きでなんとか首を振り、肯定の意を示した。その日から、Dropsによる特別講習が始まった。
「何もかもを超えて遠くへ行くためには、速さと、それを制御できるだけの技能が必要だ。それが結果的に活動時間を増やし、誰もいたることのできなかった場所へと行くことが出来る」
「そうだ、そうすれば大体のものは回避できる。これだけ分かっていれば上々だ。あとは学校を出て実践で学べ。こればかりは私ではどうしようもない」
ある日の放課後、唐突にDropsは言った。半年続いた特別講習の終わりの合図だった。ノートを取っていたDoomは手を止め、閉じていた口を開いた。
「先生」
「なんだ」
「今までやった特別講義、飛行におけるかなり有益な情報ですよね」
「当然だ、私が実学で培ってきたノウハウだぞ」
声こそ不機嫌そうだったが、その響きは少し誇らしげに聞こえ、いつもと変わらぬ表情が少しだけ緩んでいるようにも見えた。
「なんで俺にだけ教えるんですか」
Dropsは眉根を寄せた。
「馬鹿言うな。クラス全員にこんなこと教えてみろ、私は即座に懲戒処分だ。教えるならひとりふたりが限界だ」
「なんでそれに俺が選ばれたのか聞いてもいいですか」
「おまえなら、このことを口外はしないだろうというのがまず第一。理由はさっき言った通りだ。それと……クラスの中で一番賢くて、一番危険そうな人間がおまえだったからだ。そして恐らく私の見込みは間違ってはいない。ほっとけばお前は目的のために何だってして、いつか、遠くない未来に事故で死ぬだろう。死ぬのは個々人の勝手だし、私にそれを止める義理なぞないが、それがもったいないと思うことはある」
「……はあ」
「まあ、お前には関係ない話だ。だが忘れるな。人は皆死ぬ。死は誰にでも訪れるが、地上で死ぬ方が宇宙で死ぬのの百倍ましだ」
卒業後、非常勤講師であった彼は別の学校へ転任していった。
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